ⅩⅩⅠ セクメトの声(2)

「――グスン…グスン……」


 それは遠い遠い昔の記憶……まだ幼いメルウトは、顔をくしゃくしゃにして泣きじゃくっていた。


「あらあら、どうしたのメルウト?」


 そんな彼女に、若いジェセルシェプストが母親のように優しく声をかける。


「……えっぐ……あのね、みんながわたしをばかにするの……グスン…わたしは親のいない捨て子だから、だれもミイラを作ってくれないし、あの世で復活することもできないって……」


 メルウトは同じ神殿で学ぶ仲間の子達からいじめられ、親代わりのジェセルシェプストの所へやって来たのだった。


「まあ、それは悪い子達ねえ」


 ジェセルシェプストはしゃがみ込み、目を真っ赤に泣き腫らすメルウトの頭をそっと撫でてやる。


「……グスン……ジェセルさまあ……グスン……死んだらミイラにしてもらわないと、魂が消えてなくなっちゃうってほんと?」


 自分の目線にある師の顔を見つめ、メルウトはしゃくり上げながら尋ねる。


「そういう風に云われているわね。人間は死んだ後も身体がないと、あの世で暮らしていけないの。だからミイラにして永遠に残しておくのよ。人格バーは身体から抜けて、どこへでも自由に飛んで行くことができるけど、帰ってくる所がなくなったら困るでしょう? 霊体カーがずっとミイラのそばにいるのも、死者の身体がなくなったりしないように守っているからなのよ」


 その問いに、ジェセルシェプストはにこにこと笑いながら、幼いメルウトにもわかるよう、なるべく平易な言葉で説明してやる。


「それに身体だけじゃなく、名前もないといけないわ。だから死んでからもみんなに名前を憶えておいてもらえるよう、お棺や一緒にお墓へ納める物なんかにも死者の名前を刻んでおくのよ。あと、死者もお腹がすくから、食べ物もお供えしてもらわないといけないわね。本物じゃなく食べ物の絵とかでもいいけれど……でもね、そうしたものより、もっと大切なものがあるの。それはね、〝正義マアト〟にかなった人生を送れたかどうかということよ」


「まあと? ……グスン……この前聞いた、みんなを悲しくさせたり、苦しくさせたりしちゃいけないっていうやつ?」


 メルウトは涙を手で拭いながら、小首を傾げて聞き返す。


「ええ、そうよ。死後、オシリス神の前で開かれる裁判で、人の魂が宿った心臓イブはアヌビス神によって正義マアトの羽根と一緒に天秤にかけられるんだけどね、もしも正義マアトに反するような生き方をしていたら、その人の心臓イブは羽根と釣り合わず、釣り合わなかった心臓イブは〝アミメト〟というワニの頭とライオンの身体を持った恐ろしい怪物に食べられてしまうの。そうすると、もう魂の復活は永遠にできなくなるのよ」


「……うう…グスン……えっぐ……こわいぃ……グスン……」


 ジェセルシェプストの恐ろしい死後の話を聞くと、メルウトは再び泣き出しそうになる。


「ウフフ…大丈夫よ。メルウトはいい子だから、きっと正義マアトの羽根と釣り合うわ。それに、もっとお勉強を頑張って神官になれば、死んだ後も神殿のみんながミイラにしてくれる。だから、そんな心配しなくてもいいのよ」


「……グスン……ほんと?」


「ええ、本当よ。でも、そのためにはしっかりお勉強して、正義マアトにかなう立派な人にならなくっちゃね」


「……グスン…うん! メルウト、お勉強がんばる!」


 優しく諭すジェセルシェプストに、幼いメルウトもようやく笑顔をみせた――。



 

 ……そうだ……わたしにはミイラにして供養をしてくれるような家族もいない……家族どころか、ジェセルさま亡き今、真にわたしのことを知る人間は一人もいない……。


 それに、ジェセルさまが命と引き換えに託してくださったというのに、辛いからって簡単に諦めて、この殺戮の女神を悪人達の手に渡してしまうようなわたしの心臓イブは、きっとオシリス神の前の審判で正義マアトの羽根にも釣り合わないことだろう……。


 ここで死んだら、わたしの魂は消滅してしまうんだ。


 魂の消滅……わたしは、この世界からいなくなってしまう……そうしたら、わたしという人間の記憶を留めておいてくれるような者もなく、わたしは初めから存在していなかったのも同じになってしまう……。


