第26話 娘と女、2人の進路 (前)


 赤字で『南雲茉莉花なぐもまりか』と書かれたあの紙が投げ入れられてから、その後は何も起こらなかった。

 それ以上の警告も、具体的な脅威もない。


 外に出るときは、常に周囲に警戒を払っている。

 けれど誰かがあとをつけている様子も、駐車場や周囲の物陰に潜む影も、ない。

 茉莉花の居場所が確定できたから、しばらくそのまま泳がせる。

 そういうことなのだろうか?

 けれどその考えは、安易に過ぎるようにも思える。


 コチラとしては明確な警告を与えられ、そのまま放置されることは、精神的にキツい。

 もちろん何かが起こって欲しいわけではない。

 欲しいわけではないが……

 警告を与え放置しておくとは、非常に効果的な策だ。

 それを俺が、自分の身体のしんどさで証明している、それが気に入らんがな。




          ◇





「どうだ、順調にやっているか?」

「さーてな、そいつはどうかな。

 北見家という庶民の家族ごっこに混ぜてやってはいるが、それに意味があることかどうか……

 まあ、元気で楽しそうには、しているぜ」

「そうか。

 なら、それはそれで、いいじゃないか。

 案外、それが彼女の幸せかもしれんぞ」

「いや、そうも言ってられないな」

「なんだ?

 不確定事項でもあるというのか?」

「ン、コチラの居場所を知られている」

「……」

「どうした? 西?

 聞こえているのか?」

「ん、ああ。

 すまんな。

 いったいなぜ、それが確認できた?」

「ポストに投げ込みがあった。

 『南雲茉莉花』と赤字で書かれただけだったがな。

 たしかに外出して、買い物もしたさ。

 こもりっきりで引きこもっていた訳じゃない。

 それにしたって、一般人のイタズラで『南雲茉莉花』と書いて、部屋を特定して投函とうかんするなんてあり得んだろう。

 探し回っている連中に、居場所がバレていることは間違いない」

「北見が工場に……

そうだな、忘れものでもしてきたというのか?」

「……つまらん冗談はよせよ、西。

 潜入するのに身バレするようなものを、この俺が持ち込むと思うのか?

 オマエはそういう奴に、大事な仕事を依頼してんのか?」

「……いや、すまなかった。

 馬鹿にするつもりはないんだ。

 ただな……」

「ただ、どうした?」

「こちらでそういう動きは掴んでいない。

 探すのに協力しろ、という話が対立する俺にまでくるほどだからな」

「フーン、撹乱かくらん情報か、あるいは西のライバルグループも、仲間内でイロイロあるのか……

 何か情報が掴めれば、と思ったんだがな。

 ポストに投函されて以来、相手の動きがまったくない。

 だから助かるといえばそうだが、逆に相手の尻尾も掴めん。

 だから対応のしようがない、というのがコッチの現状だ。

 さすがに俺も、長期間を仮眠で過ごすのはキツすぎるからな。

 どうにかしたいところではあるが……

 その様子じゃ、西様に直接の御支援、御協力をたまわるってのは、どうやら無理そうだな」

「すまん。

 こちらでも何か掴めればすぐ連絡する。

 逆に北見の方でも何かあれば俺に連絡を寄越せ。

 想定外の事態ゆえ、できる限り対応する」

「しゃーないな。

 当面、なんとかするわ」

「そう長くはならんはずだ。

 今の内閣は事実上の選挙管理内閣だ

 1月末日に冒頭解散になる。

 年明けに候補者は一気に決まるだろう」

「それでもクソ長いぜ。

 今日が29日か?

