おいしいピザトーストの作り方
十一
前編
どこからともなく香ばしいにおいが漂ってきて空腹を覚えた。廊下の肌寒さよりも、胃にくすぶった痛みにも似た感覚によって寝起きの意識がはっきりとしていく。
おなかは減っていても、いやおなかが減っているからこそ料理をするのは億劫だ。なにを焼いているのかは定かではないが、朝食には遅すぎるし昼食にはまだ早いという中途半端な時刻からして、誰かが間食を作っているのだと予測がついた。しっかりとした食事は望めそうもない。そもそも俺のぶんがあるのかどうかもわからなかった。
ドアを開き暖房の効いたリビングダイニングに入ると、においに混じってジジジジジという乾いた連続音が聞こえて来た。開放型のキッチンのほうを見やれば、備えつけのキャビネットの上のオーブントースターが使用中だ。モードの切り替えといった機能はなく、唯一ついたつまみによって加熱時間を設定するというシンプルな構造のもので、そのアナログタイマーが音を立てて回っている。底面がグリルパンのように波打っている付属のアルミトレーは、オーブントースターの上部にどけてあった。
コンロやシンクのあるカウンターごしで距離はある。しかし、上下二本のヒーターのオレンジの光が扉部分の小窓を明々と浮かび上がらせており、庫内の様子が遠目ながらにうかがえた。金網の真ん中に載った物体の扁平で四角い形状から、食パンを焼いているらしい。しかし単純なトーストというわけではなく、パンが炙られるにおいに混じって別の香りもしていた。
キッチンカウンターを回りこんで奥へと進み、なかを覗きこんでみればピザトーストだった。五枚切りらしい厚めの食パンの一面にはソースが塗られ、ミックスチーズが振りかけられている。元の短冊状の形を保ったチーズはわずかで、とろりと溶け合い全面に広がっていた。表面に凹凸が浮き出ることなく均されたかのように綺麗な表面からして、具は入れられていないようだ。
「にーちゃん、おはよう。いいところに来たね。もう焼けるとこだよ」
キッチンの一番奥まった場所で冷蔵庫のなかを物色していた
「え? これ俺のなんか」
調理しているのは一枚きりだったので、てっきり妹が自分で食べるために作っているのだとばかり。
「食べないなら、わたしが食べるけど」
冷蔵庫中段の野菜室を引き出して視線を落としたまま一瞥もなく萌依子がつぶやく。
「ありがたく頂戴します」
さすがにピザトースト一枚だけで満腹にはならないが、お昼までのつなぎと考えれば悪くないメニューだ。起きぬけの兄のために食事を準備してくれるとは、なんともありがたいことだ。
「ところで、さっきから冷蔵庫開けて何やってんだ?」
「お昼どうしようかなーって」
「パンまだあっただろう」
「今焼いてるので最後。だいたい残ってたとしてもお昼にパンとかおなかふくれないでしょ。朝はパンでいいかもしれないけどお昼はちゃんと食べたいよ」
「たしかに昼にパンってのも味気ないよな。おかずになりそうなもの何かあったっけ?」
「それが、冷蔵庫のなか、卵と牛乳くらいしかないんだよね。お米も炊いてないしさ」
「そういや母さんは? 買い物?」
「法事」
昨晩、夕食のときに、親類の何回忌だかの法要で両親ともに手伝いに出ると告げられたのを思い出す。昼は適当に食べるからと答えたが、まさかご飯も炊かずに出掛けてしまうとは。
そういえば、夜に小腹が空いて食べるものを探しにキッチンへ来た時点で、炊飯ジャーは空っぽになっていた。米がなかったのでジャムを塗った食パンを夜食にしたのだが、二枚持って行っても冷蔵庫にはまだ一袋以上残っていた。だからこそ、俺はお昼のぶんのもあるだろうと見当をつけたのだ。今にして思えば、あれだけの量を買いこんであったのは最初から両親は朝をパンで済ませるつもりだったのだろう。普段であれば米を研いで内釜をセットし起床時にご飯ができるよう予約ボタンを押してから母は就寝するのに、炊飯の準備がされていなかったのはそういう事情らしい。そうならそうとちゃんと伝えておいて欲しかった。
「ラーメンかパスタか、それくらいはあるだろ。昼はそれで構わないわ」
「でも、夜のご飯も要るからどっちにしろお米は炊かないといけないんだよね」
「卵があるならオムライス……はピザトーストとトマトの味がかぶるし、昼はチャーハンにでもするか」
そうだねと頷き萌依子は俺の後ろを抜けて炊飯ジャーや米びつのあるラックのほうへと歩いていく。
いつの間にかタイマーの音は途切れていた。調理完了のベルがなった覚えはないが、話をしていて聞き逃してしまったようだ。
