抜剣入刀生死不問! ~人でなしの黒と赤~
雨藤フラシ
第一部
不死悪童
第一節 運命に手を伸ばした日
死者は死んでいることに一切の不便を感じない。
七年十ヶ月で命を落とした少年の【魂】も、虚ろな闇を騒がすなにかを、きっと迷惑に思ったに違いない。思えるならばだが。
――
光? それとも、音? ちかちかと瞬く刺激を判別することも出来ず、少年は上下のない奈落をさまよっている。瞬きはしつこく、彼の意識を追い回した。
――死去:
次第に輪郭をくっきりさせる自我が、瞬きを光ではなく音、人の声だと認識する。なんだか聞き慣れない、とてもとても古い言葉の呼びかけ。
――
突然にウーは目を覚ました。肉体の中枢に精神が叩き込まれ、連結し、眠りと目覚めの間などという緩やかな場所はすっ飛ばした完全な覚醒。頭の働きの何もかも、指先ひとつの何もかも、余さず自分が取り戻される。
なんだかごつごつした柱にもたれかかり、腰から下は温かな翡翠色の湯に浸かっていた。水面には自分の顔、短い黒髪とぱっちりした目の子供が映る。
誰に着せられたのか、湯船だというのにウーは白く簡素な着物姿だった。お尻の下からは直に岩肌の感触が伝わるので、どうも下着はないらしい。
「おはよう、おはよう、やっと起きてくれたネ」
闇の中で聞こえたのと同じ、澄んだ高い声がかけられる。
「さあ、自分の名前は言えるかな? 歳は?」
湯気の中から現れたのは、眠り猫のような笑顔だ。女と間違えそうな痩身の優男で、糸のように細長い目つきは穏やかだった。
髪は奇妙なことに青みがかかった灰色で、それをひと房に束ねている。格好も少し変わっていて、ゆったりとした袖丈の長い着物に、水色の
「あ、あなたは誰……ですか。ここ、お風呂?」
警戒しながらウーはあたりを見回し、そこが広々とした浴場なようなものだと理解した。それに、自分がもたれかかっていたのは柱ではなく樹だ。
「その樹、叩いたりしないでくれよ、大事なものなんだからネ! 私はソー・ウェイタイ(
「仙人さま?」
ウーは声をはずませた。〝仙人〟とは老いを克服し、寿命の制限から解放された不老不死者だ。狗琅真人と名乗った彼は、見た感じ二十代ぐらいに思えた。
仙人の中でも、地上に暮らす地仙はわりかし親しみやすい存在だ。彼らの活躍を伝える物語は多く、ウーも有名所はだいたい読んでいる。
「そう、まあ三百年も生きていない
今になってウーは、狗琅真人の格好が仙道の衣装だと思い出した。しかも、よく見ると当然のような顔をして翡翠の水面に立っている。さすが本物の仙人だ。
「僕は、ウォン(玄)。ルンガオ・ウォン(龍國玄)、家のみんなからはウー(
「ちゃんと言えたネ、
狗琅真人はウーの手を取ると、陸へと引っ張っていった。
湯から上がると、ひんやりとした石畳が裸足に染みる。そこには祭壇が置かれており、線香やら香炉やら霊符やらがずらりと並べられていた。
見上げると、白くけぶる湯気の中に大きな灯籠が見え隠れし、あれが光源だと知れる。しかしよほど高いのか、天井そのものは見えない。
「今度は成功したのか?」
ドスの利いた声がして、ウーはもう一人の男に気がついた。一字
しかし少年の興味は、男が抱えた刀に引き寄せられた。
(あれ、
雁翅刀とは、雁が羽根を広げたような、緩く曲がった細身が特徴の刀である。皿のように丸い
鞘をしげしげ眺めて、ウーはやっと男の顔に注意を向けた。歳の頃は三十絡みか。
おお、その凶悪な面構えと来たら! ギロリとした四白眼に、やたら発達した犬歯。短く刈り込まれた赤毛は逆立っている。この人、人間なんだろうか?
