其の二 帰宅したら家の中にも外にも霊がいた由

 木造アパートの二階廊下に、その少女はたたずんでいた。

 頭の天辺てっぺんから足の先まで、何から何まで黒ずくめのだった。

 ブレザーにリボンタイ、ロングスカート、タイツから革靴に至るまで全部真っ黒。

 極めつけは腰まで届く、艶々つやつやの長い黒髪。長すぎて片目なんか隠れちまってる。

 だけどその姿は、とてもはかなげで、美しかった。

 俺は仕事帰りだったから、くたくたに疲れていて。

 今日も一日、勤め先の弁当屋で揚げ続けていたフライの匂いが全身にみ込んでいて。

 ひょっとして脳にまで沁み込んで、一時的に頭がどうかなってるんじゃないか、そう思った。

 でなけりゃ冴えない俺の家の前に、こんな美少女が立ってるわけがない。

「あの、えーと…」

 物凄くアホっぽい声のかけ方をしてしまう、俺。

 いやしょうがないじゃん。俺、二十歳だけど彼女なんかロクに出来た試しないし。

 っつーかこれまでの人生で女の子とマトモに会話した記憶すらないし。

 「そこ、俺ん家の玄関なんだけど…君は?」

 俺の問いかけに、少女は。

 うつむいて、物憂げな表情を浮かべた。

 「え」

 何か今にも、泣きそうだ。

 ちょっと待ってくれ。俺、今なんかしたか。

 「ご、ごめん!なんかビックリさせた?えーと、だから俺は…」

 「無頭むとうくん?」

 「はい」

 名前を呼ばれて、つい反射的に返事をしてしまった。

 いや、だからそうじゃなくって。俺は改めて少女に色々と尋ねようとして。

 そして、言葉を失った。

 顔を上げた彼女の眼に、涙が浮かんでいたから。

 「ごめんなさい…」

 小さな声で言うと、彼女の姿は薄くなった。

 そのまま、煙のように空間へ溶けて、いなくなった。

 俺は硬直していた。

 頭を二、三度自分で叩いた。こんこんと、にぶい音が頭蓋骨の中を響き渡った。

 ――よっし分かった落ち着けもう一度整理してみよう。

 第一に、俺は誰か?

 答え。俺は無頭詠一むとうえいいち。二十歳。自分で言うのもあれだが冴えない大学生。弁当屋勤務。

 第二に、ここはどこか?

 答え。俺の下宿先。木造ボロアパート『真帆路荘まほろそう』その二階。の、廊下。公共スペース。

 第三に、今は何時か。

 答え。午後八時ぐらい。俺、仕事帰り。あとは家帰って寝る以外することない。

 そして第四に、今のはなんぞや。

 答え。知らない。わかんない。

 少女のいた所まで歩み寄ってみる。何もいた気配もなく、妙な匂いとかもしない。どっかにプロジェクターか何かないかアパートの廊下を見回してみたが、当然そんな物ある筈なかった。

 俺はため息をついた。それから意味もなく廊下の手すりに捕まり、階下をのぞき込んだ。

 駐車場があるだけだった。当たり前だ。

 俺はもう一度ため息をついた。

 ――なんっだ、今の。

 内心、メチャクチャ動揺していた。

 え、なに、やだ、霊現象?やだなーこわいなーとか、アンビリーバボーとか、そういう系?

 頭を抱えた。その場に座り込んだ。

 「うわー…やだ、すげーやだ、何いまの…」

 周りにゃ誰もいない。それが余計怖い。

 頭の上で蛍光灯がブウンとか音を立てた。いや止めて。今そういうのマジ止めて。

 疲れてるんだ。仕事明けで疲れてるんだ。だから変な幻覚を見たんだ。

 だって俺、霊感とかないし。生まれてこの方、霊なんか見たことも触ったことも食べたこともないし。心霊?オカルト?何それ美味しいの?

