都市迷宮でさようなら
ローイチ
都市迷宮案内人
第1話
暗く冷たい廊下に黒い影が降り立った。全身を闇に溶け込ませるかのように黒で統一された装備。降り立った瞬間、埃一つ、音一つ立てない身のこなし。なにより顔を覆う仮面。そこから除く眼光。明らかに「客人」ではない。
人影は素早く周囲に目を走らせ、ほかに人がいないことを確認するとすぐさま走りだす。その間、やはり足音は聞こえない。月光だけが寂しく照らす中を黒い風がかける。突き当りを右に曲がり、すばやく扉を開け階段へ。迷うそぶりもなくただ進んでいく。しばらくした後、影は止まった。
影の目の前には、道中にあったものと全く変わらない木製の扉があった。ただ、ここはこの建物の最上階にあった。鈍く光るドアノブに影が手をかける。
ギッ……。初めて音が鳴った。扉は少しの悲鳴を残したものの、抵抗はなかった。鍵がかかっていなかったのだ。
影は意外なことに扉をゆっくりとあけた。そして堂々と踏み入れる。
扉の向こうは何の変哲もない部屋だった。ぐるっと首を回せばすべてが見渡せるこじんまりとした大きさ。絨毯も何もなく廊下と同じ無機質で冷たい石の床。めぼしい家具もなく、しいて特徴を上げるなら扉から見て向こう側にここでは珍しいガラスの小さな窓があることと、そこから見える夜空をベッドから見ているひとりの少女の後ろ姿がそこにあったことだろう。
少女の姿は息をのむほどだった。その理由は髪。銀、というには光沢ではなく煌きがまさる髪が彼女にはあった。それ自体が輝きを放っているようで、神々しさすらおぼえる。今日のような月が輝く夜には、その美しさは神話に出てくる女神の様なのだった。絹糸よりもほそく、なめらかなそれに一体どれほどの女性が涙を流すのだろう。
それほどまでに神秘的な少女の後ろで影はゆっくりと動く。よく見ると影の体にはいくつもベルトがまかれていた。それらには矢じりのようなナイフが何本もホルスターに収められており、影は胸にあったその一つを手に取る。
手のひらに収まるようなそれは少女の髪とは違い、何の光沢もない。表面に特殊な加工が施されており、相手に反射光を見られないようにしているのである。
静かに、影はナイフを持った手を腰だめに構えた。
「……ッ」
ぐん。と構えた手が完璧な速度、タイミングで振りぬかれる。そしてその手から投擲されたナイフは闇へと紛れ少女の首へと向かう。影と少女の距離は離れていたとはいえ、小さい部屋の端と端でしかない。空気を切り裂き、黒い刃が白い肌に届くのは瞬きする時間すらなかった。
だが、あと寸でのところまできたナイフは、まるで見えない壁にぶち当たるかのようにキン、と金属音を立ててベッドへと落ちてしまう。
その音を合図とするかのように、少女がゆっくりと振り向く。
天というのは不平等であることが好ましいらしい。ただでさえ美しい髪を与えたというのに、振り向いた少女の顔も美しかった。白く雪のような肌。それとは対照的に赤い唇。グロスも塗っていないのにもかかわらず艶のあるそれは、神々しさとともに官能的でもあった。ルビーの様に赤い瞳が影をとらえ、口を開く。
「こんばんわ。殺し屋さん」
そういうと彼女は微笑む。まるでそれが日常での挨拶であるかのように。しかし、どれだけ美しかろうと、微笑んでいようと、影を見る目は笑っていなかった。
影は返事を返すことなく、もう一本ナイフを手に取った。そして投げる。
結果は同じだった。だが、男は投げる。何度も何度も。首、目、心臓、水月。およそ人体の急所と思われる場所に向けて、恐るべき正確さと速度を持って投擲し続けていく。しかし、少女に傷をつけることはかなわない。無駄だとあざ笑うかのようにベッドにナイフが落ちていく。
ここまで異常な出来事が起きているにもかかわらず、影は冷静だった。その仮面の奥の瞳で彼女をじっと見つめと、おもむろに今度は腰に差した何かを取り出す。それは先ほどまで投げていたナイフとは違い、存在を隠すような加工はされておらず、むしろその存在感を誇示するかのように金と宝石で装飾されていた。およそ暗器の類とはおもえないそれは柄から三つ又に刃が伸びており、一見すると豪華な燭台に見えた。
