77 ルカ


「おお、歓喜仏ヤブユム!」


腕が いっぱいある男尊の立像に、その妃の女尊が

首に両腕と、腰から脚に片脚を絡ませて

男尊の二本の腕も 女尊の身体を抱いてる。

坐像だと、胡座の膝に 向き合った女尊を抱く。

簡単に言っちまえば、最中の像。


「ヤマーンタカもだ」

「あっ、師匠! 背中に誰か乗せてる!」

「うむ。不空成就如来」

「見ろよ、緑ターラーの半跏はんか坐像」


「お前等、ちゃんと探してるのかよ?」


ゾイを連れて、振り向いたミカエルは

ゴールドのダーキニー像に、剣の先を近付けてみてる。

炙りの光を近付けて、天狗魔像が化けてないか

確認してるらしい。


「おう、やってるぜ」


朋樹は、神隠しで隠れたヤツを探す要領で

呪の蔓を伸ばして 確認しながら、展示物鑑賞してるけど、オレらは ただ鑑賞中。

どれ見ても すげー...  この 造形美。

なんか 躍動感あるしさぁ。

たくさんの人たちが、長い間に寄せた心や祈りで

どの像も 光を内包しているような感じする。

圧倒されるんだぜ...


ジェイドは、迦楼羅師匠が

ゴールドの小さい炎で、像を炙って確かめるのを

見るのが楽しいらしく「師匠、こっちは?」って

やってもらって 楽しんでるし。


一階のフロアは、受付と パンフレットとか

その時の展示物に関係するものを販売する売店、

あとは 休憩スペースになってるから

二階の展示フロアにいる。


「しかしさぁ、仏画にしても 像にしても

歓喜仏多いよなぁ」


他にも像はあるし、法具の 金剛杵ヴァジュラとか金剛鈴ドルカー

マニ車... 円形の筒の中に、経文が入ってて

一度 回したら、経を読んだことと同じになる ってやつも 展示されてるんだけど

やっぱり、歓喜仏立像が目に止まる。

男尊が広げた 何本もの腕が、光背みたいにも見えて、迫力あるし。


「この国に、無上瑜伽むじょうゆがタントラは

伝わっておらんからな」


「その タントラ って、密教経典のことなんすか?」


オレ、内容って あんまり知らねーんだよなぁ。

仏像は、本で写真とか見たことは あるんだけど

それも 美術的な観点だったし。


「まぁ、そう思うて良い。裏ではないが

表に出ぬようなものよ」


で、師匠が 大まかに教えてくれたんだけど

無上瑜伽タントラ っていうのは

この歓喜仏が 顕してることらしく

タントラ” は 方便... 到達する手段、

タントラ” は 般若... 真実を洞察する智慧ちえ

表すもので、一緒になったのが

双入不二そうにゅうふにタントラ”。般若方便... 智慧で到達。


タントラ... 密教経典の内容は

所作しょさタントラ... 真言や陀羅尼など

ぎょうタントラ... 大日経

瑜伽ゆがタントラ... 金剛頂経、理趣経

無上瑜伽むじょうゆがタントラ... 方便、般若、般若方便

... と なっていて、日本に伝わったのは

瑜伽タントラまで。


理趣経として、思想は伝わってるけど

実践的な無上瑜伽タントラは伝わっていない。


これを、日本でも やり出したのが

立川流なんだろうけど、理趣経の実践だけでなく

ダキニ天を降ろして 神託を賜れるように

髑髏本尊を作る... っていう 目的もあった。

陰陽道の 呪術的な面と結び付いてのことらしく

無上瑜伽タントラの教義とは異なる。


「小乗と大乗に分かれ

性力シャクティ信仰が 取り入れられたからな」


紀元前5世紀頃に インドで起こった仏教は

1〜2世紀頃に、小乗仏教と大乗仏教に分かれてる。

小乗は、自分が修行して、悟ったら人を導く。

大乗は、自分だけでなく、他の人も悟れるように尽力する 自利利他っていう精神が根本。


けど、“一切は空” っていう 仏教を

人に伝えるのは難しかった。


うん、そうだよなぁ...

