2-7.


 事件の起きた日には午前中にも関わらず教室を飛び出しそのまま戻ってくることのなかった荒川輪子は、幸いと言うべきなのか翌日からはちゃんと学校に復帰していた。エンドレス超絶不機嫌という項目をステータスにプラスして、ではあったのだけれど。


 朝、教室に入ってきて自転車を定位置に置くなり乱暴に椅子を引き抜きドカンと着席。休み時間中は机に突っ伏したまま誰の問いかけにも応えず、授業中当てられたりしようものなら、教師は一応は回答を得られるものの代わりにいつか殺されると直感してしまうような恨みのこもった睥睨の一撃と強烈な舌打ちを受け取るといった始末。俺はまあ何というか、自分から謝罪をするようなつもりはなかったけど向こうから何らかのアクションがあれば一応は弁解じみたことを言うのもやぶさかではない心持でいたのにこれでは目を右に向けることすら恐ろしい。


 荒川輪子は左隣の男子生徒がもうこの世に存在しないことにしているようだった。何があっても俺の方だけは向こうとしないし、班体制で俺が机をくっつけようとするものなら無言で近づいたらブン殴るぞオーラで威圧してくる。そんなもんだから俺は荒川輪子から極力距離を置かざるを得ず、班体制では孤島状態、普段は左隣の席にくっついてそこだけ常に教科書を忘れて見せてもらっているようなシュールな光景になっていた。


 「悪い」


 左隣の女子も事情はわかってくれているようで、承諾していいのかわからないけども頼まれたからとりあえずオーケーしとくといった感じの面持ちで了承してくれた。いくら億劫だったとしてもやっぱ多少の近所付き合いは持っておくもんだな。うん。


 そんな感じで、端にいる荒川輪子を中心とした半径五メートル以内の教室内の空気が剣呑としたまま数日が過ぎた。荒川輪子の烈火の如き義憤は衰えることを知らず、よくそこまで体力が続くなと感心するほどずっとプンスカしていた。何日も経つとさすがに周りのクラスメイトが痺れを切らし始めるようで、


 「江戸君さ、そろそろ荒川さんに謝った方がいいんじゃない? いつまでもこうしてるわけにもいかないんだし……」


 最初に苦情が出たのはしばらくの間世話になっていた隣人からだった。


 さらにはテラサキまでが俺に個人的に話しかけてきて、


 「まあな……お前の気持ちもわからなくはないが、あいつを宥められるのは江戸、お前しかいないんだよ。俺からも頼む。別に本心からじゃなくたって構やしないよ。謝るなり何なりして、荒川の機嫌を直してくれよな」


 皆揃いに揃って俺の心労を増やしたがる。何だって俺がそんな面倒を負わされなきゃならないんだ? 勘違いされてるようだけど俺は謝罪のプロなんかじゃないぞ。クラスメイト間の不和を正すのはテラサキ、担任であるお前の仕事じゃないのか?


 頼まれたからと言って俺が「仕方ねえなぁ」とか言って嫌々ながらも度量の広いイケメン主人公的な行動を起こすことなんてもちろんなく、荒川輪子が劣悪な放射性物質の如く周りにまき散らす鬱憤は目には見えずとも確実にクラスの空気をギスギスしたものに変えていった。クラスメイトたちが気分を落としていくのが目に見えるほどということはないけれど、それでも右前の角の席を発生源とした得体の知れないダークな怨念は着々と教室中に伝染しつつある。テラサキはもちろん、それぞれの科目担当の教師たちの顔までこのクラスに入るたびに見ていて哀れになるくらい暗いものに変わっていった。


 さすがの俺も、何とかしなきゃいけないと思い始めた。


 本来ならばそんなんごめんなさいサヨウナラと即答したいところだけど、このまま行けばもっと厄介なことになり得ないとわからないほど俺もバカじゃあない。何てったって、信頼できる統計を見たわけではないがクラス世論はどうも俺が悪いという方向で落ち着いているらしい。常識的に考えれば数々の奇行と奇怪な発言で変人というイメージを獲得している荒川輪子の方が加害側に立てられるべきところだろうけど、このクラスではもはやその常識は通用しない。荒川輪子は最初から変人なのであってかつその事実は既にこのクラスでは周知の事実、教室内ので発生する現象の大前提となっていたためにその理由で彼女を責めようとする者などこのクラスには存在せず、逆にそんな彼女の逆鱗に触れるような愚行を犯した俺が悪者扱いされているというわけだ。なんてこっちゃ。


