夏蕾

tu-buri

一日目

 電車が来た。シルバーとオレンジの、いつもと変わらない車両だ。俺はそれに乗る。シートは埋まっているがそんなに混んでいるわけじゃなかった。この時間はいつもそうだから。

 身体が揺れて電車が動きだす。目の前の景色が流れる。暗めの夕焼けの中には川が流れていて、自転車に乗る子供、荷台を引くホームレス、トランペットを吹く青年が見えた。

 仕事を終わりだが、別に疲れている訳では無かった。特にすることも決まっていないけれど帰ってからも時間がある。呑みながら映画でも見て時間を潰そうと思っている。

 シートが一つ空き座ることが出来た。

 勤め始めた頃は今よりずっと疲労していた。余裕も無かった。仕事が出来なくて、上司に叱られて、人間関係が辛くて、やめたいとも思った事もあったが、今では慣れて大抵の事は楽にこなせるようになった。先日には昇進の話も貰えて、来年からは仕事が減って給料が増えるらしい。

 目の前に座っている女子高生がスマートフォンを弄っている。その隣の若いサラリーマンはなんとなく表情が硬い。俺の両隣は共に細身の男で、気兼ねなくどっしり座れている。

 特に不満が有るわけじゃない。今の俺には、余裕がある。現状に満足している。

 なのにどうして、どうして俺はあの時の事を、あの夏の事を、こんなにも思い出すのだろうか。忘れられずに、いるのだろうか。


 ――――


 祖父母の家は山間の村にあった。両親もその土地で育ったらしい。僕が住んでいた郊外から車で四、五時間かかったけれど、そこは涼しくて、空が青くて、空気が澄んでいる所だった。所謂避暑地だった。父が言うには過疎化が進んでいて、若い世代、特に子供はもうあんまりいないらしかった。

 うちの家族は毎年、夏休みの間は一週間ぐらい、祖父母の家に滞在する習慣があった。物心つく前からそうしていたようで、村のどこへ行ってもなんとなく見覚えがあって、第二の故郷のような感じだった。

 僕が車から出てくると祖父も祖母も皺の深い笑顔で出迎えてくれた。この旅行は正直ちょっと退屈だったけど、その笑顔を見ると申し訳なくなって、お小遣いをくれたりするから満更でもなかった。両親は昔なじみの友人たちと会ったり、都会の近所付き合いから解放されてなかなか楽しんでいるらしかった。

 そんな田舎での僕の遊び相手は専ら従姉妹の結衣ちゃんだった。結衣ちゃんは僕の三つ年上で、結衣ちゃんの家族は祖父母の家の隣に住んでいた。僕ら家族がやってくると叔父さん夫婦も集まって、大人たちは延々と昔話をするものだから、その間結衣ちゃんは退屈した僕の相手をしてくれるのだった。一緒に古いビデオゲームをしたり、トランプをしたり、虫取りをしたりした。

 結衣ちゃんは僕に優しかった。ゲームをする時はたまに負けてくれて、カブトムシかクワガタを見つけると僕に取らせてくれた。僕がうまくいかない時はこうすると良いよとやり方を教えてくれて、その通りにして成功し僕が喜ぶと、一緒になって優しく笑ってくれた。


 その夏は小学校に入ってから四回目の夏だった。

 暑い夏だった。行きのクーラーの効いた車から出た時は思わずみんなで「うわっ」と声が出た。出迎えてくれる祖父母も汗で服が張り付いていた。「暑くてごめんねぇ」と何度も言われたが、何が申し訳ないのか分からなくておかしかった。

 祖父のやたら長い出迎えをいなして、車から僕の分の着替えが入ったキャリーケースを家に運び入れる時、結衣ちゃんに会った。結衣ちゃんはアイスキャンディーを食べていた。僕に気がつくと舐めていたアイスキャンディーを口から取り出して、よっと言った。僕は結衣ちゃんが口からアイスキャンディーを取り出してまで声をかけてくれる事が嬉しくて、笑顔で挨拶を返した。

 結衣ちゃんは中学一年生に成っていた。もうこの村では唯一の中学一年生らしい。身長は去年よりも差が開いていて、僕に比べて頭1つ分背が高くなっていた。後ろで結ってポニーテールにしていて、その髪は肩まで伸びていた。

