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すぐ近くにあった 空気の壁の抵抗が引いていく。


「ニナ」と、アコが十字架に近寄ったが、エマに片手を取られて、座り込んだまま俯くニナから 2メートル程の距離に立ち止まる。

空気の壁は、すべて取り払われた訳ではないようだ。

ミカエルがねた悪魔の首が、舌を伸ばしたまま隣に落ちた。

どこかで 同じことがあった気がする。


空気の壁が引いた場所に 男が 二人、呆然としている様子で立ち尽くしていた。

濃紺スーツの人と、地下倉庫で泣いた人だ。

あの人たちからは印を消して、身体にも成虫はいない。もう吸血されないのか?


「シロウ・アマクサ」


地界の黒い鎖で巻かれ、舌を出している男の首に

逆手に持った血清の注射針を突き刺して、ボティスが名前を呼ぶ。


黒い天鵞絨ビロードの裾を揺らし、四郎が立ち止まった。

傍で見て、こんなに小さいのか... と 驚く。

160センチないだろう。

十字架の下にいた時は、もっと でかく見えた。


「誰の元へ行こうとしている?」


四郎は答えずに、ボティスに顔を向けた。


「お前は 間違っていなかった。

だが、また惑うのか?」


四郎が片腕を ボティスの方に伸ばし、その手のひらを開くと、ボティスは吹き飛んだ。


「ボティス!」と、移動したシェムハザが助け起こしている。

狐姿の榊が四郎の前に飛び込み、黒炎を放射するが、炎は四郎を避けた。空気の壁がある。


「止せ、榊!」


後ろから榊を抱き上げて 四郎から離すが

「責は、己の死で払われたであろう?」と、榊が 四郎に言う。


「皆、過去の亡霊にある。終わったのだ」


「二人やられた!」と、吸血された人たちの方を朋樹が引き、ルカが印を出しに走る。


榊を抱いたまま オレも向かうが

「真実を見られよ」と、また榊が言うと

化生けしょうめ』という四郎の声と共に、背中を空気に突き飛ばされ、榊ごと地面に転がった。


「泰河、榊! 大丈夫か?」


地界の鎖で 海の吸血の人を巻きながら、パイモンがオレらを引き起こすと

「痛てぇな」と言いながら、ボティスが榊を引き取りに来た。


「しかし今ので分かったが、この空気抵抗は エマの我執がしゅうだ」


我執 というのは、自分が自分である ということや

我を通すことだが...

分からねぇ。 そんなもん、誰にでもあるしさ。


榊を渡すと、アコが 吸血された人たちを連れて来たので、ルカが出した印を消す。


血液は吸い取られたが、骨髄は取られていない。

まだ首も外れておらず、舌の器官や赤色髄を貯める膜も出来ていなかったようで、普通の長さの舌先から産み付けられた卵だけを出した。


「そいつらには、まだ注意しとけよ」と ボティスが言うと、アコが 鎖の先に手枷が付けたものを、その人たちの片手だけに着ける。


「あの空気は、過去のものだ」と パイモンが鎖に巻く海の吸血の人に血清を打ちながら ボティスが言う。


「生存していた頃の情報を、そのまま “ここ” に 持ってきている」


ますます分からねぇ。

そういう顔になっていたらしく

「ふむ。エマは、城内にて処刑された折りより

時を進めずであった。

その心のままであったのよ。

幼児おさなごを探し求めておった故」と、榊が また黒炎を吹く。


「その “念” だけでなく、魂も 天や幽世かくりよなどにも参れず、こちらでもあちらでもない場所に在った」


「念 というのは、神経細胞の電気信号や シナプス部位の科学物質が漏れ出たもののことか?」と、パイモンが 榊に聞きながら、海の人が まだ舌を伸ばすのを見て、逆側にも血清を打つ。


「む? ふむ... 」と、榊が 長い鼻の首を傾げると

「または、分泌系の伝達物質でもいい。

血管に入り込み 標的臓器を目指すホルモンや、仲間に意思伝達を行うため 大気に放出するフェロモン。つまり、漏れ出した 心や感情」


“つまり部分” だけで 良くねぇか?

