19



翌日


外はまだ明るいが、時間は もう夕方だ。


黒い神父服... スータンを着たジェイドは

ストラという 長いストールのような物を両肩に掛け、磔の十字架に祈っている。



昨日、ジェイドは無理に

リンの 一時的な退院を取り付けた。


許可出来ない という医者に

「このままでは 快方へ向かうことはない。

あなたにも わかっているはずだ。患者を死なせるのか?」と、半ば脅すように説得する。


それでも許可が下りないと

「なら、拐う」と、宣言した。


「僕は、竜胆を救う。

その後なら訴えでも なんでもすればいい。

あなたは無能だ」


医者は、眼を閉じてため息をつき

自分が教会に同行することを条件に、半日だけの退院を許可した。



ステンドグラスを 夕陽が照らし出した頃

教会の前に車が停まる音がして

「やめろ!」と 騒ぐ声が聞こえてきた。


「着いたな」


ジェイドが言う。


「ルカ、おまえが 竜胆の身体を押さえるんだ。

僕が いいと言うまで 離すなよ」


教会の扉を開くと、病院のバンから引きずり下ろされたリンが 医者と父さんに両脇を支えられ

引きずられながら石畳を進んでいる。


後ろには 母さんがいた。


リンは、手だけは拘束されていたが

父さんも医者も振り払われないように苦労している。


「やめろ! やめろおおっ!

俺を そこに入れるなあっ!!」


リンは 叫んで抵抗していたが、教会に入ると

荒い息をしながら大人しくなった。


「竜胆を ここに」


ジェイドは 磔の十字架の下で言う。


リンは ジェイドの姿を認めると、青い顔をして

小刻みに震え出した。


医者と父さんに連れられて、リンは十字架の下に寝かされる。

オレが リンの両肩を押さえると、父さんが リンの両足を押さえた。


母さんと医者は 少し離れて見守っている。


「竜胆。つらくても耐えてくれ」


ジェイドは、指に聖油をつけて

リンの額に十字を描いた。


途端に リンが叫んで身を捩り、オレと父さんが押さえる手に力を入れる。

医者も近寄ってきて、リンの拘束された両手を掴んだ。


「天におられる私たちの父よ

み名が聖とされますように

み国が来ますように」


ジェイドが 主の祈りを始めると

リンが叫ぶ。


「きゃあああぁっ! いやあああぁっ!」


いつもの男の声とは違う。リンの声だ。


「... みこころが天に行われるとおり

地にも行われますように」


眼も白濁していない。


「やめて! お願いよ!」


ジェイドは リンに聖水振り掛け、祈りを続けた。


「... 私たちの日ごとの糧を今日もお与えください

私たちの罪をおゆるしください

私たちも人をゆるします」


「ジェイド、もうやめて! 苦しいの!

ニイ、やめさせて! お願い!!」


オレは黙って、その顔を見つめる。

違う。リンじゃない。


「... 私たちを誘惑におちいらせず

悪からお救いください アーメン」


リンは ぐったりとして眼を閉じたが

ジェイドは リンの額を掴む。


「名を言え」


リンは 眼を閉じたままだ。


「名を言えと言っている!」


ジェイドが強く言うと、リンは眼を開けた。

あの白濁した眼だ。


「... グラム」


そいつは歯を剥き出して答えると、取り押さえていたオレらを振り飛ばした。


リン... グラムは、上体を起こして立ち上がろうとしていたが、オレが後ろから腕を回して羽交い締めにする。

父さんと医者が 足を片方ずつ押さえ込んだ。


ジェイドは グラムの前にしゃがみ

首にかけたロザリオの十字架をグラムの眼の前に出す。


「グラム、聖子の名のもとに汝に告ぐ!

今すぐに その身体から立ち去れ!」


グラムは 必死に身体を捩り

十字架から逃れようとしている。


顔には苦悶の表情を浮かべているが

ジェイドを恨みを籠った眼で睨んだ。


「若き神父め... 呪ってやる」


「やってみろ」


グラムは、言ってはみたものの

十字架から眼を逸らして横を向く。


「立ち去れ。今すぐだ。

ジェズ・クリストの名の下に

グラム、おまえに命ずる」


グラムは 獣の声で咆哮した。

オレは腕を解かないように必死だ。


父さんも医者も腕だけでなく、身体ごとで足を取り押さえている。


青黒い獣毛の顔が重なる。


「... この女は俺のものだ!!

死なせてやる! 魂は渡さん!」


教会に、濡れた獣の臭いに混じり

腐った臭気が漂う。

羽交い締めにした腕の中で、早鐘のようだった鼓動は不規則に打ち出している。


「させると思うか?

お前は今、どこに居ると思っている?