 だったら、なんのためにわたしはこの世に生まれてきたの⁉


 生きた証も残せず、生まれた意味もわからないまま消え去ってしまう……そんなの……そんなのは嫌だ。あの世でまたジェセルさまとも会いしたいし、できることなら、本当のお父さんやお母さんがどんな人だったのかも知ってから死にたい……。


〝……戦え……戦って、生き延びよ……〟


 段々とはっきりしてくるメルウトの意識に、そんなセクメトの声が響く。


 ……そうだ。アメン神官団の兵隊さん達を皆殺しにするような罪を犯しても、飲まず食わずでナイルの河原を彷徨うような苦しい目に遭っても、それでも、わたしが死ななかった本当の理由……。


 わたしが死を選ばなかったのは、何もセクメトを守ろうとしたからなんかじゃない……そんなのは後からつけた単なる言い訳だ……わたしは、死にたくなかったんだ……ただ生きていたかったんだ……。


 ……わたしは……わたしは、まだ生きていたい!


「…!」


 その強い思いとともに、メルウトは目を見開いた。


 ドシュゥゥゥゥーン…!


 次の瞬間、テフヌトのウラエウスから放たれた光線がセクメトの胴を直撃する。


「終ったわ……なっ…⁉」


 しかし、白光が貫いたのはセクメトではなかった……そこに横たわっていたはずのセクメトはなぜか姿を消し、集束された高エネルギーの光はセクメトの残像と、その下の地面に虚しく深い穴を穿っている。


「……き、消えたですって?」


 不可思議な出来事に、アルセトは唖然とした顔でジェド柱室の透明な壁から周囲を見回した……すると、少し離れた場所に飄然と立つ、金色のセクメトの姿が目に映る。


「い、いつの間に……」


 目を真ん丸くして、あり得ない動きをした傷だらけのセクメトをアルセトは見つめる。


〝……敵を倒せ……生き延びるために、己が命を奪おうとする敵を倒せ!〟


 玉座の上で俯く、セクメト同様、満身創痍のメルウトの精神に再び戦闘本能活性化システムの声が働きかける。


「ええ。あなたの声を受け入れるわ、セクメト……わたしはずっと、この声は人を残忍な行為に駆り立て、無用な命を奪うだけの恐ろしいものだと思っていた……でも、声が語りかけくるその本当の意味をわたしはようやく理解したの……この声は、命を賭けてともに戦う自分の女主人ネベトを、どんなことをしてでも生き残らせようとするラーの眼イレト・ラーの想いだったのよ!」


 玉座の上で俯いていた顔を上げ、メルウトは目の前に立ち塞がるテフヌトを力強い眼差しで見据える。


「わたしは闘う! ……闘って、生きる!」


 そして、何かに誓うようにそう告げる彼女は、これまで以上に自らがセクメトと一体となる感覚をアクで感じていた。


「……一回くらい避けれたからって、なめんじゃないわよっ!」


 一方、ようやく気を取り直したアルセトは、自身の動揺を誤魔化すかのようにそう叫ぶや、ウラエウスの拡散する光線を改めてセクメトに発射する。


 だが、その刹那、セクメトは目にも止まらぬ早さでライオン形態に変形し、間髪入れずに空高く跳躍すると、避けることが困難だったその光のシャワーをすべて回避してみせた。


「なにっ⁉」


 続けて、またも驚くアルセトを他所に、その頭上で一回転して再び人型に戻り、テフヌトの背中を思いっ切り両の脚で蹴り飛ばす。


 ガシャァァァァーン…!


「うぐっ…!」


 不意打ちを食らったテフヌトは先程のセクメト同様に地面を転がり、その衝撃にアルセトも、それまでの澄ました表情を不覚にも醜く歪めてしまう。


「くっ……な、なんなの今の動きは? ……突然、どうしちゃったっていうのよ⁉」


 今までとは何かが違うセクメトの様子に、さすがのアルセトも動揺を隠し切れなくなってきている。


「………………」


 そんなアルセトを乗せ、立ち上がろうと片膝を突くテフヌトを、メルウトはセクメトの中から、ひどく冷静な、それでいて何者も近づくことを許さない、冷たい殺気を秘めた瞳で静かに見下ろしていた。

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