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『そうだ。聖子は、すべての人間のために

犠牲になった』


露ミカエルが答えている。


ルカや露ミカエルが話しているのは、イエスが

原罪... エバとアダムが犯した善悪の実を食べた罪 をあがなって、磔刑たっけいにされたことだ。


この時、二人には罰... 男には労働、女には出産の苦しみや 男への従属が 課され

これが遺伝として すべての人間に受け継がれて

“原罪” となった。


二人は罰を負い、楽園エデンから追放されたが

これは、神が与えた “霊が死んだ” 状態だという。

よって 楽園には戻れない。


「主っていう聖父と、モレクって

どう違うんだ?」


ルカが聞く間に、シェムハザが顕れた。

何か話をしているのを察して、コーヒーやマドレーヌを取り寄せてテーブルに並べると、オレの隣に座った。


逆隣には ルカ。その隣にアコ。

向かいは、ボティスの隣に露ミカエルと朋樹。

露ミカエルの隣にジェイドだ。


「オレん家、母さんがカトリックだから、コドモん時に よく教会について行ってさぁ。

聖書も たまに読んだんだけど、昔から 引っ掛かる部分があるんだよな。

主なら、生贄を取っていいのかよ?

異教信仰の人間も、堕落した人間も散々 殺戮してる。過越すぎこしで、エジプトの長子を殺したよな?」


ルカが言っているのは 旧約聖書の話だ。

ノアの時代の大洪水や、アブラハムの時代のソドムとゴモラ。

そして 過ぎ越しは、モーセの時代の話にある。


アブラハムの子で 生贄にされそうになったイサク。その子のヤコブ... イスラエル。

イスラエルの子、ヨセフがエジプトに売られ

権力者となり、飢饉から逃れるために

イスラエルたちは ヨセフがいるエジプトに居留した。

その後、イスラエル人たちは エジプトから管理される立場となり、強制労働を課され、奴隷化していく。


ヨセフの子レビ、レビの子がモーセ。

主なる神は、“カナンへ戻れ” と モーセに告げる。

“エジプトに居留するイスラエル人を連れて” と。


モーセは、イスラエル人の解放を エジプトのパロを求め、主に与えられた力で、奇跡を顕す。

杖を蛇にして見せたが、エジプトの呪術師にも同じことが出来たので、パロは主を信じず、イスラエル人を解放しなかった。


モーセは また主に背を押され、主の力により奇跡を起こしてみせる。“十の災い” だ。


川を血に変え、町中に蛙を放ち、ぶよやあぶを放った。疫病を流行らせ、腫れ物を生じさせる。

ひょうを降らせ、いなごを放ち、暗闇でエジプトを覆った。

それでも パロはかたくなに、イスラエル人の解放を

許可しない。

『解放する... いや やっぱり駄目だ』と

やればやるほど、意地になるように。


主は、最終手段に出た。

エジプトの長子の皆殺しだ。


これは 王の子に限らず、エジプト全土の長子... 家督を継ぐ子や、家畜の初子に至るまで すべての子が対象だった。


“イスラエルの子は、私の子。私に返せ” と。


この時に 主は、イスラエル人たちを護るための印を付けさせる。

いや、災いが “過ぎ越す” ためだ。


出エジプト記によると、手順は細かく決まっているが、大まかには、“一家族で 小羊を一頭 取り

その血を家の入口の二本の柱と 鴨居に塗れ”... と

いうものだ。


“小羊” は、傷のない 一歳の雄でなければならない。これは、羊 または山羊から取る。

家族の人数が少なければ、家のすぐ隣の人と取る。


夕暮れに小羊を屠り、血を取って

入口の 二本の柱と鴨居に、ヒソプで塗る。


その夜に、小羊の肉を焼いて食べるが

種... 酵母 入れずに焼いたパンと

苦菜... チコリなどの苦味のある菜 を添えて

食べなければならない。

肉は、生でも水で煮てもならないし、頭や内蔵や足も共に焼き、朝まで残るものは、焼き尽くしてしまわなければならない。


食べ方まで規定されており、腰を引きからげ

靴を履き、杖を持ち、急いで食べる... とある。


こうすることにより、主は


... “その夜 わたしはエジプトの国を巡って、

エジプトの国におる人と獣との、すべてのういごを打ち、またエジプトのすべての神々に審判を行うであろう。わたしは主である。”