まぁ そういう風に、“本人から出たもの” は 実際に存在する... ってことを言いたいようだ。


「それが外界に残っただけでなく、物質である肉体を失って、俺等が契約して手にする魂も残ったということだな?」と 言った。


念は、その人から 漏れ出たり抜け出したもので

肉体や魂が その人の構成要素... と 分けて、話しているらしい。


「その念の方に、魂が囚われていたということだろう?

処刑された年月日から、“私の子” と 見失った子供を探し求めて、ほぼ 時間が進んでいない。

時間は、ひとりひとり個別のものだからな」


また よく分からねぇが、何月何日何時何分 という定めたものではなく、意識上の時間 ということだろう。

楽しい時は過ぎるのが早い、みたいなさ。

確かに時間は、一定の感覚じゃない。


「子を見失ってしまったのは、“自分が処刑された” という事実より、“子を赦してくれなかった” という想いが強かったからだ。

これにより、“斬られてしまった子” を探す。

子の方は “いんへるの へ行く” と 恐れていただろう。“裏切り者の子、罪がある者は地獄いんへるのへ行く” と 処刑前に言われていただろうからな。

だが 実際に罪を量るのは、行く先の月や幽世でのことだ。

天であれば、罪がある者は 私審判を受けた後に行く先が決まる。

そして 月へ昇る子の魂に、エマの念が影響し、引き止めてしまった。

“きっと いんへるの へ行く” と 次へ進んでいた子と

“斬られてしまった あの子は?” と、そこに留まる エマとの間に 時差が生じていく。

探しても見つからない... と いう訳だ」


ボティスの説明中に、海の吸血の人が 巻き付いている鎖を切ろうと身をよじる。

パイモンが鎖を引いて倒し、オレが馬乗りになって 身体を押さえ、また血清を打つ。


ボティスが「祈りがないと効かんな」と シャツをめくり、胸のクロスを出した。


パイモンが「待て。近すぎる」と 自分の下に防護円を敷くと

「... “聖なるかな、聖なるかな、聖なるかな、

全能者にして主なる神。

昔いまし、今いまし、やがてきたるべき者”... 」と

ボティスが 黙示録4章8節を読み出す。


鎖で巻かれているのに、オレを跳ね飛ばそうとする男を 必死で押さえながら

「エマが 子を探せないって、狭間とか隙間とか

そういう 同じ場所にいるのにか?」と パイモンに聞いてみる。どうも ピンとこねぇし。


「そう。例えば、昨日 俺は 洞窟教会に居た。

地界ではなく、お前と同じ地上だ。

“その俺に会ってくれ”。

そう言われても、会えないだろう?