 とにかくそんなわけで、このままクラスの空気が悪化すればそのうちツケが回って来ないとも限らない。そうなれば今よりはるかに俺にとって悪い状況になることは火を見るより明らかだ。さてどうしたものかと、俺は机に腰かけつつこのクラス唯一の人間以外の住人を眺めながら思う。


 荒川輪子はトイレ休憩中のようだ。自転車と向き合いながら何かしていたと思ったら自分の机に立て掛けて外へ出て行ってしまった。おかげで迷惑なことにその自転車は今や通路を塞ぐ形になっているのだけれどそれも今やこの教室内では日常茶飯事である。誰も気にせずに綺麗にそこだけ避けているし俺もまたその点に関しては今のところ気にしていない。気にするべきことは他にあるからな。



 「荒川にどう謝るか考えてんの?」


 声をかけてきたのは後ろの席の奥田だ(以下奥田)。後ろからやたらとちょっかいを出して来る冴えない男子(勝手なイメージ)の彼を、俺も近所付き合いのよしみから数少ない話し相手として最近一応は認め始めた。


 「いや、謝るつもりなんてねえよ。ただ、このままこいつに面倒事をしょわされ続けんのもなーって思ってな。いやはや、つくづくめんどくせえ奴だ」


 「とか言っちゃって。ほんとは怒られて傷ついてるとかじゃねーの? 嫌われてないか心配してんじゃなくて? そうならそうではっきり言えばいいのによー」


 俺は黙って拳を軽く一発お見舞いする。こんな脈絡もない下世話な話しかしないからお前は冴えない男子なんだよ。


 「うそうそ、冗談だよ。マジにするなって。実際、荒川ってほんと絡みづらい奴だよなー。自分が好きなものけなされたからって、普通あそこまで根に持つかよ? 自分がターゲットにされなくてほんと良かったと思うよ。お前には悪いけど、ハハハ」


 初回班活動の時のことを思い出してもらえばわかると思うが、こいつは異性に興味津々で男同士の会話に女の話題が上がると急にペラペラ饒舌になるのだが実際に異性と対面すると急にかしこまっちゃうタイプの男である。いやはや、つくづく冴えない野郎だ。


 「そんな風に言うのは良くないよ。荒川さんだって、本当にその自転車が好きだから、自分の家族のように大切にしてるからあそこまで本気になっちゃったんでしょ? 確かに行き過ぎたところもあるとは思うけど、人が何かを大事に思う気持ちをバカにするのはよくないと思うな」


 今度は左隣の女子(すばる。やっと名前を覚えたけど漢字が難しいから以下スバル)が割って入ってくる。人格者でおしとやかな女子生徒に反論されてしまい、奥田は例の如く罰が悪そうに口を閉じたので今日のところはいなくなったことにする。


 スバルは続けて、


 「私も正直、荒川さんの気持ちがわかってるなんてとても言えないけど……。でも、江戸君だって自分が大切に思ってる物を悪く言われたりしたら嫌でしょ? 荒川さんもきっと、おんなじ気持ちなんだよ。だから、ひとことで良いから謝ってあげてよ。私からもお願いする。そしたらきっと、今よりもっと良くなるから」


 俺は廊下側を向いた形で机に腰かけ、奥田と話していた。だからスバルの真心こもった演説を背中から聞く形になっていたのだけれど、真摯に語りかけてくる女子の言葉を全部目も合わせずに受け流すほど俺も薄情者ではなく、俺は途中で机から降りて後ろへ振り返っていた。そして、眼鏡の奥から覗くスバルの真面目色の瞳に対し、


 「んなこと言われてもなあ――」


 答えようとしたのだけれど――



 ――ガコン。



 適当な間合いを定めるために数歩後ろへ下がろうとした俺の踵に何かぶつかった感触がするのと共に金属同士が当たったような鈍い音がする。何に当たったのかなとのんびり気長に考えようとした矢先――俺はそこにあったであろう物体――その時そこにあり得た物体、確かそこにあったはずだと俺が瞬時に記憶から引きずり出した物体を想像し――恐怖した。全身が鳥肌立ち、その悪寒のあまりこのまま気化してしまうのかと一瞬思ってしまったほどだった。


 それは、その正体に気が付いた時に俺はそれが地球が真っ二つレベルにヒビ割れた音でついに世界の終焉の日がやって来たのだと勘違いしてしまったほど、恐ろしい事実を告げる音だった。


 

 後ろを振り向いた時には、もう遅かった。



 踵蹴りを入れられてバランスを崩した荒川輪子の自転車が、重力に逆らうことなく床へ崩れ落ちる瞬間を俺は目撃した。



 そしてそこに、ウルトラスーパーピッタリなタイミングで荒川輪子は戻ってきた。

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