オレん家は、カトリックだから

子供の時から 聖書を絵本にしたやつ読んでたり

多少 触れてたせいもあって、教会の教えは入ってきやすい。


でも もし、キリスト教じゃなかったとしても

仏教の教えを理解するのは 難しいだろうと思う。

空 っていうのもだけど、それを知るまでの道程も

“こうだから こうなる”

“こうなるのは、こうだからだ。だからこうする”

... みたいに、とことん分析、とことん理屈。

因果応報だけど、実体は全部 空。

真理は そういうものからも離れたところにある

って 印象あるし。


何せ、お釈迦様も悟った時に 喜びの反面

“これは、人々に伝えられない。きっと誰にも理解出来ないだろう”... ってことには 絶望して

そのまま 解脱しようとしてたくらいだし。

そこに梵天... ブラフマーが来て

“いやいや、どうか人々を導いて欲しい” って

再三 勧めて、教えを説くことにしたらしく

これを、梵天勧請っていう。


ブラフマーは、宇宙、万物の根源... ブラフマンを

人格化したもので、ヒンドゥー教での創造神。

このブラフマーが お釈迦様に勧めなかったら、

誰も 悟りに近付くことは出来なかった。


だけど、やっぱり難しかったせいか

インドでは 仏教が衰退していって

ヒンドゥー教の性力シャクティ信仰と結び付く宗派が出てくる。


ヒンドゥー教も、キリスト教... というか

アブラハムを祖とする宗教と似ていて

“一人の絶対者から 万物が派生した” っていうのが

根本にある。

陰と陽、生と死、善と悪、男と女... など

対になるものが ひとつに融合することで

その絶対者が 顕される ということを象徴する。


対... 対立するものを、男性原理と女性原理として

男女両性が融合することで、宇宙の真理が悟れる

... 一切の現象を表し、絶対者との関係を体現

と いうのが、タントラの根本思想。


女性原理というものが、男性原理を動かす根源。

性力によって、男は活力を得て働く。

また、女性原理は無明... 迷いでもあり

悟りでもある。

男性原理、女性原理、どちらかだけでは

陰と陽、善と悪、宇宙の 一切を発動させる創造のエネルギーは 生まれず、機能しない。


このための性的儀式が、無上瑜伽タントラに説かれるところ。

体内に発生したエネルギーを放出せず、内に向け

外にある宇宙を 内に創造し、真理となる。

歓喜仏ヤブユムは、男尊が 妃の女尊と 一体となって

それを表している 神秘の像。


... これの 少し解るところは

エデンや海で、リラを抱きしめた時のこと。

エデンでは、オレも精霊... 精神になっていたし

海では、それまで知らなかったことを知った ってこともあると思う。リラが、肉体を抜けた 魂だけだったということも。


リラを両腕に 胸に、包んでいたけど

包まれていたのは オレだった。リラ と思った。

そして、それ以外 何も感じなかった。

外の世界も内の世界も、誰も。


「しかし、堕落する者も出てくる」と

ゴールドの炎を へーヴァジュラ像に巻きながら

師匠が続ける。


インド仏教に密教化が進行して、堕落する僧侶も増え、12世紀には イスラム教に侵攻されて

インド仏教は無くなってしまった。

生き残って、散り散りになった僧侶たちが

他の国に仏教を広めていく。


「それで師匠も、日本ここまで来たんすね」って

泰河が言う。


うん。結果論だけど、いように考えたら

侵攻されたから、広く教えが広まることになった

... とも いえる。


その時も たくさんの像や寺院が破壊されてるし

たくさんの僧侶が 亡くなってしまっているから

“拡がるために必要だった” って言うと乱暴だけど

教えは死ななかった。


経巻も破壊され、心にまで侵攻を受けても

仏生や清らかさが 最初から備わっているように

教えを繋げたい っていう尊い種子のようなものは

