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泥濘の地面や泉に跳ねる雨のような麦酒に

蜂蜜色の蒸気の靄。


「ルシファー... 」


ロキと赤ちゃんが居るソファーの辺りから

ジェイドが呟くように呼んだ。


自身の鎖骨の間を貫いている黒蔓を握った皇帝は

リリトが言っていたように、奇妙な発音の言葉で呪文を唱えはじめた。

黒蔓には 棘のようなものが白い蕾となって膨らみ、八枚の花片の花が開いていく。


ローブの袖口から黒蔓を伸ばしている司祭の方が

腕を引こうとしたが、背後から首に片腕を巻くハティが、司祭の腕を固定している。


リリトは、腹の穴や口、皮膚が裂けた肩から指も赤く染め、折れた手首の両腕を 女を抱くように肩に掛け、ガクリと片膝を折って寄り掛かった。

黒い血管が浮いた肌。水銀の涙を流し、鼻や口、裂けた腹を血に濡らしている女も、リリトの重みで よろけ、二人共が皇帝の背後に膝を着く。

神殿に向き合う側には、剣を握り、艶のないゴールドの鎖を引く ミカエルの背中。


「渡さないわ... 」


熱に浮かされているような調子で言ったリリトの背中が、荒い呼吸に揺れる。


「あの子も、あなたも... 」


リリトの両腕の中で、女が顔を上げた。

時々だけ、何かを感じているように見える。

リリトは女の肩に寄り掛かったまま、気を失ってしまったようだ。


地獄ゲエンナの悪魔」と、ルカが赤い雷を突き上げ

ミョルニルが ヘルメスを狙っている悪魔に追突し、神殿に打ち付けた。

パシャリと墨のような液体となって、神殿の壁を汚した悪魔は、泥濘が跳ねる地面に流れ落ちると

また悪魔の形になって立つ。


「四郎、榊。赤ちゃんとロキを頼むよ」


ジェイドが、神殿へ向かって歩き出した。

赤ちゃんを抱くロキの近くには シェムハザも居るが、まだ朋樹が目覚めていない。

オレが触れれば... けど、目の前には、青銀の眼を光らせる影人霊たちが立っている。


影人霊たちは、麦酒を溢れさせている瓶ではなく

ただ オレを見つめている。

キュベレか司祭から、次のめいを待っているようにも見えるが、気味が悪い。

こいつ等の眼を通して、完全 というヤツが オレを見つめている... という気がする。


トールとルカの間を過ぎ、ミカエルの隣に立った

ジェイドは

「父と子と、聖霊の名のもとに告ぐ」と

祓いを試みている。


「闇は闇に。地底ちぞこの者は地の底へ。

異界の影を離れ、あるじの元へ還れ」


闇は闇に... ジェイドは、悪魔の霊性だけを

闇の主... 皇帝や、闇を与えたリリトの元に還そうとしているようだ。


悪魔たちは、影人と融合しているから蘇った。

人間ではなく悪魔だ。

影人と離れれば、闇である祓われた霊性は消滅するだろう。

キュベレの呪力や司祭が押えられている今

地上でなら、聖父や聖子、聖霊の名のもとによるめいが通る... と思われる。


「... “上から来る者は、

すべてのものの上にある”... 」


これが上手くいくなら、影人霊たちの霊性も

違う方法で、どうにか解放 出来るんじゃねぇか?

人間と 悪魔では造りが違う。けど、全ては聖父の言葉と気息から成っている。


「... “地から出る者は、地に属する者であって、

地のことを語る。

天から来る者は、すべてのものの上にある”... 」


突き上がる赤い雷とミョルニルの青白い雷で液状化し

神殿を汚した墨の液体が 地面まで伝うと、地中に染み込んで消えた。

墨が消えた壁の前には、悪魔の形をした影人が

ぼんやりと立っている。眼は光っていない。

御言葉で悪魔の霊性を祓い、雷とミョルニルで一体ずつ分離することになるが、いけるようだ。


蜂蜜色の蒸気に溶け込むように、オレを見ていた影人霊たちが薄れ消えていく。... が、悪魔の霊性のように 人の霊が消滅したようには見えない。


蒸気の向こうでは、皇帝の鎖骨を貫く 黒い蔓に咲いた八片の白い花が 地面に落ち出した。

藍のローブの袖の中から出ている司祭の手は

奇妙な発音の呪文のせいか、皮膚が溶け

ぬるりと赤くなっている。


「ミカエル!」


ヘルメスが呼び「本当に、このまま... 」キュベレの首を刈るのか と、確認した。


「儀式を止める」


ヘルメスに答えた ミカエルは、ギリギリと左手のを鎖を引いている。


「あ、本気? じゃあ 了解」と、返したヘルメスも

固定していた三日月鎌ハルパーを引き出したようだが、キュベレの首は なかなか落ちない。

三日月鎌ハルパーの下に流れている血が 大いなる鎖も濡らしながら伝い出した。


赤く濡れた首と、赤く染まった天衣の胸と髪。

血が伝う鎖の下、キュベレの下腹が膨らんでいて

ギクっとする。

さっきまでのロキの腹を彷彿としたが、まさか...