オーブントースターの扉を開けると香ばしいにおいがいっそう強くなった。食パンの耳の部分は見るからにカリッと仕上がり、チーズにはほどよい焦げ目がついていた。焼き加減としては申し分なかったが、焦げていない部分では柔らかくなったチーズが沸騰するかのように小さなあぶくを作っていて、このまま口に入れれば火傷を負いかねない。
飲むものを準備しているうちに冷めるだろう。
「コーヒー淹れるならわたしのもお願い」
萌依子が、こちらの思考を読んだような発言をする。たいした手間でもないのでついでに淹れるのは構わないのだが、そんなに俺の行動は読みやすいのかと釈然としない気分になった。
「わかった。砂糖は?」
「いらなーい。フレッシュだけね」
まずはマグカップを用意しなければならない。シンクの上に設置してある水切りかごを見てみたが一切ものが入っていない。ワイヤーのフレーム自体乾ききっていててしばらく利用された形跡がない。
洗い桶には水が張られており、ティースプーンがひとつ浸けてあった。ピザトーストのソースをのばすのに使用したものらしく、背の丸っこい部分に赤色のペーストがついている。入れられてからそれほど時間が経っていないとみえ、ソースは水に溶け出すことなく膜のようにスプーンの背に薄くはりついていた。
コップスタンドに全員の湯飲みがかけてあったが、マグカップは食器棚に片付けられていた。妹用、俺用をそれぞれキャビネットの上に並べ、棚から取り出したビンの蓋を開く。インスタントコーヒーの粉末に突き立ててあったプラスティックさじで、一杯の分量をすくってカップに注ぐ。そこで、さじに静電気ではりついたコーヒー粉末を落とそうとしたのがいけなかった。さじの柄の部分をカップのふちに軽く叩きつけたら、褐色の粉がキャビネットの上に飛び散ってしまった。ポットからお湯を注いで二人分のコーヒーを淹れあと、仕方なく台布巾を手に取る。エアコンを効かせた室内にあっても布巾は湿っていたのでそのままコーヒーを拭き取る。
「なにやってるの」
米を研いでいた萌依子が白い目を向ける。
「いや、こぼしてしまって……」
「どんくさいなぁ」
「あれは不可抗力だ、空気が乾燥しているのが悪い」
「なにをわけのわからないこと言ってんの」
汚れた布巾を濯ごうと開いたほうの水道の前に立ったら「汚いよ。
固く絞った布巾を元あった場所に戻し、マグカップをテーブルに置きに出る。
「えー、スプーン二つも出したの。洗い物増えるじゃん。混ぜるだけなんだから一個を使い回せばいいのに」
内釜を両手で持った萌依子にすれ違いざまに見咎められた。
この種の言葉を口にするのは、母ではなく、いつも妹だった。
両親ともに良く言えばおおらか悪く言えばいい加減で、細かいことをあまり気にしない性分だった。遺伝というのではないだろうが俺もその気質を多分に受け継いでいた。
しかし、妹は違った。真面目で几帳面な元来の性格に加え、家族そろって適当だから自分がしっかりしなければいけないと考えているふしがあった。母がなあなあで済ませている部分を補う形で洗濯掃除洗い物とこまめに家事をこなし、ずぼらな俺の世話を焼き、ときには小言めいた台詞を吐いていた。
母親よりもよっぽど母親らしく、中学生でありながら振る舞いが所帯じみているといったレベルに達していた。学校に持参している体操着入れなど、捨てずに取ってあった量販店の厚手のビニール袋を利用したお手製のものだ。口のところを上端から内側にくるくると折って縫いつけ、紐を通して拵えたのだ。もともとの袋が手提げとして穴が開いていたから口紐を入れるのが簡単なのだと語っていたのを覚えている。誇らしげにできあがったものを見せびらかすその表情が少しうっとうしくて「にーちゃんのも作ってあげようか」という提案は固辞した。
細々としたことも厭わないのはいいのだが、きゃぴきゃぴしたところがなく、妙に生活臭いのは思春期の女の子としてどうなのかと兄として心配になる。
服装にしても着飾ることはほとんどなくお洒落とは縁遠かった。今は、ロング丈の長袖チュニックに、肌に張り付く感じでトレンカのような細身のシルエットのパンツはを履いている。格好としてはさほど変ではないが、上はグレーで下は黒と色がともかく地味だった。
肩まで伸ばしたストレートの髪は手入れが行き届いていて艶やかで、制服姿であれば清楚な雰囲気を纏もするのだろう。しかし、いかんせん暗色の野暮ったい服に、黒ぶちセルフレームの家メガネなどかけているため全体的にもさい。いくら家のなかだからとは言えもうちょっとあるだろうと思わずにはいられない。
