第6話 命の対価――身代金――


 俺の考えた、そういうこと。

 その答えとは、身代金の可能性だ。


 身代金の可能性はある…のか?

 俺には一銭の価値も無くとも、奴らには価値がある?

 コイツを使って上手くすれば、あるいは……


 フン、それも悪くないな。

 コイツを外へ逃してやって、偽善を気取ってもいい。

 なんなら依頼人はここの幹部だ。依頼人から返してもらったっていい。

 面倒ではあるが、1億で俺が取引したっていいんだ。

 いずれにせよ、水と缶詰めなんてつまらんモノだけじゃ、俺の怒りの持って行き場がない。


 俺は自分の思いつきにニヤけてしまった。

 いいじゃないか!

 コイツはひどく面白い、意趣返しに違いないぜ。

 よし、決まりだな。

 一発かましてやるぜっ!


 そうと決まれば、コイツをどう動かすか、だな。

 幼子おさなごやペットじゃあるまいし、小脇に抱えることは無理がある。

 なら、その気になるようにひとつ煽ってやるか。

 俺を煽ったのはコイツだ。

 その責任も、併せてとってもらうか?

 なかなか面白くなってきたぜ。



「なあ、アンタも大変だな。

 こんなところに押し込まれて、しんどいだろ」

 女に警戒させないように視線を合わせず、柔らかい声になるように作って、俺は語りに入る。

「ああ、いいんだ。

 別に返答はいらん」

 掌を立てて右腕を差し出し、他意がないことをアピールする。

「夜も毛布1枚じゃ、寒かろう。

 おまけに缶詰を好きに食え、水も勝手に飲めってんだからな。

 ほったらかしのペットのような扱いじゃねーか、こいつはよ。

 さぞかし、アンタにとって屈辱的で、不当な扱いだろう。

 なら、腹の立つこともあるよな。

 それでもどうにもできない自分に、失望することだってあったかもしれん。

 苦痛な時間だ」

 俺は努めて視線を合わせず、女の横を見たり、天井を見上げたり、時に床に視線を落とす。

 そうしながら、注意深く視界の端にうつる女の様子を伺う。

「大変だったな。

 本当だったらこんなところにいないで、別にやりたいことがあっただろう?」


 女にイメージさせるように、十分に間をとる。

 彼女は横を向いて目を閉じ、下唇を噛んでいるように見えた。


「俺にわかることは、アンタがここに居たいなんて、これっぽっちも思っていないってことだけだ。

 ここに居たって、アンタが思い描くこと、何もできないだろ。

 楽しいことも、これからの予定も、全部が幻みたいなもんだ。

 この部屋にあるのは、昨日と同じ1日だ。

 望まない、受け入れたくない、現実だと信じたくない……

 そんな1日の繰り返しだ。

 この先、自分はどうなるのかという、不安。

 自分の命の心配と……恐怖。

 昨日と同じなら、もしかするとマシかもしれんな」


 自分のこの先を思い描いたのか、女は身じろいだ。

 

「俺は北見、北見淳(きたみじゅん)ってもんだ。

 悪かったな、名乗りもせずに、長い話で時間を取っちまった。

 ちょっと知り合いに似てたんでな、立ち去りがたく話し込んじまった。

 ……これを飲み干したら、もう出て行く。

 邪魔したな」

 ペットボトルを掲げて振ると、残りの水は4分の1程度だった。

 ゆっくりキャップを外し、チビチビと名残惜なごりおしそうに飲んで行く。

 わざわざいっぺんに飲み干さず、俺は時間を使う。

 女が座る姿勢を変え、顔を上げたり下げたりする。

 耳たぶをしきりに揉んでいるようだった。


 ――俺はボールを投げた。あとは好きにしろ。


 すでに、あとひと口ほどしか水はない。

 ボトルを蛍光灯に掲げ、片目をつむり底からかすように見上げる。

 そして俺は、一息に飲み干した。

 両手で潰すと、ピキピシッと音を立て、ボトルはひとつの小さな塊になってしまう。

 空気が入らぬようにキャップを閉め、床に転がし立ち上がる。

 尻を両手ではたいて埃を払い、上体を起こすと、自然に視線がぶつかった。

 

 見下ろす、俺。

 見上げる、女。

 