失われることはない。


四郎たちのように、その地に 花を咲かせたんじゃなくても、海も渡った 遠い異国の日本ここでも

その種子が 花を咲かせた。教えと大地との婚姻。


「うむ」って 師匠が答えた時に

ミカエルが、左腕の 大いなる鎖を伸ばした。


「えっ?」「天狗か?」


鎖が巻いているのは、中央の展示台の隅の方

壁に沿った展示台に向いていた、師匠とジェイドの 背後にある像だ。

女神像... 仏母なのか、しっかり胸と分かるように作ってあって、腰も細く 引き締まっている。

腕や脚、細い部分も しなやかな曲線。きれいだ。


「摩耶夫人だ」と、泰河が言う。


50センチくらいのゴールドの像は、右腕を高く上げている。

ブッダとなった ゴータマ・シッダルタ王子は

摩耶夫人の右脇から生まれたらしい。


「中に... ?」


眼を凝らしても、読もうとしてみても

何も 居るような感じはしない。

強いて言えば、像に向けられた思慕の情。

“母” と、母性を望む人たちが慕う念。


「本当に居るのか?」と、朋樹が赤蔓を伸ばし

摩耶夫人像が下げている左手に巻く。


「何で分かったんだ?」


ジェイドが聞くと、ミカエルは

「今、右手を迦楼羅ガルダに伸ばそうと動かした」と

答えた。


「この像に、化けてるってこと... ?」


こんな 小さい像に?


「いや。像に入ってる」


またミカエルが答えると

像の首に 赤蔓を伸ばそうとしていた朋樹が

躊躇して、赤蔓を止める。


「破壊 とか、しねぇよな?」


像は、チベットから持って来られたやつだもんな... 泰河が、像の方に 一歩踏み出すと

「寄るな」って 止められた。


「どうするんだよ?」


青猿が、ドワーフ像に入ってた時は

像を破壊したよな...


「えっ。いやだぜ、ミカエル... 」

「摩耶夫人なんだぜ?」


「これは像だ。マーヤーじゃない」


それ、頭では 分かってるけどさぁ...


「ミカエル。泰河が、触れてみたらいいんじゃないのか?」

「ルカ、印は?」


「......... 」


ねーんだよな...

あれば、もう 気付いてただろうしさぁ。


オレに、ブロンド睫毛の碧眼を向けて

“無いんだろ?” って顔した ミカエルが、鎖を引こうと...

いやっ!!やめてぇぇっ!!... って なった時

「あの、ミカエル... 」って

ゾイが 遠慮がちに声を掛けた。


「このまま、外に連れ出しませんか?

あの、せめて 一階に... 」


「そうだよ!そうしようぜ!捕まえたしさぁ!」

「柘榴が居ないから、水竜巻になれねぇしな!

鎖 抜けられねぇんだろ?」


「他の “美術品” にまで、被害が及ぶと

人々が 悲しみます... 」


おっ。ゾイは、展示物を “宗教” から離した。

風景画や、壷とかヴェネチアングラスみたいな

絵画、美術工芸品と同じ括りにして言ってみてくれてる。けど、仕事ん時の ミカエルは

“うん、ファシエル” ってならない。


「泰河。お前が、白い焔のなにがしかで

中に居るものを 出せんのか?」


師匠が泰河に聞く。


「あっ、そうか!

いや、出せるとは思うんすけど... 」


鎖で 捕まえとけるか、だよなぁ。

姫様は捕まえられたけど、基礎もとが念の凶神呪骨はダメだった。それを吸収した天狗は... ?


「それでも、このフロアから出た方がいいね」と

ジェイドが言うと

ミカエルが「わかった」って、鎖を ピッと引く。

朋樹の赤蔓が 外れた。

摩耶夫人像が 宙に浮く。ああ...


鎖に巻かれたままの像は、ミカエルの右手に

すっぽり収まったけど、一瞬 気が遠のいたぜ。


「行くぜ?」って、ゾイ連れて 展示フロアを出るし、オレらも 続いて出た。






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