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泉の水面や 泥濘に跳ねた、麦酒の音が止んだ。


水と分離し、泉の水面の上に浮く蜂蜜色の液体が

儀式の場に向かって流れ始め、エデンからも神殿を伝って地面に流れ落ちている。

泥濘んでいた地面は乾き、幾筋もの輝く線を描く麦酒が、細い川のように儀式の場に注ぐ。


神殿の入口に立つ、ヘルメスの前に倒れたキュベレの首の断面から流れる血や 腹から落ちた血水も

麦酒と共に儀式の場へ流れ、キュベレの腹を裂いて出た黒い影の男が、注ぐ川を頼りに 儀式の場へ這って行く。


「ミカエル... 」


まだ剣を握っているレミエルや天使たちが

悪魔や天使に重なっていた影人たちの間に立ち

大いなる鎖を握るミカエルに 指示を仰いでいる。


「頭部には 直接 触れるな。必要があれば炙りを。

身体と共に ひつに収める。

第六天セブルに、聖子が触れた木で作った聖櫃がある。

ザドキエル、俺のめいとして 第六天セブルへ上がり

長老等に話を」


エデンの空中で「了解」と返した ザドキエルが

天の楽園マコノムと繋がる 二本の大樹の方へ向かった。

ヘルメスは まだ立ち尽くしているが、レミエルと天使のひとりが、キュベレの頭部の方へ移動している。


『ルアハ』


青銀の眼を光らせる影人霊の ひとりが、燔祭の祭壇の前で呼ぶように言うと、他の影人霊たちも

『ルアハ』『贄を... 』『ルアハ』と、繰り返した。呼び声が重なっていく。


「泰河... 」


ヴィシュヌがオレの右腕を取った。

浮き出した模様から 白いほのおが上がっている。

影人霊たちの “ルアハ” という言葉に呼応して 焔が上がったように思えた。

だったら、この焔で 何かに触れるべきじゃない。


ポエナ異端ゼノ記憶メモリア... 」


眠気を誘う皇帝の声。

呼んでいるのは、地獄ゲエンナの支配者たちの名だ。


皇帝の身体に影の手を差し入れている司祭は

『鍵を渡せ。今すぐに』と、焦りを見せ

手の先に居る女に迫った。

女は、影の手を握るのを迷っているように見える。

司祭の藍のローブの中で 何かが光りはじめ、次第に強くなる その光が、フードや袖口からこぼれた。


審判者ユーデクス復讐者アラストール... 」


藍のローブの中で、ゴールドの光が明滅し

大いなる鎖を握る ミカエルが「ルシフェル」と

警戒した声で呼び、振り返る。

司祭のローブの下に、白く長い何かが落ちた。


背骨だ。アバドンの...

骨は崩れ、白い八片の花々になった。


司祭のローブの袖口からは、黒い何かが ぼとりと

落ち、黒い花となった。復讐者アラストールの心臓か... ?

ハティは黙って 状況を見守っている。


「ルシファー、何を... 」


聞くことを躊躇ためらった ジェイドが、言葉を止めたが

「リリトや皇帝が唱えたのは、転移呪文だ」と

ボティスが言った。


「鍵を? そんなに簡単に移せるものなの?」


オレの右腕の白い焔を観察していた ヴィシュヌが

ボティスに眼を向けた。


「いや。支配者等が生きていて、霊体に結び付いている状態であれば 無理だった。

鍵は、六つ全てが同じ体内に取り込まれるまで

アバドンや支配者の 一部だったものに憑いている状態だ。

キュベレを介し、父の血を継ぐ リリトになら

返りは起こらんかもしれんが... 」


ジェイドに聞こえているかは わからないが

ボティスは

「鍵が憑いた部分を破壊して、鍵を奪う事になる。術者も 同じ箇所が破壊される」と 続けた。


「それなら、ルシファーの背骨や心臓が?

元々 鍵は、霊体に結び付いていたものなんだし

ルシファーの霊体も ただでは済まない。

シェムハザが魂を分けるとしても、それで間に合うの?」


シェムハザ と聞いて、朋樹が気を失ったことを思い出し、ソファーの近くに居る シェムハザたちに眼を向けると、朋樹が気がつくところだった。

朋樹に触れていた四郎が、オレの右腕に顔を向けた。何となく眼を逸らす。


「鍵を奪えたとしても、もし ルシファーが消滅してしまったら... 」


奪った五つの鍵は、恩寵グラティアの鍵が結び付いている女に渡るんじゃねぇのか?

