138


「... “ロプトロキは性悪女のため、孕んで、そのときからというもの地上にありとあらゆる怪物が生れ出た”... 」


痛みを忘れたかのように 皇帝を見上げたロキを見て「エッダ、“ヒュンドラの歌”だ」と、朋樹が言った。


この “エッダ” は、北欧の神話や英雄伝説、格言詩集で、政治家や歴史家、法律家や詩人でもある スノッリ・ストゥルルソンは、このエッダや、エッダ発見時には失われていた詞も引用し、古歌謡や口承伝承も含みながら、“スノリのエッダ” を書いている。

物語として読みやすいのはスノッリの方だが

皇帝が読んだ部分は、エッダの女巨人ヒュンドラの歌、四一の部分だ。


教会のステンドグラスを思わせる ロキの虹色の眼は、皇帝の碧い眼に映る自分を見ているようだ。

儚く移り変わる色に、何故か寂寥せきりょう感を覚える。


「巫女の予言とは違い、洞窟を出て自由を得た お前は、ある意味では死んでいる」


ミカエルに報告を終えたトールが オレの隣に戻り

皇帝の言葉と、碧い眼に映る自分に囚われていく

ロキを見つめた。


「復讐という最大の目的を失い、世界が世界のままに維持された 世界樹ユグドラシルを後にした」


ロキは 最終戦争ラグナロクで、虹の橋... 境界の番人ヘイムッダルと戦い、共に果て、アースガルズや人間世界ミズガルズも壊滅するはずだった。


「だが お前は、自身を よく知っている。

根に巣食う 残虐さを。

“羨ましいから殺す”、“気に入らんから殺す”。

そうじゃない。殺したいんだ」


枝をたわませる薄紅の桜。紅く堪えるように燃える紅葉。靡き片寄る松の枝。柔らかな青草。

温かな幻影の中で、疎外感にさいなまれる。


「“ここに居て いいのか?”」


これは、オレのことじゃないのか... ?

