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「何とのう... これが、地上であるとは... 」


榊の幻惑は消え失せ、轟く音が地が震わせる。

所構わず落ちる雷光は 皇帝が広げた十二翼にも絡み、赤いトーガの上、ミカエルの真珠に輝く翼から発される虹色の光が くらい霧の障壁の中の空気を極彩に染めている。天なのか 地界なのか...


「トール、前に出ないで」


トールや オレらの前に、レミエルが降りた。

楽に立てる訳じゃねぇけど、さっきよりはマシだ。

白いルーシーの小瓶を取り出し、どこかへ吹いた

シェムハザが

「オフィエル、人を入れるな。

ジェイド、デモリエルを降ろせ!」と めいじた。


「ヘルメスを手伝おうかな」


ヴィシュヌが神殿の上へ移り、シェムハザが泉にも 青い防護円を敷く。


「鎖を解け、ミカエル... 」


荒い呼吸に喘ぐ 皇帝の言葉尻が震えている。


ミカエルは、皇帝に答えず

「ヘルメス、頭部の髪を掴んで。

天使だと 使われる恐れがある」と、地を蹴り

血肉の男の隣に降りた。... が、左腕を動かした。


ヘルメスが「本当に 言ってんの?!」と

グリーンの虹彩の眼を見開いている間に

腹が割れたキュベレの身体が 皇帝に向かって飛ばされ、左腕に鎖が巻かれていく。


十二の翼で、ここからはキュベレの身体が どうなっているのか分からないが、地を割る落雷が増した。皇帝の手に落ちていることは確かだろう。


血肉の男は、黒く長い髪にターコイズの眼。

皮膚が張られていれば、ソゾンに似ていた。

ミカエルの剣の先が 顎の下についている。


白い焔に包まれた黒い影の男の周囲で、プツプツと発泡し、地面から立ち上がっている泥濘が 焔と混ざり合い始めた。


『破壊しろ! ルアハに触れさせるな!』


強く発光する稲妻と雷鳴の間に

司祭の声とガラスを掻くような音。天上の光。


青銀の眼の影人霊たちが、血肉の男に手を伸ばした。腕に胸に、黒い髪や背に。


「ミーカーエールーう... 」


泥濘の泥に塗れたキュベレのブロンドの髪を握った ヘルメスが

「この人、まだ口が動いてるんだけど

また何か 良くない事を... 」と、腕を伸ばし

自分から キュベレの頭部を遠ざけて言った。

周囲に立つ天使たちが 剣で頭部を炙っている。


髪だけでなく、頬にも血泥がついているが

それでも尚、美しい。


モルダバイトの眼は ミカエルの背に向いている。

あんな風に髪を持つのは... と 苛つきが湧いたことに気付いて、瞼をギュッと閉じると 頭を振った。


やばい。苛つくだけじゃなくて、ヘルメスや天使たちに妬く気持ちもあった気がする...

キュベレは首を落とされているのに、この状況で侵食してきた。大いなる鎖が解かれたからか?


「... “神が御子を世につかわされたのは”... 」


ジェイドが、ヘルメスが持つ キュベレの頭部の元へと歩いて行く。

剣の先で炙っていた天使たちが、キュベレの前を空けた。


「... “世を さばくためではなく、御子によって、

この世が救われるためである”... 」


頭部のモルダバイトの眼の奥に くらい光が宿り

ガァッ と 口が開く。

その口から、透明の鱗に極彩の空気を反射させる蛇が吐き出された。


天使たちが剣で炙るが、溢れほとばしる悪気を 立てた剣で受けたレミエルが、半歩 後退った。

ジェイドが御言葉で焼く。


「... “彼を信じる者は、さばかれない。

信じない者は、すでにさばかれている”... 」


蛇を焼かれたキュベレの口内は黒く煤けていた。

同じ色になった唇から 途切れ途切れに出ている煙が、息のように見える。


「... “神のひとり子の名を信じることをしないからである”... 」


鳴音ハウリングか、急ブレーキを踏んだ時のスキール音のような音が 耳をつんざく。

音と共に『女を黙らせろ!』という司祭の声。

キュベレの頭部は、言葉を話しているのか... ?


