第5話 マボロシの女


 いったい何だ、これはどういう……

 いや、コイツは俺の知らない誰か、だ。

 昔の女じゃない。

 何度もなんども繰り返し、自分に言い聞かせる。


 1分か、30秒か、あるいは3分なのか……

 体中の感覚が狂い、ズレてしまい、わからない。

 自分へと言い聞かせる言葉だけが頭の中で上滑りし、身体がいうことをきかない。

 ただただ、愛した毱花まりかに似た女を、俺は見つめ続けた。


 俺が壊れたように呆けていたあいだにも、やはり世界の時間は過ぎているらしい。

 女は半身を起き上がらせた姿勢のままで、ジリジリと部屋の奥へと後退し続ける。

 その黒い瞳には、あからさまに怯えと恐怖が浮かんでいた。

 突然現れた不審者たる俺から、わずかでも遠ざかろうとしているのだろう。

 それは当然の行動だ。

 だが、女にとってはあわれなことに、部屋には壁がある。

 やがて限界が訪れ、壁にこれ以上下がることを拒まれ、女の後退りは止まった。

 それでもなお、無意味にも下がろうとするかのように背中を壁にピッタリとつける女の姿に、俺は思わず笑ってしまった。


 ――できもしない、無駄なことを……

 つくづく思うが、人間って奴は最低だな。

 自分より下の状況だと思える人間を見ると、ホッとひと安心しちまう。


 壁に阻まれ下がれないにも関わらず、なおも下がろう、逃げようとする女。

 扉を開けて外から入り、立ち尽くしたまま女を見下ろす男。

 今となっては、どちらがパニックかは明らかだ。


 女のその様子からして、この部屋に宿泊しているはずがない。

 おそらく監禁でもされているのだろう。

 つまり、俺の目的である1億の金塊には、この女は関係ないということだ。

 金塊があるのか、ないのか……

 それだけが俺にとっての重大事項なのだから。

 たとえ女が、どれだけ記憶の中の過去に似ていようとも、だ。


 怯える女から視線を外し、部屋の中を見回す。

 壁掛けの時計。

 飾り気のないスチールの書庫が2つ。

 ミネラルウォーターのダンボールが2つ。

 窓には木の板が打ち付けられていて、道具なしで外すことは難しそうだ。

 床には散らばる缶詰食品の類。

 空のペットボトルと水の入ったペットボトルが散乱していた。

 腹が減れば勝手に食え、喉が乾けば好きに飲め、ということなのだろう。


 監禁とはいえ、かなりいい加減な管理が見て取れた。

 部屋の左手奥に扉があるだけで、俺が入ったハンガードアを除けば、ほかに通じるところはなさそうだ。

 ――扉の奥を確認してみるか。

 足元の缶詰を足で払うと、思いのほか勢いよく飛んでいき、ボゴッと鈍い音をたてて壁にぶつかる。

 女が「ヒッ!」と息を飲んだ。

 脅すつもりはさらさら無かったが、まあ、そんなことはどうでもいい。

 足早に扉の前に行くと、躊躇ためらいなくドアを開ける。


 ――チィッ、ただの便所か、クソ!

 嫌な予感が頭をかすめ、乱暴に扉を閉めてしまった。

 ――もしかすると、この部屋にはお宝は無いのか?

 すぐさま書庫に駆け寄り、片っ端からファイルや本を床へ叩き落とす。

 何も、無い

 ここにも、そこにも、どこにも、ないものは無い。

 振り返り床を凝視するも、薄汚れた古い長尺シートが張られているだけだ。

 床下収納など、無い。

 続いて天井も見上げて見るも、こちらもありそうな雰囲気は欠片もなかった。

 ヤニ汚れが浮いた天井を触った様子もなく、点検口の金具には傷ひとつない。

 先程叩き落とした百科事典のように分厚いカタログを掴むと、ミネラルウォーターのダンボールに叩きつける。

 八つ当たりのように何度ブチ込んでも、ただ水が溢れるばかり。

 叩きつけることを止め、怒りに任せて蹴り飛ばすが、爪先に鈍い痛みが走るだけだった。


 その部屋のどこを探しても、デカい満月は、金塊は存在しなかった。

 ――俺が騙されたか? それとも計画がバレていて、ほかへ移動された?


 俺を騙す意味など、ないはずだ。

 俺が邪魔で呼び込んだなど考えられんことだが、仮にそうだとしても、外のストックヤードで射殺するなり、場内道路でき殺すなり、好きにできるはずだ。

 では、部屋を間違えた可能性は?

 いや、それはない。


 いったいどういうことだ?

 手掛かりは無く、バレているなら危険極まりない。

 すぐにここを撤収するべきか?


