花の降るバルコニーで

或るコ

花の降るバルコニーで


 この物語には終わりがありません。終わりを書こうにも降る花がすべて覆い隠してしまうものですから。ですからきっとこのまま終わらないのがいちばんなのでしょう。そうして私は筆を置きました。ですがこの物語の話をすることはできます。

 この物語は平凡な少年から始まりました。


 その少年は痩せっぽっちでこれといった取り柄もない少年でした。好きなことは空想をすることと絵を描くこと。とは言いましても紙や絵の具は高くて買えませんでしたから、彼は地面に絵を描いては物語の世界に浸っておりました。真っ白な壁や建物が並ぶその街は、彼にとって魔法のキャンバスでした。その真っ白な壁を大きな竜や魔法使い、妖精たちが過ぎ去っていくところをよく想像していたのです。

 彼が大きくなって有名な絵本作家になった…などということはありません。彼は大人になっても平々凡々で、ペンキ塗りの仕事に精を出す無口な人だと周りには思われていました。そんな彼に転機が訪れたのは50歳を過ぎた頃。ペンキ塗りの仕事を終えた後、なけなしのお金で買ったスケッチブックに絵を描いていたときのことです。

「ねぇ、その絵、とっても素敵ね」

 筆を動かす手元に不意に影が差し、声のする方を見上げると階段の上から少女が見下ろしていました。少女は凝ったレース模様の小さな日傘を差し、真っ白なワンピースをふわりと靡かせて微笑みかけます。彼は気の利いた言葉も出ずに、帽子を深く被り直して絵の続きを描きはじめましたが、少女はそんな彼の態度を気にすることもなく彼の肩越しに彼の絵を見続けました。

 彼は黙々と絵を描き続け、辺りはすっかり夕焼け色に染まっています。描き終わった絵を破りとり、少女に渡すと、少女は嬉しそうにその絵を抱きしめました。

「わあ!くれるの?嬉しい!」

 照れ隠しなのか彼は黙って画材を片づけます。少女はそんな彼の手を引き、その顔を見上げました。

「ねぇ、おじさんにも私の宝物を見せたいからついてきてくれる?」

 断ろうにも少女の顔を見るとどうにも断れない様子で、何やらもごもごと言いながらも2人連れだって路地を歩いてゆきました。


 少女が歩みを止めたのは、大きな屋敷の前でした。他の家々と同様、真っ白なその建物は、少女の持つ日傘のように精巧な模様が刻まれており、一目見て高級なものだとわかるものでした。ここにきて彼は場違いだと感じたようでしたが、少女のきらきらした瞳に引きずられるようにしてその中へ足を踏み入れました。

 そうして彼はこの屋敷に住むようになったのです。そういうと突拍子がないようですが、少女に押し切られるようにして屋敷内に部屋を作られ、次第に生活の中心がそちらへ向いて行ったのです。

 この屋敷には少女が足の悪い祖父と住んでいました。もちろん使用人たちもいましたが、使用人というよりも一つの大きなファミリーといった感じでありました。客人である彼を誰もが丁重に扱ったことも、それでいて必要以上に干渉しなかったことも良かったのでしょう。さらに、話下手な彼でしたが、少女が矢継ぎ早に話すのであまり喋らなくて良かったことも幸いしました。少女が至れり尽くせりしてくれたからと言って、彼はそれに甘えてしまったわけではありません。ペンキ塗りの仕事には定年まで毎日欠かさず通いましたし、そのお給料を無駄遣いもしませんでした。生活費や家賃として支払うといったのですがそれは断られてしまったので、少女のたっての願いで物語をつくったりいろいろな絵を描いたりしてはその話を聞かせました。

 共に暮らし始めてから一年ほど経った頃でしょうか、彼はあることに気づきました。少女はまったく成長しないのです。そのことについてそっと少女の祖父に尋ねてみると、彼女は女神の生まれ変わりなんだ、と静かに言いました。物語が好きな彼は知っていました、その昔この国には女神がいて人々を見守っていたという話を。その話は女神がどこかで眠りについたという描写で終わっていましたが、幼い頃の彼は、女神はこの国のどこかにいるのだと固く信じていました。普通なら耳を疑ってしまうような老人の言葉でしたが、彼はその言葉を信じました。そして老人はもう一つ教えてくれたのです、あと10年もすると少女の中の女神が目覚め、世界を眠らせるのだと。そしてそのことを彼女も知っていることを。

 その夜彼は少女に尋ねました、女神になるのは怖くないのかと。少女はただ微笑んで優しく彼の頬を撫でました。そのあと静かに彼女が言った言葉を、彼は忘れることはないでしょう。

「私ね、おじさんにお願いがあるの。私たちが眠りに落ちた後、おじさんだけはここでこれからもお話を作っていってほしいの。私はきっとこの姿ではいられなくなるけれど、おじさんのお話をずっと見たいから。お願い。」

 彼は驚きました。世界が眠りに落ちた後で、一人物語を作り続けるだなんてことは夢物語の話だと思っていたからです。

「花を降らせたいの。私が神さまになったら。きっと出来ると思う。おじさんにはその世界を見て欲しいし、その世界を見てもっとお話を作ってほしい」

 少女はしっかりと彼の手を握りそう言いました。彼は何も言わずに頷いただけでしたが、少女にはそれで十分でした。彼らがその話をしたのはその時だけでした。その後はまた変わらない日常に戻っていきました。でもある日彼は気づきました。だんだんと世界に取り残されていることに。自分の時が止まり始めていることに。そのことに気づいたのは彼女の祖父が亡くなった時です。次第に周りの人は年老いていくのに、自分はあまり変わってないように感じたのです。それは気のせいではなかったようで、定年を迎えた頃も彼の見た目は少女と知り合ったころからそれほど年老いてはいませんでした。少女と同様、女神の加護を受けたということになるのでしょうか。

 ある夜少女は言いました。それはとても優しい眼差しで、女神のような微笑みでした。

「きっと明日の朝には眠りが始まると思う。たくさん、たくさん花を降らせるからね。いろんなお話を作ってね」

 そう言って少女は眠りにつきました。彼は少女のそばを離れたくないと思いましたが、自室へ戻り描きかけのデッサンの続きに没頭していました。辺りが明るくなって彼がふと窓の外を見上げたとき、そこには大きな花びらが山のように降っているところでした。慌てて少女の部屋に行くと、今まで彼が描いた絵が至る所に貼られていました。少女の使っていた椅子、ベッド、そこら中にです。ですが少女はもういませんでした。どこにも誰も居ませんでした。少女は女神になって、世界を眠りにつかせたのです。彼は少女がお気に入りだった三階のバルコニーに上りました。そこにはもう様々な色の花びらが降り積もってまるで絨毯のようでした。彼はそのバルコニーを臨む部屋で過ごすことに決め、少女が望んだように毎日いろいろな物語を紡ぎ始めました。花びらは大きなものが降る日もあれば、赤色ばかり降る日、薄紅色の小さな花びらばかりが舞う日など様々でした。彼はきっと少女が何か伝えてくれているのだと思って喜びました。その花々をモチーフにしたお話を書くこともありました。そうして彼は今も物語を紡いでいます。

 この物語には終わりがありません。このお話を書こうとすると、いつになく大量に降る花がすべて覆い隠してしまうものですから。ですからきっとこのまま終わらないのがいちばんなのでしょう。少女がそう望んでいるのでしょうから。これからも花は毎日降り積もり、物語は毎日紡がれていきます。

 そうしていつまでもいつまでも、物語は続いていくのでした。

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