とまれ、ピザトーストだ。まだ熱を持っている金網に注意して取り出し、その場でかじりつく。角までたっぷりと塗られたソースとチーズに一口目でたどり着く。
しかし、その味を堪能する余裕などなかった。
「熱っ!」
チーズが蓋となって熱を閉じこめていたせいか、予想に反してまったく冷めていなかった。糸を引いて垂れそうになるチーズを唇と舌でたぐり、口内にピザトーストの切れ端をいれたまま、はふはふと白い息を吐くはめになった。湯気を逃がしきってようやく飲みこんだものの、前歯の裏側の粘膜がひりひりとして味わうどころではなかった。
「も-、そんなとこで食べないでよ。パンくずがこぼれるでしょ。テーブルで食べなって」
「床なんて生活してるだけで汚れるもんなんだからいいだろ」
「それはそうだけど、わざわざゴミを出す必要もないでしょ。できるだけ汚さないようにって普通は気をつけるよ」
「気をつけようが気をつけまいが汚れるときは汚れるし、どうせ掃除するんだから同じこと」
「たしかに時間あったら掃除するつもりはしてたけど」
「お前、暇さえあれば掃除してるよな。潔癖症なんじゃないのか」
「べつに潔癖ってほどじゃないし。普通だよ、普通。にーちゃんが気にしなさすぎなんだって。ほんとにーちゃんはだらしないよね。起きてからまだ顔も洗ってないでしょ」
「歯を磨くときに洗面所行くんだから顔はそのときでいいだろ」
「朝起きて歯を磨かないってのがまずないから」
萌依子は炊飯ジャーをセットし終わっていて、俺たちはしゃべりながらテーブルまで移動した。俺が椅子に座ると、萌依子は対面の位置に陣取り自分のマグカップをたぐり寄せた。
息を吹きかけて冷ましつつ、ピザトーストの口にする。うん、今度は大丈夫だ。
ソースはシンプルにトマトケチャップのようだった。チーズもミックスチーズで、既製品の組み合わせでしかない簡素な料理だ。玉ねぎの甘みやピーマンの苦みが味にアクセントを加えているということもなく、味付けはチーズとケチャップのみだった。
しかし、市販されている商品は企業努力の成果として店頭に並んでいて、大量生産された安価なものであっても一定のおいしさが保証されているのだ。それらが組み合わされてハーモニーを生み出していた。トマトとチーズというだけでも両者のうまみ成分が味を引き立て合って相性が良いのに、熟成したトマトと一緒に野菜が煮詰められてケチャップとなることでさらに深みが増している。チーズのコクに引け劣らない味となって、舌に濃厚にからみつく。
そして、それらを受け止める生地たる食パンだ。薄切りであれば、淡泊な味わいは完全にソースに負けてしまう。五枚切りの厚みに加え、ソースを塗る面を一度焼くという行程を経ることによって、パンとソースはそれぞれの良さを存分に発揮している。
たとえば、カツカレー。ルーに長時間浸りカレーの味に染まりきった衣などではない。表面の衣はルーをまとい濡れそぼっているが、揚げ物の歯ごたえを損なっていないさくりとした食感のカツ。最初こそカレーの香辛料の主張の強い味が口内を満たすが、噛めば噛むほどに肉本来のうまみが滲み出して来る。余韻となって尾を引く辛みが、肉の脂の甘みをいっそう豊かに際立たせる。
焼き色をつけた面にソースを塗ったピザトースとは、まさにそんな感じだった。
ピザソースはパンに馴染んでいたが、しかし決してその味一色ではなかった。こんがりとトーストされた表面に受け止められケチャップは内部まで浸透していない。小気味よく音を響かせる歯ごたえ、そしてその内側に閉じこめられたパン本来の甘みは損なわれていない。噛むうちにケチャップの味が薄まっていき、尾を引くわずかな酸味がパンの甘さを引き出す。さらには、パンの淡白な味わいは濃い味が続いて飽いてくるのを防ぎ、舌をリセットすることで次なる一口へと誘う役割も担っていた。
表面をトーストしていないものではこうはいかない。生地がソースを吸ってケチャップ味のパンになってしまう。強い味がパン本来の風味を覆い隠してしまうのだ。表面を焼くことにより、両者の味は見事な調和を遂げていた。
いや、待て……俺は三口、四口とピザトーストを食べながら疑問を抱く。
おかしいではないか。うちのオーブントースターはワット数の切り替えができない。使用中は上下両方のヒーターが加熱した状態になるため両面焼きしかできないはずだ。片面焼きができないのに、ソースを塗る面だけ焼くという芸当がどうやってできたとういうのか。
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