“今” または、“何日の何時” と 先に時間を決定しなければ、意図的に会うのは 難しい」


榊が舌を伸ばす女に黒炎を吐き、その女を パイモンが鎖で巻いて血清を打つ。


「だが、そこに天の力が加わる。

地界の悪魔の術は、契約により その人間の未来に干渉することは出来る。

経済的に豊かにする、好む者と結ばれる といった

“願いを叶える” という訳だ。

天魔術であれば、三世に干渉する。

まぁ、天使であっても “過去” に関しては、個人的な事柄のみに限られるが。

エマは、子を所有したアバドンと契約し、“過去に囚われたエマ” のまま現世に甦った。

“我執” によってこごった “過去そのもの” を

こちらに引っ張って 使っている。

俺等と同じ場所にいるが、別々にいる。

アバドンとの契約の取り決めを守り、子を渡されたら、その子を過去に引きずり込む。

天国はらいそ” や “地獄いんへるの” ではなく、“現世うつしよ” で共に在りたいからだ。

“処刑された あの時” から やり直しがしたい。

あの空気の壁が破れないのは、“過去の空気” だからだ。

自分が造り、四郎も同じ空気に囚え、それを使わせている ということだ」


説明が済むと、パイモンは 血清を打った女もボティスの方に向かせ

「聖体を」と 榊にワインを持って来てもらい

海の人と 女に、聖別したワインを飲ませた。


「... “これは、罪のゆるしを得させるようにと、

多くの人のために流す わたしの契約の血である”... 」


ボティスが マタイの26章28節を読むと、女の方は 蝗の死骸と卵を吐き出したが、海の人は まだ吐き出さない。


「ソカリの血が問題なのか?」

「恐らく... 」


オレが馬乗りになっている海の人は さっきまでとは違い、苦しそうに荒い息を吐いている。

こんな風に鎖で巻いて、押さえ付けていて大丈夫なのか... ?


「血液型は?」と ボティスに聞かれ

「O型」と 答えると

ボティスは「泰河の血を」と パイモンに言う。


「人間から得られた抗体では 効きが悪い。

だが、ソカリから得た抗体を人間に入れる訳にはいかん。

獣の血に、直接 叩かせる」


パイモンが 新しい注射器を出すと、またオレの腕から採血しはじめた。


「ちょっと待ってくれ。もし、何かあったら... 」


「もう、“ある” だろ?

蝗を出せなければ、どの道 ベルゼの虫に喰われる。こいつ 一人に関わってもいれん」


ジェイドが祈った人も、ようやくまた 一人が蝗の死骸を吐き出したところのようだ。

次の人をゾイが押さえ、ルカが血清を打ち、ワインを飲ませている。


ハティやアコが、地界の鎖で 吸血の人を拘束し

朋樹とシェムハザが、式鬼や術で 吸血の人や悪魔から被害者になり得る人たちを護り、ミカエルとヴァイラが 次々に立つ悪魔を始末しているが、とても手が回らない。


馬乗りから降りると、ボティスと 二人で海の人の身体を押さえ、パイモンが、鎖の間から オレから採った血を腕の静脈に投与した。


両手の下で、ガチャガチャと鎖を鳴らしていた男が 大人しくなり、突然「アアアアーッ!!」と 叫び出した。白眼を剥き、泡を吹く。


心臓が どんどんと 肋骨を叩く。

... やばいんじゃないか?


「ルカ」と 榊が呼ぶと、風で 吸血の人を避けながら ルカが来て、海の人から印を探す。


「あった」と、後頭部に十字を出した。

今までと違う。


「泰河」


ボティスに呼ばれ、喉を鳴らしながら、右腕に白い焔の模様を浮かせる。

夕日のような赤い日差しが、急に 怖く思える。


白眼を剥いたまま びゅう っと舌を伸ばされ、咄嗟に 印に触れると、海の人は そのままガクンと地面に横顔を着けた。


パイモンが鎖を解き、脈や 瞳孔を診るのを信じられない気分で見ていたが

「... いや、生きている」と言われた時は、緊張が抜けて、腰が地面に着いた。


「なんで起きねーの?」と聞いた ルカに

「まだ蝗が出ていない」と パイモンが答えている。


「四郎殿... 」


榊が向けた鼻の先に 眼を向けると、四郎は、ジェイドの傍に立っていた。


神父パードレ


まだ蝗が出ていないようで、吸血の人の前に しゃがんだジェイドは、祈り続けている。


「... “『見よ、わたしはすぐに来る。

報いを携えてきて、それぞれのしわざに応じて

報いよう』”... 」


『何故、天狗と共に おられる?』


「... “『わたしはアルファであり、オメガである。

最初の者であり、最後の者である。

初めであり、終りである』”... 」


目の前の地面に 横顔を着けた男が、祈りに反応したように肩や腿を痙攣させる。


「... “『 “きたりませ“。また、聞く者も

“きたりませ” と 言いなさい』”... 」


「マラナ タ」と ルカが言い、オレも祈る。

頼む 助かってくれ、どうか...