わずかな月光を浴びて刃がきらりと光ったかと思うと影はすでに動き出していた。柄を両手で握りしめ前へと突き出しながら、低い姿勢で突っ込んでいく。数歩で少女に肉薄すると、最後とばかりに一歩をそれまでより強く踏み出した。十分な加速を得た影は自身が矢となり少女へと迫る。
「……!!」
ここでようやく仮面の奥に驚愕が見える。視線の先には先ほどと同じように少女の瞳まで髪の毛一本ほどのあいだで、ぴたりと止まっている刃があった。
影が驚いたのは自身に襲い掛かる刃を目にしても瞳を閉じない胆力ではない。先ほどと同じ結果であることに驚いていた。
だが影の驚きは一瞬で抑え込まれると、素早く少女から距離をとる。反撃を警戒してのことだろうが、少女は変わらず笑っていない目で微笑んでいるだけだった。
影は少女の一挙手一投足を油断のない目で見ながら、耳に人差し指と中指を当てる。
「どういうことだ?AAランクの発掘品ではなかったのか?」
そう一人で呟いた影の耳に声が聞こえた。
『はい、そのはずです。瞬間的なレジスト能力も確認済みなのですが……』
若い女性の声だった。そのきわめて事務的な反応のなかにもこの事態に対する混乱が声の調子からうかがえる。どうやら影と女性の二人にとって想定外の事態が起こっているようだ。
「レジストも効かないか。魔術的、魔法的な障壁ではないということになるな。なんにせよ噂通りだな」
『……撤退いたしますか?』
「いや、まだだ」
影はそう言って耳に当てていた手を下ろす。
「話は終わりました?」
「……」
少女の問いかけに影は無言を貫いた。無反応な影に少女が微笑を解いて、ふくれてみせる。そんな姿も絵になるのだが、当然ながら今までの行動から見て明らかに殺す気がある影はそれに絆されたりはしない。
影がまたどこに隠していたのか小瓶を取り出した。栓を抜くと、あたりにかすかにツンとする刺激臭がただよう。その臭いに少女は顔をしかめて見せる。
「まさか……」
少女の言葉が終わらないうちに影は小瓶の中身を彼女にぶちまける。少女に到達するまでにこぼれた数滴が、石の床に触れると煙を出して石を溶かしていく。容器の中身は強酸の液体だった。本来石でさえ溶かすそれは人の身などたやすく溶かすはずだが、少女に触れた液体は見えない壁のふちを滑るように彼女の表面から落ちて、ベッドを焦がすにとどまる。
「コレ気に入ってたんですよ……」
悲し気な表情でつぶやく少女に目立った外傷は認められない。影は軽く舌打ちをすると再び耳に指をあてる。
「……おい」
『はい』
先ほどの動揺はすっかり影を潜め凛とした声で女性が応じる。
「サポートを頼む」
『かしこまりました』
チームワークは抜群なようで影のたった一言で意思疎通がなされた。
「同調開始」
『了解。同調開始……三十…三十五』
少女は今まで苛烈な攻撃を仕掛けてきていた影の動きが止まったのを見ていいぶかし気に眉根を寄せる。
「どうされたんですか?お帰りになるなら扉を閉めていただけると助かるのですが」
少女は彼女に一切傷をつけることのできなかった影があきらめたのかと思った。そんな彼女の言葉に反応せず影は身じろぎ一つせず、相変わらず仮面の奥から少女を覗いていた。
「何をしようとしているかは知りませんが……」
無駄です。その続きは突如動き出した影によって遮られた。
『四十九……五十、いけます』
その言葉を合図に影が手のひらを彼女に向ける。なんだろう?そう向けられた本人が思った瞬間、影の手から火が迸った。
「無詠唱!?」
あまりのことに少女が驚愕の声を出す。しかしその声と姿は炎の波に飲み込まれ見えなくなる。ベッドのみならず部屋にあったすべての家具が膨大な熱へと消えていく。ベッドのシーツが一瞬で燃え尽きて灰になる。熱風が吹き荒れ灰が部屋中に舞った。窓のガラスが飴のように溶け出す。