 もうこの村には高校が無かったから、折角だからと中学を卒業したら都内の高校に進学するつもりらしい。結衣ちゃんは頭が良かったから試験の難しい所に挑戦するらしく、勉強の為に今年の夏は一緒に遊べる時間が減るかもしれないと母から言われていた。


 荷物を寝室に運び入れた後、みんなで一度居間に集まった。叔父さんと叔母さんはまだ仕事らしく居なかった。テレビには平日の昼番組がついていた。クーラーが効いていて涼しかった。

「しかし佑樹もまぁ、大きく成ったなぁ。去年もすごく背が伸びていて驚いたけど、今年もそうだよ。いつかは結衣の背も抜いちまうんだろうね」

 佑樹というのは僕の名前だ。祖父が頭を撫でる。

「結衣ちゃんも、ここらには同い年ぐらいの女の子が居ないから分からないけど、大きい方らしいですよ。佑樹もクラスで大きい方から三番目くらいだし、実は大柄の家系なのかもしれませんね。」

 テーブルの上にはまだ青い夏みかんがあった。一つ剥いて食べたが酸っぱくて、二つ目には手を付けなかった。僕達が来ると聞いて早って採ってきたのかもしれない。

「結衣ちゃん、勉強はどうなんだい?都内の高校目指すなんて偉いねぇ。まだ中学生になったばっかりなのに、将来を見据えてないとなかなか頑張れないよ」

「いえ、自分が言い出したことですから。お父さんとお母さんには感謝しています。ずっとここに住んでいたのに私の為に引っ越しなんて一大行事ですから」

 結衣ちゃんの家族は高校受験の折に一家で東京に引っ越すらしい。知り合いにツテが有るらしく、給料も上がるんだと、父が電話口に言っていた。

「まぁまだ若いからな。一緒になっていろいろやりたいのかもしれん。上手く行かなかったらオヤジの所に帰ってくればなんとかなるだろうから、結衣ちゃんも受験勉強も気負っちゃダメだよ。結衣ちゃんのパパは頭が良かったから、きっと大丈夫だろうけど」

「そうだったな、というか、お前が勉強をしなさすぎたんじゃ。いっつも下から二番目か三番目だっただろ」

 父が祖父に囃し立てられる。勉強が出来なかったという話は初めて聞いた。母も祖母も、ああそうだったという顔で昔を懐かしんで笑っている。

「ちょっと、子供の前でやめてくれよ」

「あははは、恨むんなら昔の自分を恨め」

「そうですよ、結衣ちゃんを見習って」

「叔父さんも一緒に高校生に成りますか? 目指してるの女子校ですけど」

 あはははははとみんなが笑った。


 祖父母と両親が思い出話に花を咲かせ始めた。僕も結衣ちゃんも始めはウンウン聞いていたたけれど、僕が飽いて暇そうにテレビを見始めたからか、結衣ちゃんが「佑樹、ゲームしよっか」と誘ってくれた。うん。僕は頷いて結衣ちゃんと席を立った。

 結衣ちゃんと僕のゲーム部屋は物置だった。高く平積みされたダンボールの中にちょこんと空きスペースがあって、ブラウン管テレビと古いゲーム機が置いてある。

「本当はね」

 結衣ちゃんがカセットを挿しながら話しだす。窓からは夕日が漏れていて、ダンボールの隙間から結衣ちゃんを照らす。

「本当はお父さんとお母さんが一緒に来なくて、おじさんの家から東京通うのも悪くないなと思ったんだ、こうして佑樹と遊べるし」

 僕はドキッとした。でも、気恥ずかしかったからずっとテレビの画面を見ていた。

「結衣ちゃんはさ、どうして東京に行きたくなったの?」

「そりゃ……行きたいでしょ、東京」

「理由になってないじゃん」

 結衣ちゃんがケラケラと笑う。笑いながらでもしっかりゲームは操作している。

「佑樹は東京行きたいなとか、今住んでるとこはなんか違うなぁとか、思ったこと無い?」

「無いなぁ」

「そっか」

 画面の中では結衣ちゃんのキャラクターがキビキビ動いて僕のキャラクターを攻撃している。結衣ちゃんはゲームが上手い。新しいのを始めたっていつも結衣ちゃんの方が上手くなる。