 凜々花の高校がはじまっちまえば、もうお手上げだ。

 両方には俺は張りつけない。

 なんせ1人しか、いないんだからな。

 強引に口を割らせて録音で済む話なら1日も掛からんが、そうもいかないしな」

「決まりそうな気配はないのか?」

「今のところな。

 もう少しプレッシャーを掛けてみるさ。

 お嬢様には嫌われるかもしれんが、危険がある以上、そうノンビリもしてられん」

「こちらでも動きは探ってみる」

「頼むよ、ま、いくらか話せてスッキリしたよ」




          ◇





「あっ! それそれ、その昨日の新聞。

 テーブルの上に置いて、パパ」

「ン、真ん中でいいか?」

 凜々花が鍋つかみで、火傷やけどしないように土鍋を持ってくる。

 今日の朝メシは、夕べの水炊みずたきの残りをおじやにしたものだ。

 残り物をちぎって火にかけ、米をブチ込んで最後に卵を落とす。

 ただそれだけの、シンプルイズベストな料理だ。

 北見家では土鍋なんて、普段は使わない。

 娘と2人で鍋にしたって、しんみりと寂しく、サマにならない。

 いつもは両手鍋で煮る程度のなんちゃって鍋で、ただの煮込みのようなものだ。

 けれどやっぱり3人だということもあり、積極的にみんなで食べるような、イベント系の料理ばかりしている。

 夕べは鍋、その前はホットプレートで焼肉、さらに前はホットケーキまで……

 メニューについては我慢することが多々あるが(ホットケーキはメシじゃないだろ!)、凜々花の、あるいは茉莉花の思い出や経験になるなら、それもいいかと思う。

 そんな2人の様子をながめているのも、悪くはない。


 ふと鍋敷きにしている新聞に目をやると、そこには学習塾のチラシがはみ出していた。


 ――塾か……


 この冬休みがはじまる前のこと。

 凜々花は友だちが通っているという学習塾のチラシを見ながら、ウンウン唸っていたことがあったのだ。

 ――体験無料!

 ――必ずぐんぐん伸びる

 そのチラシには、そんな威勢のいい文句が太字でデカデカと踊っていた。

 にらめっこしつつ、しばらく悩んではいた凜々花だったが、今回の冬季講習は見送った。

「行った方がいい気はするけれど、進学するのがいいのかどうか、決めきれないから」

 参加をしなかった理由を、そう俺に言っていたことを思い出した。


 凜々花自身の成績について、俺は特段の心配はしていない。

 高校自体もそこそこのところへ進学したし、今の成績も特別優秀……とまでは言わないが、俺が口を挟むようなほどではなかった。

 ただ進学か就職か、はたまたそれ以外があるのか、それについて決めるのは先送りにした。

 それだけのことだ。

 人によっては『早い方が絶対にいい』なんてのもあるだろうが、俺自身が何かを娘に押し付けるつもりはなかった。


 何を選ぶにせよ、凜々花の人生だ。

 遅かれ早かれ、自分で選べばいいことなのだ。

 茉莉花ほどに、急いで決める必要もない。

 急いで決める必要も、ないんだが……


 ――自分で選んで、決めるか……

 フム、あえてここで持ち出してみるか? 


「なあ、凜々花。

 来年はどうするんだ? 塾。

 今年の冬は、チラシだけもらってきたものの、見送ったというか、決まらなかったというか……」

「あー、それね。

 うん、どうしようかな……」

 凜々花はうつむいて、左手で加工用に持った椀の中身を、箸で突っつくようにほぐしている。

 もちろん、そんなにほぐす必要はないだろう。

 躾に厳しい家庭なら、ビシッと注意するところだ。

「時間てのは、あるようでないからな」

「それはまあね、わかっているんだけどー」

「ま、俺自身はどっちでもいいと思うがな。

 それが進学であろうと、就職でも専門でもな。

 就職してからだって、本気と熱意があれば大学に行くことだってできるさ。

 逆に進学して合わずに、やめて就職する奴だって、もちろんいるだろうからな。

 行ってみないと、やってみないと、わからないってことは多いからな。

 ただな、タイミングや流れってのもあるぜ」

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