“その血は あなたがたのおる家々で、あなたがたのために、しるしとなり、わたしは その血を見て、あなたがたの所を過ぎ越すであろう。

わたしがエジプトの国を撃つ時、災が臨んで、

あなたがたを滅ぼすことはないであろう。”


... と、家の入口の柱と鴨居に、血の印がある イスラエルびとの家は過ぎ越して、エジプトのすべての長子を屠った。


その夜の内に、パロは 死んだ自分の子を抱きかか

モーセたちイスラエル人に

“今すぐに立ち去れ” と、出国を許可した。


「主なら、殺してもいいのかよ?」と

ルカが聞く。


それは オレも、聖書を読んでいて

同じように引っ掛かったところだったが

オレはもっと 軽く読んでた。“物語” としてだ。

聖書は、オレからすると

日本神話や仏教の話よりも 馴染みが薄い。

“神って怖ぇ” とか、その程度だった。


ジェイドが口を開き掛けたが、そのまま閉じ

露ミカエルが ルカに答える。


『父は、自分の子達を

四百年以上の奴隷生活から 救いたかったんだ。

過越の以前に、パロがイスラエル人を解放していれば、エジプトの長子は屠られなかった。

ああしなければ、父の子のイスラエル人達は

エジプトで絶えてしまっていたからだ』


「殺さずに出来なかったのか? 主なのに」


『そうだな。だけど、解放したイスラエル人に

エジプトのパロは、軍の追っ手を差し向けてる。

父は、モーセを通して話し、幾つも奇跡を見せて

説得はしてるんだ。

だけどパロは、聞く耳も持たなかっただろ?