指先が震える。

白い焔の右手で 男の肩に触れると、男は 長い舌先から血混じりの卵を出し、舌が縮むと、蝗の死骸を吐き出し始めた。


「良し」「大丈夫だ、助かった」と ボティスやパイモンも、顔の緊張を解いた。

やっとだ...

よかった と、何かに感謝をする。


「... “『かわいている者は ここに来るがよい。

いのちの水が ほしい者は、

あたいなしに それを受けるがよい』”... 」


神父パードレ... 』


また四郎が呼ぶと、ジェイドは 四郎を見上げ

「つまらないことにこだわっていないで、この人のために 共に祈ったらどうだ?!」と 一喝した。


「ジェズの言葉は、生きた言葉だ。

それを生かさず、何をしている?」


ジェイドは、ゾイが支えている蝗憑きの人に また向き直り「Marana tha」と 額に手を置く。


「... “これらのことを あかしするかたが仰せになる

『しかり、わたしは すぐに来る』

アーメン、主ジェズよ、きたりませ”... 」


ジェイドの前で、男が蝗の死骸を吐き出した。

ゾイが「よく頑張られました」と、背中をさする。


「次の人を」と ジェイドが立ち上がり、ハティに言っていると

『これは、異教徒ぜんちょでしょう?』と、四郎が ジェイドを見上げる。


赤い日差しの下で 自分を見上げる四郎を見た ジェイドは、厳しくしていた眼を少し緩めた。


「あなたの時代と、世は変わった。

南蛮の伴天連バテレンである僕が こうして日本ここで暮らし、御言葉オラシオを伝えることが出来るようになった。

けれど それは、あなた方の痛みがあってこそだ。

信仰ヒイデスを護ろうとした あなた方の精神スピリツは、引き継がれて ここに生きている。

あなた方を知る人の胸に、あなた方は共に生きている」


『だが、まだ こうして異教徒ぜんちょが...

神父パードレ。あなたは知らぬだろうが、たくさんの者が 人によって殺された。

生命だけでなく、その信仰ひいですを、精神すぴりつを奪われた。

天狗と手を取るなど、天主でうす様は御許しになられない。

再び人々に 十字架くるすが立つ』


異教徒ゼンチョなら手を差し伸べないのか?

救いが必要な者に手を差し伸べて、審判など下るものか。

“互いに愛し合いなさい” と、天人ゼズは言った。

それが すべてだ。

審判が下るのは、それが 世から失われた時だ。

誰かの救いになるのなら、僕は、天狗だろうと 化生けしょう魔縁まえんだろうと、その手を取る。

そんなことで、僕の信仰ヒイデスは揺るがない。

天地てんち同根どうこん 万物ばんぶつ一体いったい一切いっさい衆生しゅじょう 貴賤きせんを選ばす”。

そうあるべきだ」


『なりません』と、エマが 口を開いた。


『それならば、あの子は どうなりましょう?

ふらんしすこ様。天狗と手を取る神父パードレなどに 御耳を傾けられませんよう。

異教徒ぜんちょを 世から除かなければ、必ず また人々に十字架くるすが立てられます。

私が、ふらんしすこ様が、こうして現世こちらに戻されたという意趣を お考えになって下さいませ。

それこそが 天主でうす様の御意志なのです』


四郎が、ジェイドの眼から視線を下ろし、ジェイドの胸に掛かる ロザリオの十字架を見つめた。


「シロウ・アマクサ」


ハティが声を掛ける。


「我等 天狗が、こうして その神父パードレに使役されているのは、あそこに見える 天の天使あんじょかしら、ミカエルのめいによるものだ。

そのかしらのミカエルは 今、別の天狗を成敗している。

さて、これら天狗のかしらは誰なのか

エマに聞いてみるが良い」


『ふらんしすこ様

私共 母子ははこは、木石ぼくせきでありましたか?

ゆりいな は、あの子は 木ぎれや石ころだったので ありましょうか?』


ロザリオの十字架から、四郎が眼を背ける。


『“わたしの子を あわれんでください”』と

エマが マタイ17章を読むと

地面に背けた眼を上げ、ジェイドに向けた。


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