「きっと佑樹にも思うときが来るよ、後ちょっと経てば。住んでる所も結構都会だから私よりはしばらく後かな? でも、そのうち思うんじゃないかな」

「ふーん」

「その時にはあたしに言えよな。なんたって人生の先輩だからね」

 結衣ちゃんのキャラクターが怒涛の攻撃で僕を攻める。僕も頑張って避ける。こう見ると結構上手くなったなと自分でも感心する。でも、最後にはやられてしまった。

「人生の先輩だからね」

 こっちを向いて結衣ちゃんがニコニコ笑う。

「もっかい」

「ふふふ、何回でもかかってきなさい。あ、明日明後日は遊べないから、ごめんね」

 ああやっぱりそうなのか。聞いてはいたけどやっぱり寂しい。でも、顔には出さないようにしなくちゃなと思ってテレビに向き直る。

「うん、今日のうちに勝っとくよ」

「あはは、やれるもんならやってみなさい」

 ゲームの中では次の勝負が始まっていた。結衣ちゃんはまだまだ動きがいい。今日は負けてくれる事は無いみたいだ。僕はなんだか嬉しかった。

「佑樹、明日は何すんの?」

「虫取りかなぁ。あと川で水切り。明日は天気良いみたいだし」

「カブトムシならね、実はこの家の裏手の林のがここらへんでは一番良く取れるんだよ」

「えっ、去年は違う所に取りに行ったじゃん」

「だって佑樹がそこに行くから」

「教えてくれたって良いじゃん」

「佑樹ならいつか気づくんじゃないかなーと思ってた訳よ、お姉さんの優しさ」

 僕は少し不満だったが、それよりも不思議だった。珍しく結衣ちゃんの優しくない所を見たような気がした。ゲームの中でも久しぶりに僕が優勢だった。

「じゃあなんで教えたの」

「あははは」

 結衣ちゃんのキャラクターの動きが良くなった気がする。さっきまでのリードが無くなって、どんどんと僕が追い詰められてきた。

「だってこれから佑樹と遊ぶ機会が減るわけじゃん? そうなったら何処なら良くカブトムシが採れるかとか、あたしが居ない時に気づくかもしれないじゃない?」

 負けじと僕も画面に食い入る。自然と前傾姿勢になりテレビに近づいた。なんとか食いついて、接戦だ。

「だとしたらなんか、嫌じゃん」

 最後の最後に結衣ちゃんの怒涛の攻撃が入り、僕は負けてしまった。でも不思議と今までよりもキャラクターが上手く動かせたので満足だった。

「東京、行ってもさ」

 結衣ちゃんはコントローラーを置いて、後ろに手をついてこっちを見る。

「たまに遊びに行くよ、佑樹の家。そしたらまた遊ぼ」


 夜は涼しかったけれどなかなか寝付けなかった。布団が少し硬いからだろうか。枕が違うからだろうか。考えれば考える程眠れる気がしなくなった。うつ伏せになってみたり、枕を抱いてみたり、腕の場所を変えたり、手を開いたり閉じたりしてみるが、どうしてもしっくりこなかった。僕はこの布団の中では納得のできる位置に身が定まる事は無いんじゃないかと思った。

 結衣ちゃん、大変だとは聞いていたけど明日も遊べないのか。思ったよりも大変なんだな。こんなことなら来なきゃ良かった。いや、今日のゲームは楽しかったし、それに明々後日は遊べるらしいし、別にいいか。

 でも本当に、明日は何して遊ぼう? 思えばこっちで結衣ちゃんと遊ばなかった日が無かったから自分でも何をしていいのか分からない。こんなことなら今日のうちに、もっと面白い遊びは無いか結衣ちゃんに聞いておけば良かったな。

 これまで結衣ちゃんと遊んだ景色が蘇ってくる。

 川原、流れる水、結衣ちゃんはどんな服を着てたっけ。こんなんだったかな? いや、濡れてもいい服だろうからこの服じゃないな。

 カブトムシ、クワガタ。去年採れたやつはすごく大きかったっけな。虫かごに入れてこっちに置いてきたけどどうなったんだろうな。きっと死んじゃってるか。でも、僕が帰ったからもう放しているかもしれないな。そういえばトンボなんかも採れたっけ。虫あみをぶんっと振り回して……そうそうそんなことをした。

 森の中の山道。あれ、この道はどこから来る道だったっけか。あそこの道をこう行って……いや違うな、あっちだったかな……そうだそうだ、このルートだ、この道はどこにつながってるんだっけ……ああそうそうあそこに出て、あれ? だけどこっから先は行ったこと無いっけか? 思い出せないな……

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