人に人を殺させたくなかったんだよ』


言っていることはわかる。

イスラエル人たちも 奴隷生活からまぬがれた。

仕方のないことだったのかもしれない。

ユダヤ教では 今も、この解放を祝う “過越祭” が行われているようだ。


「なら、その後に言った

“すべての初子を聖別しろ” っていうのは

何なんだよ?」


これは、主が カナンに戻ったイスラエル人たちに

向けて言った言葉だ。


聖別、というのは

他のものと分けて 主のものとしろ、ということらしい。


『新たに、自分の子に戻れ ってことだ。

家畜の初子は生贄として焼いて出させたけど

汚れた動物ではないロバや 人の子は、贖罪羊スケープゴートで代用させただろ? イサクの時も』


露ミカエルは、突っ掛かるような調子で話すルカに、ずっと 穏やかな調子で答えた。


オレは、話を聞く前よりは

過ぎ越しや初子の聖別に納得 出来た。

けど ルカは、まだ腑に落ちてない顔のままだ。


『“生贄” 自体が 気に掛かるのか?』


露ミカエルが聞くと、ルカが頷いて

テーブルのコーヒーを口に運んだ。


『じゃあ、待ってろ。話をしよう。

俺も珈琲 飲みたいから、エデンから降りる』


露の眼が新緑色に変わると、庭の温泉の向こうに

エデンのゲートが開いて

翼を背負って、ニットにジーパン、赤ブーツ

片手にモッズコートを持ったミカエルが降りてくる。


サッシを開けて、ブーツを脱いで上がると

ソファーの背凭れから、無理にボティスと朋樹の間に入り、朋樹にコートを渡して胡座をかくと

膝に露を乗せる。


珈琲を 一口 飲んで「生贄の話だよな?」と

ルカに、ブロンド睫毛の明るい碧眼を向けた。


「まず 生贄っていうのは、父のためじゃない。

人間自身のためだ。

動物を屠る者は、その命を負う。

“父へ捧げるため” という理由があれば、罪悪感は

父によって無に帰される。

生贄は、父へのあがないだ。目に見える罪滅ぼし。

過越の後の場合は、父から離れていたことに対して。

そして 初子... 初めの子を 父に捧げることによって

その血族は、また 父の子となる。

命は、血の中にある。

だから血を流すことが必要となるんだ」


普段、ジェイドと よく話している朋樹は

生贄や贖罪についても 知ってはいたようだが、

今のミカエルの話も しっかりと聞いている。


ボティスもシェムハザも、説明はミカエルに任せているようだが

「少し話は ずれるが、もうひとつの役割として

似たような概念であれば、この国の “神使” だ」と ボティスが口を挟んだ。


「榊は、月夜見に仕えているだろ?

父に捧げられた生贄は、父の元へいく。

生贄は、“人間と神を繋ぐ” ものだ。

人間から父への働き掛けとなる。

父から人間へは、天使の幻視や預言によって働き掛けられる。

榊等 神使は、どちらも担っている」


「そうだな」と、ミカエルが話を引き継ぐ。


「そして 動物の生贄が、幾度か繰り返されたのは

動物では完全な血ではないからだ。

父が手ずから造ったものではないからな。

罪の度、その都度その都度の贖罪羊が必要だった。でも それじゃあ、原罪は贖われない」


「... それで、聖子イエスってこと?」


ルカに ミカエルが頷く。


「聖子は、そのために 自ら人間として降りた」


つい「生贄になるため?」と、口を挟むと

「そう。すべての人の血にあった罪を贖うためにな。罪がある者には、他人の罪まで贖えない。

罪のない聖子が磔刑に処されることで、原罪は贖われた。

そして このことは、前8世紀に預言者だった

イザヤが書き記している」


そうだ...


イザヤ書には、イエスが生まれる ずっと前に

イエスの誕生と、原罪の贖罪が書き記してある。


「父の計画だった」


「生贄が?」


「それだけじゃない。

この頃、一般にユダヤ教と呼ばれる 父の教えを守る信仰は、信徒たちが戒律をどんどん増やしていって、体の弱い者や老人、幼い者が守るには難しいものとなっていた。

それを変えたのが聖子だ。戒律を守ることだけが

大切なのではなく、父の教えを守ることだ と」


イエス自身は、ユダヤ人で ユダヤ教徒だった。

その頃の厳しい戒律に疑問を持ち、新しく教えを説いていく。

ユダヤ教からキリスト教が分かれたのは、イエスが天に昇ってからのことで、キリスト教は イエスの弟子たちが築いた。


聖書は、主と人との契約の書だが

“旧約” や “新約” というのは、キリスト教から見た

もののことで

“新約” は、イエスが生まれてからのものだ。


「父は、原罪を許したかったんだ。

もう人間に 何の血も流させないようにな。

お前達と 罪で繋がっていたいんじゃない。

聖子が血を流したのは、過越祭の時だった。

最後の晩餐のパンとワインは、過越の小羊だ。

父のひとり子、聖子に それをさせる程

お前達は、愛されている。信じていい」


静かなミカエルの声を聞いていて、胸や瞼が熱くなった。ルカも言葉はない。


ルカは、半端に聖書や教会に触れて

きっと 信じるのが怖かったのだろう、と思う。


ミカエルは、オレやルカの表情を見て

過去の主の生贄について、理解したとわかったようで、温かく笑った。


「でも 生贄については、もうひとつあるな。

父ではない、異教の神の生贄のことだ」


そうだ。ルカは、“モレクとは どう違うんだ?” と

聞いたんだった。

オレも、“火に通すな” っていう さっきの言葉が

まだ気になってる。


「だが、少し休憩したらどうだ?」と

シェムハザが、テーブルのマドレーヌを指差し

更に高級チョコと、露に白身魚を取り寄せると

「うん。食べながらにしよう」と、ミカエルが

「タルトは?」と、シェムハザに聞き

アコがチョコを食って

「美味いぞ」と、ルカの口にも放り込んだ。





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