 とにかく疲労のせいだ。だから幻覚とか幻聴とか、そういうのを見たり聴いたりしたんだ。

 俺はポケットに手を突っ込んだ。自宅の鍵を取り出した。とにかく家に入ろう。ちょっと落ち着こう。確か冷蔵庫に麦茶があったはずだ。いつ買った奴か忘れたけど。

 何でもいいから、それでも飲んで頭冷やそう。落ち着こう。スポンジになりかけてる自分の頭に言い聞かせて、俺は家のドアを開けた。

 ワンルームの部屋内はいつも通り静まりかえっている。これまた当たり前だ。一人暮らしだし。上京三年目だし。

 俺はわざと音を立てて部屋の電気をつけた。雑然とした俺の家。玄関入ってすぐは流し台。部屋の真ん中にはちゃぶ台。右端には冷蔵庫。奥の窓辺には何か俺をじっと見てる白い人影。

 俺はまたわざと荒っぽくクロックスを脱ぎ捨てた。そのままズカズカ更に乱暴な物音を立てて家に上がる。普段なら下の階に遠慮してこんな音させないけど。

 冷蔵庫を開ける。ペットボトル入りの麦茶を取り出す。500ミリサイズの安かったヤツ。キャップを開ける。腰に手を当てて一気に飲み干す。賞味期限を見る。やっぱり切れている。

 ――いや、いい。ひとまず、それはもういい。

 ペットボトルをゴミ箱へ放り込むと、俺はちゃぶ台に向かった。やっぱりドカドカ足音を立てながら。

 腰を下ろす。顔を上げる。窓辺を見る。

 やっぱり、白い人影が、いる。

 うん、分かってた。最初部屋に入った時から分かってたけどさ。

 さっきの、玄関にいた黒い少女とは違う奴だ。やっぱり女だけど。こっちは全身白ずくめだ。何か格好も古っぽい。着物だし、頭にあの三角の飾りをつけている。マンガで見る幽霊とかがつけてる、あの三角のヤツ。名前知らないけども。

 そう、これは幽霊だ。

 どっからどう見ても、いやんなるぐらい、ステレオタイプな幽霊だ。

 それが青白い顔で俺をじっと見ている。

 それはもう、穴が開くほど、じっと俺を見てくる。

 やめてくんないかなあ。

 と、いうより、どうすればいいんだ、俺。

 何で家の外どころか家の中にまでこんなのがいるんだ。

 正直、勢いでここまで上がり込んだが。

 白い幽霊は、俺から目を逸らさない。

 ぶっちゃけるよ。

 とんでもなく怖いんだがこの状況。

 何ていうか今すぐ悲鳴上げて逃げ出したいんだが。

 でもどこ逃げればいいんだ。交番?いや、警察行ってどうするんだ。じゃあ寺?この辺、寺とかどこにあるんだ?

 ドッキリじゃ、ないよな。何かクオリティおかしいもんなあの幽霊の肌。メイクとかじゃなくて、体の芯から白いって肌の色だもんな。じゃあ何かって、本物?いやでも、まさかそんな。