“祈り求めることは、すでに叶えられたこと”」


ジェイドは グラムの顎を掴んで

教会の磔の十字架に顔を向けさせた。


「“神よ、立ち上がって その敵を散らし

神を憎む者を み前から逃げさらせてください

煙の追いやれるように 彼らを追いやり

蝋の火の前に溶けるように

悪しき者を 神の前に滅ぼしてください”」


グラムは、ゼッ ゼッ と、浅く短い呼吸を

切れ切れに繰り返す。... 鼓動がおかしい。


医者が ジェイドに顔を向けるが

ジェイドは「まだだ」と、グラムの顎を掴み直し、自分に顔を向けさせた。


「グラム、おまえを地下に追い返してやる。

主は喜ばれる。

‘’わたしの敵が わたしに打ち勝てないことによって

あなたが わたしを喜ばれることを

わたしは知ります‘’」


聖油を指につけ、グラムの白濁した虚ろな両眼のまぶたに塗った。

また額に十字を描くと、グラムの胸で

一度大きく拍動した鼓動が止んだ。


もう これ以上は... と

身体に回した腕を ほどこうとした時に

グラムの中に 花を見た。


青紫の連なった つぼみのひとつが脹らみ

花弁をひらく。


「... リン!」


母さんが真っ赤な眼をして

リンに語りかけた。


「聞こえているわね?

あなたから、それを追い出すのよ!

大丈夫。私は信じているわ!」


羽交い締めにした身体から力が緩む。


ジェイドが またグラムの額を掴み

十字架を鼻先に突き付けた。


「····“Pater noster, qui es in caelis

sanctifietur Noman Tuum;

adveniat Regnum Tuum;

fiat voluntas Tua, sicut in caelo, et in terra.”」


ジェイドの詠唱は イタリア語じゃない。

オレが聞いたことがない言語だ。


グラムは カッと眼を開き、天を仰ぐと

喉が切れそうなほど絶叫を繰り返す。


指先や脚が痙攣し出し

そのうちに ガタガタと震え出した。


「····“Panem nostrum quotidianum da nobis hodie;

et dimitte nobis debita nostra,

sicut et nos dimittimus debitoribus nostris;

et ne nos inducas in tentationem;

sed libera nos a Malo.” Amen.」


がくん と、リンの頭が オレの肩に乗り

腕や脚からも 力が失われた。


ジェイドが 額の手を離す。


「もう、大丈夫だ」


オレや父さんが リンから手を離して

床に寝せると、医者が瞳孔や脈を観察する。


医者が「心配ありません」と頷くと

母さんが リンの隣に座って、手を取った。


「ああ、主よ 感謝します...

よく頑張ったわ... Mio caro bambino」


ステンドグラスの向こうに

静かな夜が訪れた。




********




「ずっと、夢を見てた...

でも、哀しかったし 苦しかった」


「退院したら、学校ね。大丈夫?」


リンは ベッドに、起こしていた身を預けた。


「すぐに 行かなくちゃいけないよね?」


父さんは「無理をするな」と答えた。

「一年くらい 休学しても構わんぞ」


リンは、少し考えたい と

白いシーツを口元まで上げた。


ずっと 恐ろしい悪夢の中にいて

気がつくと、季節が変わっている。

現実に追い付けないようだった。


オレとジェイドは、リンを父さん達にまかせて

神父の病室へ行くことにした。

今回のことの報告に。


リンに「琉地、おいとくぞ」と言うと

リンは ベッドの隣にいる琉地に手を伸ばし

鼻先に触れた。


琉地は、しばらく呼んでも来なかったが

今日は オレより先に病室にいた。


「... うん。ルチはずっと夢の中で

あいつから 私を護ろうとしてた」


そうだったのか...


琉地は、当然 とばかりに

鼻を ふんと鳴らした。



神父は、窓からの陽光の中

穏やかにオレらを病室に迎え入れた。


「すべて、終わったんだね」


オレらが 何か言う前に、そう言って微笑む。


だけど、身を起こすのはつらいようで

ベッドに横になったままだ。


近くに行ったジェイドの手を、あの厚みがある

しっかりとした 温かい両手で取ると

「よくやってくれた、ありがとう。

竜胆さんは 救われたのだね」と、眼を閉じて短く祈った。


ジェイドが頷き、ベッドの隣にしゃがんで

神父と視線を合わせる。


「あなたのおかげです、神父。

とても勇気が、そして愛情がある方だ。

僕は あなたを尊敬します」


神父は、いやいやと首を振り

短い時間、じっとジェイドを見つめた。


神父の話を待つジェイドに


「... 君に、あの教会と私の家を託したい。

どうか この地で苦しみ悩む兄弟姉妹たちを

救ってはくれないだろうか」と告げた。


「だけど、僕は... 」


突然の申し出に躊躇するジェイドに、神父は


「私は こうして、呪いから解き放たれ

召されることができる。

君には 本当に感謝している」と、微笑み


そのまま、静かに目を閉じた。


「神父... ?」


ジェイドが 神父の脈に触れる。


「ルカ! ナースコールを!」


急いで、枕元のコードを引っ張り

ナースコールを押した。


すぐに、看護士が来て医者を呼ぶと

オレらは、病室の外に出された。


病室の外から、蘇生処置を受ける神父を見守る。肋が折れるのではないか というほどの力で

心臓マッサージを受けている。


神父は動かない。


自分の心臓が 耳元にあるようだった。


「呪いは、解いたんだ」


「わかってるよ、まだ神父は... 」

亡くなっていないだろう?


そう言おうとした時に、医者が処置をやめた。


神父は、亡くなった。

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