けど司祭は、“お前に滅び神は降りん” と 女に言っていた。

司祭になら降りるのか?

それとも、モルスが降りなくても、鍵を揃えて 地獄ゲエンナの七層を開く... ってことなのか?


いや、もし... 皇帝が、女から鍵を奪うとしたら...


皇帝の背に突き出ている 司祭の手の袖口から

黒い何かが落ち、女の手の上で 黒い花になって

地面に零れた。


ガラスを掻く音に『寄越せ!』と怒鳴る声。

「イエヴァ」と、誰かが 誰かを呼んだ。


「イエヴァ」


聞き覚えのある まだ若いの声がした方向、神殿の上に眼をやると、天使に支えられた イヴァンが立っていた。腕や脚には まだ包帯が巻かれている。

イヴァンの眼は、女に向けられていて

女も 声の方へ、黒い血管が浮く顔を向けた。


「さっき、目が覚めたんだ」と、言い訳のように

言い、気恥ずかしそうな顔になったイヴァンは

「“イエヴァ” って、君の名前。

僕が 勝手に付けて、心の中で 呼んでたんだけど。

君は、僕の妹だから」と、また言い訳のように言った。


藍のローブの中で、光が激しく明滅している。

「マーマやパパは、君に名前も付けなかったけど

君には、アクサナやライーサ、他にも まだ小さな姉や兄がいる」と、教えたイヴァンに

司祭がフードの中の顔を向けると、エデンの中に

影人が立った。

天使が イヴァンを連れて、翼を羽ばたかせる。


「何かを選ぶ時は、僕らに会えなくなる方じゃダメだ。また会えると思う方を選んで」


女... イエヴァに「約束だよ」と言ったイヴァンは

「退避を」と言う天使の肩に掴まって 空へ退く時に、四郎に “頼む” と託す眼を向けた。


気を失っているリリトの腕が落ち、寄り掛かった女... イエヴァの前に倒れかけ、気付いたイエヴァが リリトを、指のない手の腕で支えている。

皇帝の背に向くと、片手では 司祭の影の手を掴んだ。


どうする気だ... と、身体が動きかけた。

ジェイドが、皇帝と司祭に近付いていく。


『渡せ... 』


声に混ざるガラスを掻くような音に、頭が割れそうになる。

イエヴァとリリトの間から伸びた赤い根が、司祭の手に巻き付き、ローブの袖の中に侵入した。


ポエナ... 」


皇帝が支配者の名を呼ぶと、イエヴァも 同じように唇を動かした。

藍のローブの中の光の ひとつが、司祭の腕を介し

皇帝の胸の中に光る。何かが砕ける音。

「ルシファー!」と、ジェイドが皇帝の背を支えた。


異端ゼノ... 」


光が移動すると、血肉の中で何かが砕ける音がする。

司祭が『離せ!』と、イエヴァから手を引こうとするが、ローブの袖から侵入した赤い根が絡み付いているのか、フードの首元からも根が覗いている。

『ルアハ』という影人霊たちの合唱のような声が

やたらに耳障りだ。


記憶メモリア審判者ユーデクス... 」


強い光が移動し、地面の花に 皇帝の血がしたたる。

膝が力を失い、肩に腕を回させた ジェイドが

何とか支えて立っている。

「シェムハザ... 」と、四郎がうかがうが

シェムハザもハティも動かず、ボティスも黙ったままだ。


突然『ルアハ』の声が、大きな歓声に変わった。

儀式の燔祭の祭壇の上に、キュベレの腹から出た黒い影の男が立っていた。

祭壇の周囲を取り巻くように注いでいた麦酒が

土に染み込み、泥濘の中でプツプツと音を立てている。


「あ?」と言った ボティスに振り返ると

麦酒の瓶が、泉の底に沈んでいた。

もう水中にある瓶の縁を掴むと、右手で触れた部分が消失し、慌てて手を離した。

ダメだ... 為す術なく瓶は底の土中に沈み、泉の水も引いていく。


復讐者アラストール... 」


絞り出すかのような皇帝の声。

皇帝の背後で イエヴァが吐血し、司祭の手を離すと、掻きむしるように 胸元のシャツを握った。

司祭も皇帝から手を引き抜き、自分に巻き付いた赤い根を 黒蔓で引き千切っている。

支配者の鍵が憑いていた アバドンの背骨や審判者ユーデクスの心臓の分は、皇帝に返ったが

復讐者アラストールの心臓の分は、イエヴァに返ったようだ。


ジェイドの肩を掴み、支えさせたまま 渾身の力で振り返った皇帝は、イエヴァの頭に手を載せた。


「ルシフェル、止せ」


ミカエルが、警告の声で言った。

「鍵が、渡らねば... 」と、呟いた四郎の腕を シェムハザが取り、移動を防ぐ。

動けば、きっと邪魔になる。

けど、七層が開くか、モルスが降りたら...