探せば一つくらい、角か尻尾でも生えているのではなかろうか。男の迫力に思わずそんなことを考えて、ウーは「仙人さまがいるじゃないか」と思い直した。きっと術で使役している鬼神か、天の神将のたぐいに違いない。でなきゃ顔が怖すぎる。
「紹介するよ、彼はコージャン・リー(
「え、人間なんですか!?」
「なんだと思ったんだよ」
思わずびっくりすると、不機嫌さを凝縮したような低い声が投げかけられた。しかし、今すぐ殴ろうという感じではない。ウーは怖さを堪えて続けた。
「仙人さまは、鬼神を従えたりしてるって本で読みました」
「あはははは! リーくん、君は鬼神だって。良かったネ」
「まあ似たようなもんだよな。ど~も、仙人サマの従者です」
「あはははは!」
狗琅真人の笑い方は演技的だった。白々しいというか、空き缶に石を入れて振り鳴らすような。ウーは眉根を寄せながら、おずおずと切り出した。
「あの、すいません。僕、どうしてここにいるんですか?」
現状を把握するにつれ、さっきまで自分がどうしていたか思い至ると、ウーは途端に不安になる。自分の人生が中断され、ここへ至る経緯がすっ飛ばされていた。
「君は死んだんだ。覚えてないかネ」
狗琅真人に涼しい顔で告げられたが、ウーは驚くことも嘆くこともしなかった。ああ、そうなのか、でも今生きてるからいいや、ぐらいの気持ちだ。というのも、ここ
それどころか、ぱっとウーの表情が華やぐ。
「じゃ、父上が僕を〝
胸の内が震えて、音楽が奏でられそうな心地だった。自分にまったく構ってくれなかった父が、初めて父親らしいことをしてくれたのだ。
人は誰でも、生まれながらに
遺体の損傷が激しければダメ、そもそも遺体が見つからなければダメ、親族が手続きを拒んだらダメ、手続きする親族がいなければダメ。そういう社会福祉だ。
だが狗琅真人は、「違うよ」とすげなく否定した。
「中元節の儀式ならもっとたくさん道士がいるし、君以外にも反魂される人たちがいる。それにここは私の
洞府とは仙人のすみかを言う。「なんで?」とウーは噛み付くように返した。
「お父上は君の反魂を拒んだ。試しに交渉してみたら、遺体を持っていっても良いと言われてネ。そこで、私が不死身の体に造り変えたんだ。二十五
「嘘だ!!」
自分の声で言葉をかき消すようにウーは叫んだ。どれぐらい広いかも分からない、湯気にけぶる場に声は虚しく反響し、染み入って消える。
「じゃあリーくん、この子を斬り殺しておくれ」
「あァ?」
従者氏は唐突な命令に、面倒くさそうな低音で応じた。ウーの涙が引っ込む。
「よみがえらせたばかりだろ、狗琅」
ウーは狗琅真人とコージャン、二人の間で視線を素早く往復させた。一体この人たちは何を言っているんだろう? とても嫌な予感がする。
初め優しそうに思えた狗琅真人の顔には、
「そうだよ、だからちゃんと死んでもよみがえるか、確認しないと成功とは言えない。嫌な仕事かもしれないけれど、今はその感情を抑えて欲しいな」
「へいへい」
コージャンは無造作に足を伸ばし、走り出しかけたウーを引っかけて転ばせた。
「逃げんな。手元が狂う」
「う……あ……」
泣きべそをかきながら、ウーは冷たい石畳を這おうとする。その背中に向けて、コージャンは鞘を払った雁翅刀を突き刺した。切っ先は何の抵抗もなく脊椎を断ち割り、心臓を二分割して速やかに生存能力を奪う。
コージャンが刀を引き、
ウーの小さな体は全身が暗転し、少年の輪郭を持った闇になって蒸発すると、その後に人型の焦げ目を残した。かと思えば、再びその痕跡から闇が膨れ上がる。
充分な厚みを持つと反転して、元通り無傷の少年がその場に出現した。そして咳き込みながら、力の限り泣き喚き始める。