 俺が脂汗を垂らしていると。

 すうっと、音もなく、幽霊が窓辺から離れた。

 待って。

 何で、俺の側まで、来るかなあ。

 幽霊と俺の距離は、もうメッチャ近い。

 立ち上がったら触れるぐらい、そりゃもう近い。

 は?なんだこれ。どうすれば良いんだ。

 詰んだ。どう考えても、詰んだ。この状況。

 俺が恐怖とパニックに振り回されもう吐き気すらもよおしていると。

 幽霊が、俺に顔を近寄せて。

 両手を突き出し、か細い声で。

 「うらめしわ」

 確かに、ささやいた。

 だらりと両手を、ぶら下げて。

 お化け屋敷とかで見かける、そのままの姿で。

 俺は改めて、幽霊を見た。

 ふいっと、幽霊は顔をらし「うらめしや」と言い直した。

 噛んだ。

 噛みやがった、こいつ。

 この状況で、よりによって噛みやがった。

 「う、うらめしやっ」

 「何回も言い直すなッ!」

 俺は立ち上がり思わず叫んだ。幽霊はびくっと体を震わせた。明らかにビビっていた。

 「何だお前っ!幽霊ならもうちょっとちゃんとしろ、見せ場だろ⁉今の幽霊的に最大級の見せ場だろぉっ!?」

 「だ、だからうらめしやって言いましたっ!」

 身を震わせたまま幽霊は反論してくる。思ったよりも可愛い声で。

 「言えてないだろ!すげぇ噛んだろ!言い直したろ!」

 「だ、だって、こんなの久しぶりで、あうう」

 「頬を赤らめて照れるなぁっ!」

 おまけに涙目である。

 何だ、こいつは。

 「な、なんですかあなたっ!わ、私はあなたを祟りに来たんですよ!祟られる側のクセに生意気ですっ」

 「何がタタリだこのぉ!」

 俺は怒っていた。何なんだ今日は。

 俺は疲れてるんだ。今日はもう帰ったらシャワー浴びて寝るだけのつもりだったんだ。それが何だ、黒やら白やらの幽霊だかに脅かされて。しかもこの白いのは何か気が抜けた感じだし。

 俺は怒っていた。自分でも訳の分からない怒りだった。こいつらは一体なんなんだ。何で俺の至福之一時ぷらいべーとを邪魔するんだ。

 「な、なにするんですかぁ、来ないでっ。来ないで下さぁい!」

 半泣きで幽霊はじりじり後ずさる。他人が見たら多分俺の方がアブナイ奴だ。この幽霊が他人に見えればだけど。

 「やかましい、そこ動くなぁ!」

 幽霊めがけて俺は飛びかかった。

 「い、いやぁぁっ!?」

 どがばきゃ、とか音がした。

 俺は畳に頭を突っ込んでいた。

 痛い、物凄く痛い。

 「…えーと」

 すり抜けた。

 俺は間違いなく、あの幽霊の体をすり抜けていた。

 「あ、あのぅ、大丈夫ですか?私みたいに実体がない者に飛びかかっちゃ、危ないですよ?」

 優しい声をかけられる。

 なんなんだ本当にコイツ。

 俺は起き上がる。頭がヒリヒリする。

 幽霊はまたビクリと震え上がり、俺から距離を取った。マジかよ宙に浮いてるよ浮いちゃってるよコイツ。

 「お前、何だ」

 俺は幽霊を見上げながら聞いた。幽霊はちょこんと首をかしげた。くそう、いちいち仕草が小動物的に可愛い。幽霊なのに。

 「お前!何だ!さっきの黒い奴の仲間か!」

 幽霊は、俺の質問を聞いてなぜか悲しそうな顔をした。

 「えーと、分かりませんか?」

 「幽霊なのは分かった!けど誰だかさっぱり分からん!なんなんだ!」

 「本当に、知りません?昔は結構人気があったんですよ」

 「知らん!ぜんっぜん分からん!」

 ひゅうう、と幽霊は冷たい息を吐いた。まさかこれ、ため息なのか。

 「しょうがないですねぇ…」

 次の瞬間、俺の目の前に火の玉が現れた。

 俺は叫ぶのを我慢した。火の玉は幽霊の周りに次から次へと現れる。そしてぐるぐると幽霊を取り巻いて回りだす。

 「いちまぁい、にまぁい、さんまぁい…分かりませんか?」

 言われて気がついた、全部で九つ現れた火の玉の中に、何かある。

 「よんまぁい、ごまぁい、ろくまぁい、はちまぁい、きゅうまぁぁい…」

 皿だ。

 真っ白な皿が、踊る火の玉の中に浮かんでいる。

 「一枚、たりなぁい!もう、お分かりですよね!」

 火の玉が、ぱっと弾けた。皿が一斉に、床へ落ちた。

 だけど、砕ける事なく空中で消えた。

 「私、番町皿屋敷のお菊と申します!無頭詠一さん、あなたを祟りに参りました!」

 そして日本三大幽霊(あとからwikiで調べた)の一人は、元気いっぱいに俺へ笑いかけた。

 ――なんなんだ。

 他に何も言えなかった。

 

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