策があるようにも見えない。


『ルアハ』『ルアハ』と 繰り返す声。

泉の水が半分の高さになった。

司祭が逃げて、神殿が消えたら 何のために...


いや、贄が無くなれば、儀式は止められる。


泉から上がろうとすると、ボティスに止められたが、ルカが「贄」と 赤い雷を喚んだ。

トールが投げた帯電したミョルニルが、祭壇に突き上がった赤い雷の中、男の胸に当たると、光が弾け

男が 焔に包まれた。


ただ、焔は白かった。

オレの腕から上がる白い焔と同じものだ。

『ルアハ!』と上がる歓声に、ルカやトールだけでなく、ヴィシュヌやボティスも唖然としている。オレが触れたんじゃないのに、なんで...


プツプツと音を立てる泥濘が、焔に巻かれる男の周囲に ざわりと立ち上がり、ぐらぐらと波立った。司祭が消え、祭壇の前に顕れている。


恩寵グラティア... 」


皇帝の掠れた声。

荒い呼吸をしているイエヴァの胸が、皇帝の声と

五つの鍵に反応して強く光る。

恩寵グラティアの鍵は、イエヴァの中にある恩寵グラティアの霊に結び付いている。

なら、皇帝の霊が失われて、モルスになるのか?


「父と子と聖霊の名のもと地獄ゲエンナの支配者らに

告ぐ」


「ジェイド」と、シェムハザが声を掛けた。

ジェイドは、皇帝の胸に手を宛て

「今すぐ この身から立ち去り、天の父に委ねよ」と、祓いを始めた。


「邪魔を するな、ジェイド... 」


ぼたぼたと落とす血で、地面の花を汚す皇帝を見ずに、ジェイドは「... “わたしは まことの ぶどうの木”... 」と 言葉を続ける。

皇帝の表情が止まった。


「... “わたしに つながっていなさい。

そうすれば、わたしは あなたがたとつながっていよう。

枝が ぶどうの木につながっていなければ、自分だけでは実を結ぶことができないように、

あなたがたも わたしに つながっていなければ実を結ぶことができない”... 」


イエヴァの胸で 強い光が迷い、明滅している。

血を落とし、息をしようと肩を揺らすイエヴァに

「誰を思うておられるか?」と、四郎が聞いた。


「... “わたしは ぶどうの木、あなたがたは その枝である”... 」


「アッバ... 」


胸をくすぐるような声。

ロキの腕の中で、赤ちゃんが 皇帝を見て

小さな手を伸ばしている。

abba... アラム語で、“パパ” だ。

イエスは、聖父に こう呼びかけた。

碧い眼に 新しい生気が宿る。


「... “もし人が わたしにつながっており、

また わたしが その人とつながっておれば、

その人は実を豊かに結ぶようになる。

わたしから離れては、

あなたがたは何一つできないからである”... 」


イエヴァの中の光が額へ上がり、皇帝の手に移動する。 ... ダメなのか?

「“行くな、ルシファー”」と、朋樹が読んだ。

ジェイドが 口に出さないでいる言葉を。


皇帝の手が離れ、イエヴァが倒れ掛かると

重みで気付いたリリトが、反射的に抱きとめ

まだ朦朧とした声で 皇帝を呼んでいる。


「ヨハネ、1章5節」


ミカエルが腕を伸ばし「選べよ、ルシフェル」と

皇帝の胸に剣を突き刺した。

「鍵ごと量ってやってもいいぜ?」


「ああ、くたくただわ...  ルシファー」と

リリトの声。


「... “光は やみの中に輝いている。

そして、やみは これに勝たなかった”... 」


ジェイドが読むと、真珠の光が 皇帝の胸の中の光とぶつかって拮抗する。


「城に帰ったら、私の髪を 洗って頂戴... 」


剣が引き抜かれると、皇帝の胸の傷から

体内にあった光が弾き出された。

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