 そのまま……

 ひとつ、ふたつ、みっつ。


 見つめ合い、数えて待つも……

 果たして女は応えなかった。


 ――まあいい、十分チャンスは与えた。

 乗ってこないなら、それもいいだろう。

 俺の人生じゃ、ないしな。

 明日、アイツに朝一でクレームを入れんとな。


 そして俺が、1歩踏み出したそのとき――


「マリカ。

 ナグモ、マリカよ」

 背後から、か細い声が投げられた。


 ――遅せーんだよ、まったく。

 俺は薄ら笑いをみ殺して振り返り、答えた。

「いい響きだな、その名前」

 その言葉に、欠片も嘘は無い。

 女は苗字こそ違えど、下の名前は同じだった。

 かつての妻と……

 ――驚いたな、まさかこんな偶然があるとは……


 女は、南雲茉莉花なぐもまりかと名乗った。

 東京から帰るところをさらわれたのだと語る。

 改めて正面から向き合い、話を聞いた俺は、再び感心してしまう。

 感心したのはコイツの話ではない。

 あくまでも、『コイツの面影おもかげ』にだ。

 

 ――やはり、アイツに似ている。

 けれども、10年もの時が過ぎている。

 俺の記憶もピントがボケてしまっているのかもしれない。

 ところどころ似ているだけなのに、コイツの面影を記憶の中に生きるアイツへと、寄せてしまっているのだろうか? 

 

 どちらかといえば童顔、丸顔の可愛らしい顔立ち。

 顔の彫りは深くないが、はっきりとした眉に一筋縄では行かなそうなこだわりのようなものを感じてしまう。

 面倒な奴かも、という思いがチラッとよぎった。

 一目で高価そうなシルクのブラウスは、蛍光灯の光を反射して肩や胸元に曲線を描く。

 その白さ故に、ところどころ黒く薄汚れているのが余計に目立つ。

 黒く細く伸びる髪は毛先でゆるいウェーブがかかり、胸元へと落ちて広がる。

 残念ながらこんな環境だから、髪の所々に跳ねやほつれは隠せない。

 けれどそれでも十分に、茉莉花の顔を、肩を、細く見せた。


 コイツの性質がそうなのか、この場所のせいか、その両方か……

 茉莉花はその美しさと相まって、はかなく頼りなげに見えた。



 女が俺の仕掛けに応え、茉莉花と名前を名乗ったところで、すでにコイツの心は決まっているはずだ。

 俺について一緒に逃げる気がないなら、いちいち名前を教える意味はない。


「俺と行くか?」

 茉莉花はそれでもなお警戒しているのか、しきりにまばたきをして言った。

「どこへ?」

 俺は茉莉花の前に進み、腰を落とす。

「オマエはどこへ行きたい?

 家か? 友達か誰かの家か? それとも、警察で保護してもらうか?」

「私は、わたしは……」

 茉莉花の歯切れは、ひどく悪い。

 思い通りにいかずカリカリしそうになるが、なんとかこらえて表情に出ないよう抑えた。

 もっとも茉莉花の方には、俺を観察する余裕はなさそうだが。

「私、どこに行ったらいいのかしらね……」

 そう言って目を伏せる。


 ――何を言いだすんだ、このメンヘラ女が!

 この非常時にごとか?

 家でもどこでも、とっとと好きに答えりゃいいんだよ!


 ブン殴りたい衝動に駆られるが、俺は思案するように自分の口もとへ手をやり、見えないように指を噛んで堪える。

 どうする? 

 面倒なら置いて帰るか?


「なあ、今日はさ、12月26日なんだよ。

 いや、24時を回っているから、正確には27日か。

 何も起こらなくて、いつも通りなら、今日、茉莉花は何してたと思う?

 そういうことで、いいんじゃないか。

 ♪もういくつ寝ると、お正月ってな。

 ウィーウィッシュユア、なんちゃらでもいい。

 残念ながらクリスマスは終わっちまったが……

 アンタぐらい若くて綺麗なら、色々あるだろ?」

「私は、本当なら……

 アメリカにいたはずだったけど……」

 恥を忍んでフレンドリーに下手クソな歌を披露し、ツッコミどころを用意してやったが、お気に召さないらしい。

 茉莉花は壁にもたれ、天井を見上げる。

「でも、しなきゃいけないことが、期待されてることがあって……」

「なら、こういうことか?

 迷って悩むなら、この場所でも、この状態でも、いいってことか?」

「フフッ、そんなことあるはずないでしょ」

「なあ、はっきり言っていいか?

 いや、ひとこと言わせろよ。

 ただ風に吹かれ、吹かれるに任せてなびくだけの奴には、何も掴めないぜ。

 一生をこんなはずじゃなかった、となげくだけだ。

 アンタのようにな」


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