「――クシュン」


 すっかり存在を忘れていた女が、不意にくしゃみをした。

 俺はそちらへ向き直り、顎をさすりながら思案する。

 ――もしバレて移動したなら、最近かもしれない。

 ならばコイツが何か、知っている可能性もあるか?

 アタッシュケースの中身を知らなくても、置かれていたかどうか……

 それだけでもわかるならば。


「おい、オマエ……

 いつからここに居る?」

「……」


 俺は転がっていたペットボトルを1本拾い上げると、キャップを捻り口に含む。


「いつからここに居るか、聞いている」

 女は答えず、これではまるで独り言だ。


 ――ダンマリかよ。

 暴力で教育されちまったか、警戒しているだけか……

 いきなり殴りつけるのは俺の趣味じゃ、ないな。

 俺は部屋の中央に進み、腰を下ろして胡座をかく。

 床のコンクリートの冷たさが伝わってきた。

 上から話しかけるよりは威圧感がなく、女には少しはマシだろう。


「逃げたきゃ、連れて行くこともできるぞ」

 ぶっきらぼうに言い放ちエサを撒いてみる。

 が、それでも女に反応はない。

 俺は女を見ることを止め、手近にあった缶詰を拾い上げる。

 女が相手にしてくれない手持ち無沙汰を埋めるように、右から左、左から右へと投げて手遊びする。

 そうして女に、考える時間、落ち着く時間を与えようとした。


「なあ、アンタさ……

 望んでここにいるんじゃ、ないんだろう?

 どうしたいか、言ってみろよ。

 俺がアンタを監禁した奴と関係ないのは、なんとなくわかるだろ。

 考えてもみろ。

 便所を調べたり、書庫を漁ったりするか?

 そんなわけねーよな。

 よく言うじゃねーかよ、『敵の敵は味方』ってな。

 俺には俺の目的がある。

 アンタを監禁した奴らとは別のな。

 わかるだろ?」


「……ってよ」


「ん? 悪いな、もう1度頼めるか」


「出てってよ!」

 突然大声で叫び始める。

「あなただって、あいつらと一緒でしょ!

 何が違うって言うのよ!」

「おいおい落ち着けよ、いま説明したろうが」

「やってること、同じでしょ!

 違うと思ってるのは、自分だけじゃない。

 下品で、暴力的で、最低のクズよ」

 八つ当たりでダンボールを蹴り回したのはマズかったかもしれない。

 ビビらせちまったか?

 ならばここは……


「アンタ、面白いこと言うな。

 ハッハッハッ、実に面白い」

「……どういう意味よ」

 女は俺をにらみつけながら言った。

「馬鹿正直じゃ、人生は長生きできんぜ。

 『俺を利用して、自由になってやる』ぐらいの、欲と知恵がないとな」

 俺は手遊びしていた缶詰めのプルタブに指を掛けた。

 パカッと小気味いい音が響き、なみなみと入っていた汁が溢れそうになる。

 慌てて口を近づけ、音を立てて脂混じりの汁をすする。

 それから中身を摘まんで、口へと放り込んだ。

 ――さばの水煮か……

 久し振りに食ったが、美味いな。


「だいたいな、俺を煽って怒らせて、アンタに何の得がある?

 ココの奴らと同じことを、俺にやらせようってのか?

 オマエを殴って、犯せとな」

 女は毛布を握り直し、よろけながらも立ち上がる。

 だが、その腰は引けていて、震えている。

 俺にその気があれば、簡単に押し倒せることだろう。


 左袖をチラッとめくり上げ、時刻を確認する。

 ――どうする? 撤退するか?

 いまさらコイツに何か聞き出したところで、どうにもならん。

 完全な無駄足だ。

 骨折り損のくたびれ儲けって奴か。


 だだ、西の奴の情報が間違っていただけのこと。

 俺の仕事にぬかりがあった訳じゃあ、ない。

 それにしても……

 俺が得たものが、ミネラルウォーター1本と、鯖缶とはなぁ……


 しかし、そもそも明日だったか?

 その取引に使うための1億相当の金塊だったはずだ。

 直前に幹部さえもが、知らん場所へ移すか?

 あるいは仲間割れ?

 まあ、しょっちゅう仲間割れしているような奴らだからな……

 が、それならこの工場へ運び込む前にどうにかしちまうほうが、仕事そのものは簡単じゃないか。

 

 参ったな。

 この女がどうにか――といったって、金塊を飲み込める訳がない。

 アナルに突っ込む奴もいるが、そりゃ量による。

 20kg弱の重量を体に仕込める人間など、果たしているだろうか?

 あり得ない。

 漫画だとしても、不可能だ。

 じゃあ、ほかに何がある?

 俺をここのクズどもといっしょくたにして馬鹿にするような腹の立つ女に、そんな価値があろうはずが……


 …………


 ……


 ――⁉︎ 


 まさかな……


 いや、もしかすると、そういうこともあるのか?


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