発泡する泥濘が白い焔と溶け合い、人の肌の色のようになって、とろとろと影の男に纏わり焼きつく。

ミカエルの剣の先に居る 血肉の男の腕や胸、背に

縋るように腕を伸ばしていた影人霊たちは、妙な形になっていた。手首や前腕の先が無い。


背に縋っていた影人霊の両腕が、ずぶずぶと泥濘に沈むように 血肉に沈んでいく。

「吸収してるのか?」と、ぼんやりと朋樹が言った。


血肉の男の腕を左右から掴んでいた影人霊たちも

両腕が血肉に沈むと、血肉の腕に触れた胸や顎も沈み込んでいく。

胸に両手をつけていた影人霊は、もう 血肉の足と向き合う足しか残っていない。

腰から上が沈み込み、赤い腿から生えたようになっていた足も、膝までが泥濘ぬかり、爪先や脛も沈み込んだ。


「底無し沼 みてーよな... 」


ルカに頷いた。血肉の男は、人間の霊に融合した影人ごと吸収している。

取り縋っていた影人霊たちを取り込んだ男は、自分に手を伸ばしてきた 影人霊の腕を掴んで引き寄せると 片腕で胸に抱き、難なく泥濘らせていく。


「あれは、ヴィシュヌを掴んだ霊たちだぞ?」


トールが 信じられんという風に言うが

あの血肉の男は何なのか と考えることも出来なかった。

あの血肉の男は、影人霊を取り込むことで

夜国の神 “完全” だけでなく、それと融合した 地上の霊... 聖父の気息も取り込んでいる。


血肉の男の背に触れようとした影人霊が躊躇している。

トーガを揺らめかせ、男の前に立ったミカエルが

赤い顎の下から剣を差し入れた。


落ち続ける雷光と 虹色の光の中、男を炙る剣が真珠色に発光すると、ミカエルが弾き飛ばされた。

今 見たものが信じられず、すぐ近くで ミカエルの名を呼ぶ ボティスの声も、映画や動画の声を聞くように、別の場所からする声に聞こえる。


滑空するチャクラムが 雷光を突き抜け、血肉の男に向かったが、空気に阻まれるように 徐々に速度を落とし、男の胸の前で落ちた。


誰も言葉が出なかったが、「止せ!」と、ミョルニル

青白い雷を帯電させるトールを ボティスが止め、

ミカエルが 立ち上がりぎわに、左腕に巻いた 大いなる鎖を伸ばした。

鎖は男に触れられず、周囲を螺旋に巻き昇っている。


「... “その さばきというのは、光が この世にきたのに、人々は そのおこないが悪いために、光よりも やみの方を愛したことである”... 」


ヨハネを読むジェイドの声に、血肉の男の周囲を巻く鎖が狭まった。狭まっては また距離が空く。


「そうか、母親キュベレの加護だ」


ヴゥン... と チャクラムを浮かせ、神殿の上に立つ

自分の右上に戻した ヴィシュヌが、立てた人差し指を 皇帝の方へ向けた。


チャクラムは、雷光を纏った十二翼を広げる皇帝の前... 恐らくキュベレの胴体に追突しているが

ヴィシュヌは 皇帝に向けた指を戻していない。

チャクラムの高速の回転力で、キュベレの背骨を押し切ろうとしている。


「... “悪を行っている者は みな光を憎む”... 」


キュベレの頭部の口が大きく開き、“ソゾン!” と

叫ぶような思念が 周囲の木々を揺らす。


「何故... 」と、四郎が呟いた。

キュベレが、血肉の男を ソゾンと呼んでいるように思えるからだろう。


「... “男の女にたいする心は移り気なものだ”... 」


「エッダ、オーディンの箴言だ」と 朋樹が言っている。雷光を纏う 十二翼の向こうから、皇帝の声が キュベレに読む。


「... “不実な心をいだきながら、

われわれは口先だけ きれいなことを言う。

それで賢い人の心も騙される”... 」


獣のような悲痛な咆哮に 胸が詰まる。

さっきのように侵食された訳じゃなく

ソゾンを愛したんじゃないか? と掠めたからだ。

イエヴァのことは、ひとりでに産んだ訳じゃない。


ヴィシュヌが人差し指を上へ向けると、チャクラムが空に跳ね上がり、キュベレの腰から下も跳ね飛ばされた。

腰から上を放った 皇帝は、十二翼を鎮めながら

ヘルメスがぶら下げている 哀れな頭部に向き直った。


「眠れ。あの男は、お前の事など忘れている」


頭部の前に出した手には、嘆きの心臓を握っている。

ソゾンが愛し求めたのは、キュベレではなく

愛した女の似姿... グルヴェイグの影だった。


二度、三度と、心臓の前に 悲痛な咆哮を響かせた

哀れな頭部は「... “tzel”!」と、音で言葉を発した。若い女の声だ。

リリトが言っていたように、イエヴァから言葉を受け取ったのなら、イエヴァの声なんだろうか?

今頃になって、なんでやっと...


「ツェル... ヘブル語で “影” だ」


ボティスのゴールドの眼が、祭壇の方へ動く。

血肉の男は、キュベレの声に反応したのか

ターコイズの眼を司祭に向けている。


「... “そして、そのおこないが明るみに出されるのを恐れて、光にこようとはしない”... 」


ジェイドがヨハネを読むと、狭まる鎖が 血肉に触れた。


「... “hen”!」


哀れな頭部が叫ぶと、ミカエルが キュベレの頭部に顔を向けた。

皇帝が 鎮めた十二翼を開き、手の心臓を強く握ると、苦痛の咆哮が響く。内蔵を潰されそうだ。


「ヘーン... 恩寵」と ボティスが言うと、朋樹が

「影と恩寵... ?」と、確認している。


「影の恩寵 ってこと?」と 聞き直すルカの声に

鼓動が速度を増していく。

何だった... ? 聞いた事がある。

ミカエルの声だった。


... 『父が、自らの肋骨... 悪としてキュべレを取り出したのは、創世記にある “1日目”。

光と闇の区別を付けた時だ。

でも その後、すべてを造り、休息日を経た父は

胸にくすぶりのようなものを感じ始めた。

それは、愛憎や悲哀の情だった。

造った人間を愛し、幾度も裏切られた中で 生じたものだ』...


モレクの時だ。

貸別荘で、生贄を望む神についての話を聞いた後だった。


... 『預言者がイザヤの頃、俺が地上に派遣され

アッシリアのセナケレブの軍を壊滅させて

天に戻ると、父は泣いていた。

そうして 自分のなかから、憎しみや哀しみの感情を、余分な “影の恩寵” として取り出した』...


それを、どうしてキュベレが口にするんだ?


待て... 司祭は何故、地上の言葉を知っている?


『黙れ!!』


鳴音かスキール音かに混ざる司祭の声が

『ルアハに触れるな!!』と 絶叫している。


「... “しかし、真理を行っている者は光に来る”... 」


御言葉が、大いなる鎖で 血肉の男を締め付けるが

男は、鎖に腕の肉を削がれながら、溶け合う泥濘と焔を身に纏う 影の男に触れた。

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