そう感じる程、言葉に胸をえぐられる。

噛んだ首の感触と 血の味。快楽の痺れ。白い森。

オレは “異物” だ。


「“また あの感覚が 頭をもたげたら”」


胸に何かが積もっていく。息がしづらい。


「泰河」


背中に朋樹の手が添えられ、青く光る式鬼の蝶が

胸にとまって溶けた。

ふう と 息をくと、胸に積もった何かも抜ける。


「大丈夫だな」と 黒い眼を向ける朋樹に頷くが

ひどい顔をしていたようだ。


「なぁ、あれ... 」


ルカが 朋樹の向こう側から、神殿に眼をやっている。

ロキを見守っていた トールやジェイド、榊も

泉の向こうの神殿に顔を向けた。


淡い光を放つ ブロンドのくせっ毛。

剣の先を差し向ける ミカエルと、剣の先から顔を背ける女。

大いなる鎖に巻かれて、白く焼けた眼から水銀の涙を流し続けている。

女の周囲にも、剣の先を向ける甲冑の天使たち。


水色葉を焼き尽くし、まだ赤い火が燻るものの

黒い煤となって立っている木々と、薄まった煙。

神殿の壁を伝い落ちる麦酒で 地面の広い範囲が濡れている。


神殿の中に、二つ並んだ星のような 青銀の光が見えた。

青銀の光は増え、神殿から ぞろぞろと人が出て来る。夜国の人たちだ。


「また燃やす気か?」


女に ボティスが聞く間に、周囲を固めていた 甲冑の天使たちが消え、夜国の人たち 一人ひとりに添うように顕れた。


「何の意味がある?」


ボティスの後に、ミカエルが「止せ」と 女に警告したが、地面から勢いよく突き出した赤い根が

夜国の人たちを真下から串刺しにした。


ミカエルが剣の先を 女の顎に刺し入れ、甲冑の天使たちが 赤い根を炙り斬る。

赤い根は すぐに炙り消えたが、根に貫かれた夜国の人たちは もう干乾びて 地面に崩れてしまった。


ミカエルの剣に炙られ、水銀の涙を流している女の白い眼や口内が 真珠の色に光っている。

悲鳴に音は無かった。

だが、泉は さざ波立ち、森の杉の木々が 高い位置で葉を鳴らす。


女は、大いなる鎖の間から出ている腕の手で

自分の顎を貫いている剣の刃を握り、煙を上げる手で、ぐ... ぐ... と 抜き出しはじめた。

ミカエルは、腕の力を抜いているようには見えない。女が ミカエルに抵抗出来ている ということだ。


「ほう。やるじゃあないか。なかなかだ」


空気がふるえ、木々の葉がさざめく中

桜や紅葉、足元の柔らかな青草、明るい陽光まで

榊の幻惑が ぶれ、現実の森と重なる。


胸に左の手のひらを宛て、右手を胸の前に立てた榊は「むう... 此方こちらも呪力競べとなるかのう」と

剣を引き抜こうとしている女を見据えた。


ぶれた幻惑の里が 再び色鮮やかに蘇るが

榊の胸が朧に光っている。宝珠か?


「無理してるんじゃねぇか?」


榊に聞くと、朋樹たちも 榊の胸の光に気付いた。

「何。赤子が生まれてくる。この程度の事」と 笑っているが、宝珠が光るところを見るのは初めてだ。

いくら榊が空狐であっても、神の悪意の子には

とても対抗 出来ねぇだろう。

剣を引き抜こうとする怒りの余波で 幻惑術が押される程だ。かなり無理をしている。


「シェムハザ」


泉の向こうから こちらを振り返っていたボティスが、どこかに居るシェムハザを呼んだ。


「ミカエルの背後に円の移動を。

神殿から見て 泉の南端だ」


大いなる鎖を引き、剣の腕に力を入れている ミカエルの背後に、白いルーシーで描かれる天空精霊の召喚円が顕れた。


「デモリエル」


ジェイドが天空精霊を喚ぶと、人の形をした光が

召喚円に降りた。

シェムハザの天空霊と共に、儀式の場を囲うように降ろした四方位の天空精霊の 一体だ。


幻惑の里に陽光が注ぐ。

榊の胸の光が鎮まり、ふう と 息をついている。

天空精霊の 一体が移動したことで、オレらは

神殿や泉を囲っている 天空精霊の範囲から外れた ということだろう。


榊の背後、防護円の青白い光が透けている 濡れた白いシーツの上で、痛みや苦しみに身体を折ろうとしたロキを 皇帝が止め、抱き竦めている。


「望み羨み、他人のものであれば 略奪しても

得られなければ 殺しても

お前の渇きが癒えることはなかった」


皇帝の言葉で、“ロキ” は、火 という意味だと思い出す。貪欲に望み、焼き尽くしては また望む。

自分を滅ぼしても。トールが見つめている。


「それを 満たしてやる」


苦しみ喘ぐ ロキの眼が、皇帝に向いた。

教会で 皇帝の眼に囚われた時の感覚が甦る。


あぁ ロキが 皇帝を畏れる理由が分かった


誰であろうと 何であろうと 満たすことの出来ないすき間を、皇帝なら満たすことが出来る。

例えまやかしでも。


それは、個であること... 外の世界と 他のひとの存在を認めるためにも必要なものだ。

普通に生きていれば、意識しないものでもあるだろう。けど、それに押し潰されることもある。

皇帝にゆだねれば、もう 後には戻れない。

甘美に堕ちる。


「俺を求め 受け入れろ」


藍になっていた眼の色が 赤味を増していく。

赤からオレンジへ移り変わった眼は、痛みや苦しみを忘れ、魅入ってゆく眼だった。

堕ちた と わかる。

女の顔をしたロキは、唇まで伝い、顎から胸に落ちる程の涙を流した。


皇帝の口づけを受ける ロキの表情や、フリルシャツの胸元に添えた指先からも 緊張が抜けている。


「榊」


泉の向こうからの ボティスの声に、オレまで ハッとした。また見つめちまってた。

しかも、胸の奥が微かに ズキズキしくしくとするのは何なんだ?


