第3話 「卑怯」の中身から

 当時の戦のルールというものが明確にあったのかどうか、これは私には何とも言えません。

 ルールブックがあるわけじゃなし、ルールというより単なる慣習だとしても、それがどれだけの強度で浸透していたのか、把握するのはなかなか難しいです。

「やあやあ我こそは~」と名乗りを上げる一騎打ちという慣習も、保元・平治の乱(源頼朝や義経のほぼ親世代の戦争)以降はどれだけ守られていたのだろう? という感じですし。


 義経得意の奇襲についても、「スゴイ!」と思うか「汚なっ!」と思うかは人それぞれです。

 ただ、当時の貴族内の権力者、九条兼実の日記『玉葉』(源氏方について多く触れられているし、戦の情報は朝廷に着けば兼実が把握していた)では、「義経は頼朝に従わず、忠孝の道を乱して天下を騒がせ、ダメな奴だ」とは言っているものの、「義経は戦のルールを守らなくて卑怯だ」とは一言も書いていません。

 ブログやTwitterなどで「義経は当時、源氏内でも卑怯者とされた」と明記しているものもありますが、今のところ私には根拠は不明です。推量の域を出ない割には、言い切られていることがありますが…。

 なお、義経の奇襲として有名な「鵯越の逆落とし」ですが(崖のような急坂を馬で駆け下りて平家の背後から奇襲したというもの)、これは今なお「義経がやった」「義経以外の人がやった」「そもそもそんなことした人いない(完全な作り話)」などと解釈が分かれており、「義経が卑怯者だとする根拠」として採用するには、いささか乱暴かと思います。

 義経自身の戦の結果報告では、「一ノ谷の西ノ口から(普通に)攻めました」

とあるだけで(『玉葉』)、逆落としという驚きの戦術をとったなんて一言も書いてませんし。実際やってれば、そして戦のルール(あるとして)を知らないということであれば、得意満面でアピールしそうなものですが。


 また、壇ノ浦直前で、源平は「屋島の合戦」という戦いをしています。那須与一が海に浮かぶ船に立てられた扇を射抜く、という有名なエピソードはこの時のもの。

 義経卑怯者説としてこれもよく上がるのが、屋島の合戦の少し前に「義経が民家(漁師の家)に火をつけ、大群が攻めてきたと思わせる奇襲」をしたというもの。

 確かにやられた漁師はたまったものじゃないし、「民間人を何だと思ってるんだ!」というのはごもっともなのですが。

 ただ、平家側の平重衡が少し前に、京都あたりで同じく民家に火付けする作戦を実行したりしてる記録もあるので(これが南都の大火の原因となったようですが)、当時の武士から見たら民家なんてそんな扱いだったのかもしれません。武士たちがすぐ食料とか略奪するし。

 つまり、(平家がやってるからいいじゃないかということではなく)当時はそういう世相だったのではないかということです。

 現代の価値観からすると、誉められたものじゃありませんが。

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