「殺さないで! 殺さないでください!」
「もう終わったんだよ、バカ野郎」
突っ伏して泣きじゃくるウーの頭を、コージャンはぺちんと軽く叩いた。
「え」
ウーは身を起こして地べたに座り込み、首やら背中やら腹やらを探ったが、どこにも何の痕も見つけられない。予防接種の注射ほどにもチクリともしなかった。
「リーくんは一流の剣客だよ。自分が死んだことも分からなかったかい?」
狗琅真人は得意げだが、褒められた当人は目の前の現象に興味津々だ。
「つーか不死身ってこうなんのか。へー」
「うむ。七十七の贄を使い、与えた【魂】はこの子の霊体に蓄えられている。致命傷を受けると【魂】が身代わりとなって死に、生き続けるという寸法さ」
「んじゃ今のも、正確には死んでねえんだな」
「命は一つだからネ」
痛くなかったことに安堵して、ウーはぼんやりと二人の会話を聞き流していた。
「じゃあリーくん、もう一回頼むよ。今のは刺突だったからネ。刺すと斬るじゃ違うかもしれないから、試しておかないと」
軽い調子で狗琅真人に命じられ、コージャンはだるそうに応じる。
「なあ、俺は手も足も出ないガキ切り刻みたくて、お前ン所にいるんじゃねえぞ」
「うん、だから今回だけ! 後は私が自分でやるから」
「あいよ。これっきりだからな」
二人が話している間、ウーは立ち上がりはしたものの、逃げずに待っていた。今や自分が死ぬの死なないのという話も実感が沸かなくて、どうでも良いのだ。
なにしろ、まったく痛くなかったのだから。ならば怖いものなどない。
(それに、さっきはこの人の剣を見れなかった!)
達人に斬られた者は、自分が死んだことも気づかずにしばらく歩いていたと言う。鬼神の生まれ変わりかと思うようなこの男が、その伝説と同じぐらい優れた腕前を持つのだとしたら――そう考えるとウーはドキドキしてきた。
「チビクロ(小玄)っつったか。怖けりゃ目、閉じとけ」
「ウー(少玄)です、ウーって呼んでください。僕は平気です」
その極限に単一化された世界が断ち切られた。
知らずに自分の目にかかっていた幕が、さっと開くように。いや、自分自身が開いて、バラバラになって裏返る異様な感覚。けれど怖くない。
まっすぐに走る雪の色をした稲妻が、そっと自分を撫でて消える。
(これだ)
その剣閃は、ウーの短い人生で見たこともない美しい文目を描いていた。いや、似たようなものをかつて見たのだ。五歳の時、剣の練武をしていた父が放った一撃。
ああ、意識を失うことと、目を覚ますことは、こんなにも似ているのか。
「すごい……すごい! 父上みたい!」
ウーがぴょんぴょん跳ねて快哉を叫んだ時、コージャンはまだ雁翅刀を鞘に収めてもいなかった。後から聞いたのだが、復活するなりそんな有り様だったとか。
「僕にもそれ、できますか!」
「待て。落ち着け。どうした」
一旦刀を置いて、コージャンはウーの肩をどうどうと押さえた。
「僕は、あなたみたいになりたい。そんな風に、剣を使いたい! えっと、そう、こう言うんですよね。僕を弟子にしてください!!」
「――――あァ?」
ぽかんと大きく口を開けたコージャンの呆れ顔は、鬼神が人間を頭から丸かじりにしようとする様にも似て、さっきまでのウーなら泣いてしまいそうな形相だった。
今は逆に、彼の混乱が手に取るように分かって笑い出しそうになる。雷さまが稲妻を落とした相手に握手を求められたら、きっと同じ顔になったに違いない。
もちろん、ウーは求めた手を下げるつもりはなかった。
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