「むうぅ... 」


ルカや朋樹、トールすら ハッとしているが

榊は まだ、皇帝やロキを至近距離で見つめている。

涼しい顔をした ジェイドが「榊、近過ぎだよ」と

潤んだ眼の榊を 少し下げた。

あいつ、さすがだよな。


「何か、胸がさ... 」と 切ない顔をしている朋樹に

肘鉄を食らわし「口に出すんじゃねぇ」と 戒めておく。全部を認めきっちゃならねぇからな。

見ないふりもしねぇと確実に飲まれる。


「俺には、よく わからんが... 」


恍惚の表情をしている榊に視線を移していた トールが、首を傾げた。

何かは感じているが、痛みではないようだ。

場合によっちゃ 鈍さも強さになるよな。

何より トールは、心に闇がない。

ササユリ越しに ルカも頷いている。


ふいに 唇を離した皇帝が、ロキに「痛むか?」と 聞いたので、オレらは “ええっ?!” ってなっちまった。 顔...  急に優しくねぇか... ?


けど、ロキも信頼し切った顔で頷いている。

そうなのか...

「かわいいね」「夫婦ふーふに見えるんだけどー... 」と

オレらは間に入れないでいるが

「むっ!」と 榊が動き「失礼致す」と ロキの腰に

手を置いた。榊も すげぇ。

切れ長の眼で 一点を見つめ、集中している。


「... ふむ。開き出しておる」


「おっ... 」

「キュベレの術に、勝ってる ってことか?」


「ほう」と トールが微笑い

「えっ! すげーじゃん!」という ルカの明るい声で、気持ちが前に向いていく。


「くっ... 」と 声を洩らしたロキが、ふうう... と

長い息を吐いた。榊が腰を擦っている。

マジで生まれるんだ、もうすぐ。


ミョルニルを握り直したトールが、天空精霊越しに ミカエルと女の方に向いた。

ジェイドが 仕事道具入れから聖水の小瓶を取り出し、朋樹も式鬼札を指に挟む。

邪魔させる訳には いかねぇもんな。

ルカが皇帝の背後に移動し、オレは 影人が出ねぇか、皇帝たちの周囲を警戒する。


突然、森の杉の葉が ザーッと 一斉に大きな音を立て、泉に 大きな物が落ちる水音がした。


は... ?


人の形をした 天空精霊の向こうに居た甲冑の天使たちが、周囲の杉の木の下まで吹き飛ばされていた。一瞬の間に...

神殿の上、エデンの階段に立っているのも

ヴィシュヌと、その背後で麦酒の瓶を支える 四郎とザドキエルだけだ。

エデンの門の前に詰めていた天使たちも 後退させられている。


高い杉の木は、神殿の方から 何かの圧力に押されているかのように こちら側へ靡き、泉の水面も波立っている。

燃え尽きた煤の木々の中に、ミカエルと 大いなる鎖に巻かれた女。

泉に落ちたのは、ボティスとレミエルだった。


何かが全身を圧する。急激な悪寒と吐き気。

ケシュム島の儀式の場での感覚と同じものだ。

強烈な嫌悪感。


神殿の中に キュベレが居る。

夜国と地上の狭間から出て来やがった...


両腕に包み抱いたロキの ブロンドの髪の頭越しに

神殿に碧い眼を向けた皇帝の 口元が微笑った。


神殿から、見えない何かが 地を割り走って来る。


ヴィシュヌが、回転するチャクラムを 走る何かに突っ込ませて地面を抉った。

ルカが赤い雷を喚び、トールが帯電するミョルニルを投げつけたが、それは止まらずに向かってくる。


女の顎の下から剣を引き抜いた ミカエルが、血に濡れた その切っ先を地面に突き刺して炙った。

防護円を残し、一面から真珠色の光が昇る。


見えない何かは、ミカエルと泉の間の地面を割って進み、トールの前で 炙られ消えたようだが

人の形をした光... 天空精霊も消えていた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る