『贄』『贄が... 』


目の前から薄れ消えた影人霊たちは、儀式の祭壇の前に ぽつりぽつりと顕れた。


『贄が』『与えられる』『贄が... 』


影人霊たちは、儀式の祭壇の前で 口々に呟いている。

「... “与えられる”、と?」と、繰り返した 四郎も

キュベレの腹に目を止めた。


赤く染まり 膨らんだ下腹の内側から、何かが腹の皮膚を押している。多分、手のひらだ。

空気の入った風船が、内側から手で押されるのを見たら、こんな風に見えるだろう。


腹の皮膚を内側から掻いていた それは

キュベレの腹を突き破り、赤い薄衣を裂いた。

血水が溢れ落ち、地を跳ねる麦酒と混ざり合う。


「ヘルメス! 背を押せ!」と ミカエルが叫び

右手に持つ剣の先を鎖に付けて炙る。

大いなる鎖を走る 炙りの真珠色の光は、鎖を伝うキュベレの赤い血を焼き焦がし、光の粒が蒸気の中に上がった。


ヘルメスは、キュベレの背中に片足の膝を宛てて押し、三日月鎌ハルパーを引き切ろうとしている。

血に濡れた キュベレの腹を裂いた片腕は、大人の腕だ。黒い影のような何か。

けど... 影人とは違い、実体があるように見える。


黒い影の腕と 腹の裂け目の間から、影の手の指が出て、裂け目を広げながら外へ突き出てくる。

影の両腕の間に、影の頭部が見えた。

額の下には、青銀に光る眼。


「あれは、大母神と司祭の子 なのではなかろうか?」


赤ちゃんを抱いて座るロキの背後、ソファーの背もたれに、狐姿に戻って立っている 榊が言った。


「ソゾンの子は あの娘であろうが、夜国へ参り

娘を産んだ後、再び 結び付いておれば... 」


ソゾンではなく、夜国の司祭とキュベレの子 と

いうことか... ?


炎に還った足を失い、影人に重なられた天使が

突然、停止したように動きを止めた。

相手をしていたレミエルが、戸惑いながらも

「許せ、ロザエル!」と、斬首する。

他の天使も倣い、重なられた天使を炙り斬った。


斬られた天使は炎となって、蜂蜜色の蒸気に溶け入った。

後に残った影人は、悪魔の形の影人と共に

神殿の前に立ち尽くしている。


『娘よ... 』


ガラスを掻く音と、どこかで聞いた声。

皇帝の前に、司祭... ソゾンの身体の血肉が ぼたぼたと落ち、麦酒と混じり合っている。

枯れた黒い蔓の上、藍のローブから出ているのは

黒い影の手だ。


『鍵を渡せ』


皇帝の手に掴まれた 枯れた蔓が、地面の八片の花の上に落ちて汚す。

司祭のローブの下には 身体ソゾンの血肉が落ち、血肉の中に跳ね混ざる麦酒が、シュウシュウと音を立てている。

奇妙な発音の呪文が終わり、身体ソゾンが滅んでいく。

身体の記憶も。


『お前の役目は終わった』


倒れ掛かっているリリトを支えるでもなく、ただ

寄り掛かられたまま座っていた女が、司祭の声に

顔を上げた。

水銀の涙と乾きかけた血に塗れた横顔が、ひどく哀れに見えた。


『鍵は揃ったが、お前に 滅び神は降りん』


“滅び神” は、モルスだろう。

女に降ろそうとしていたのか?


「司祭は 何を言っている?」と ボティスに聞かれ

影人霊ではない司祭の言葉は、オレ以外には 破裂音に聞こえることを思い出す。

司祭が言ったことを話すと、ヴィシュヌが

「そうか... 」と、神殿の周囲に飛ばした チャクラムを 人差し指で操り、ミカエルとキュベレを繋ぐ鎖の上に滞空させた。


「七層の永久とこしえの滅びは、場所であって、神じゃない。

だけど、“作用や災害” を畏れた人間に祭られて

“神となる” ように、滅びという作用を 神の子の身体に降ろして、新たなモルスという神を生み出そうとしたんだ」と、ヴィシュヌが人差し指を振った。

チャクラムが三日月鎌ハルパーに当たり、キュベレの首の 刃が骨に食い込む。


神の子... あの女は、聖父の肋骨であるキュベレと

ヴァン神族のソゾンの子だ。

今、キュベレの腹から出てきている 影のようなヤツに、モルスを降ろす気なのか... ?


けど、あの影のようなヤツは “神の子” じゃない。

司祭は、夜国の神の “完全” ではないはずだ。

どうしてか これについては、強い確信がある。


地上こちらでは、傷がついた者など 贄にもならん』


キュベレの腹から出ている影のようなものは

胸までを出して、両手を地面に着けていた。


影の髪は短く、腕や肩では判断しがたかったが

胸の形は男だ。

片腕を前に出すと、血に濡れた腹までが出た。

また片腕を出すと 腰までが出て、太腿が見えると

ずるりと出た両足が 地面に落ちた。


あれも、もう不要だ』


司祭の下に落ち、麦酒と混ざった身体の血肉が

細長い蛇のように這いずり、大いなる鎖に取り付いた。ジェイドが ミカエルを振り返る。


ミカエルの左腕が 力の反動で押されるように後ろへ引かれた。血肉の蛇が 強く鎖を引いたせいだ。

腹が裂けたキュベレの身体が前に倒れ、三日月鎌ハルパーの上から ブロンドの髪の頭部が落ちた。

唖然とした ヘルメスの顔。


身体を失った司祭は、拘束していたハティの両腕を抜け、一歩 皇帝に近付くと、枯れた蔓が落ちたローブの袖の腕を まっすぐ皇帝に差し入れた。

司祭の影の手が、皇帝の背中から出ている。


『母と共に、この地の塵に戻るが良い。

地上の娘よ』


皇帝の背中越しに、司祭の話を聞いていた女は

影の手に 自分の手を伸ばそうと、腕を上げた。


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