荒れ狂う炎は不思議なことに影の周りを避けていた。赤に包まれた部屋の中にポツンと空いた安全地帯で、影は口に当たるところを右手で抑えながら立っていた。よく見ると抑えた手の近くは陽炎の様に少しゆがんでいた。時間にして五分ほど。部屋のすべてを焼き尽くした炎は燃え尽きるものがなくなったためか、あるいはこの炎を起こした影が意図したためなのか次第に収まり、やがて窄まるように鎮火した。
「……」
「ふぅ~っ。これどこに請求すればいいんですかね?」
煤だらけでおよそ物らしきものが見当たらない部屋がそこにあり、そして元ベッドであった炭の上にちょこんと座っている少女がそこにいた。あの荒れ狂う焔でさえも彼女を傷つけることはできなかった。少し服の端が焦げてはいるものの、火傷の一つも負っていない。
「まさに、化け物か」
影の何気ない呟きに少女の顔がかすかにひそめられた。それをごまかすかのように彼女は影を糾弾した。
「ちょっとこれでは寝られないじゃないですか。どこの組織のどなたかは存じ上げませんが燃やしたベッドぐらい補償してください」
「……」
「あなたほどの使い手を抱えているんですからベッドの一つや二つ、懐は痛まないでしょう?」
少女の問いには答えず、影はパートナーと連絡を取っていた。それを見て少女はまたも頬を膨らませ不満をを表して見せる。それだけで世の半分以上は傾くほどであるが、残念かなその半分に影は含まれてはいなかった。
「もはや打つ手なしだな。熱と酸欠すら無効化している。コードケースは伊達ではないということか」
『では……』
「あぁ。今回は引き上げだな。警備は成程こんなやつではざるにもなる。いつでも侵入できるだろう」
言うが早いが影は踵を返し堂々と帰ろうとするが、それに当然少女は待ったをかけた。
「ちょっと!!」
やるだけやっておいて平然と帰ろうとする影に少女は詰め寄ろうとするが、影はわずかに身をそらせ、それをたやすくかわす。同時にかん高い金属音が聞こえた。見ると影の手には少し刃こぼれしたナイフがあった。驚くべきはあの一瞬でナイフを切り付けた影の腕か、絶対といっていいほどの防御力を持つ彼女か。
とにかくかわすことに成功した影は、すでに彼女から離れていた。そのまま来た道をするすると戻っていこうとしていた。だが、何かに気づく。
「連絡は受けているのか?」
きょろきょろと少女の部屋を出てわずか数歩のところで止まり、影は周りを見渡す。ぱっと見ても石造りの冷たい廊下には何もないはずなのだが、確かに何かの存在を影は感じていた。
『いえ……全く』
やや緊張する声で影の相棒が答えた。
「どうしたんですか?弁償する気にでも……」
その後ろからまぁそうではないだろうなと思いながら少女がたずねてきた。
「黙れ」
あまりにも乱暴な言葉とそれでも反応を返してくれたことに少女は目を見開いて見せる。そんなことには目もくれず影はいまだ周囲をうかがっていた。
突如、闇の奥からきらりと光るものが影とその奥にいる少女めがけて飛来した。影がとっさに腕を払って見せると何かが床に落ちた。二本の矢だった。
影が矢が来た方向に目を向けると、今まで何もなかった廊下に誰かがいた。薄暗いここではその詳細な容貌をうかがうことはできないが、背格好からして男であろう。
ここにきて新たな来客である。少女は慣れたもので変わらず影に文句をぶつぶつと言っていた。一方、影はというと……。
「なんだこれは」
矢を打ち払った時の感覚を思い出すかのように手を握ったり開いたりしてみる。だがそんなことをしてみても、影が感じた奇妙さはぬぐえない。
なぜこんなやつがここにいる?
疑問の答えが出ないうちに再び矢が飛んでくる。先ほどのは小手調べだったのか点としではなく面として、無数の矢が襲ってきた。影はナイフでの迎撃が万が一間に合わないことを考えて両手の甲を胸の前でクロスさせる。
影の持つ手袋には結界の術が組み込まれたコインが入っており、それが作動する。影だけでなく後ろにいる少女までも守れるほどに幅広い琥珀色の輝く障壁が現れ、矢を防いだ。コインの結界は防御力こそあるものの魔力の食いが激しいので役目を終えると同時にすぐに切れる。
「……やはり。なぜだ?」
呟く影の背後で、少女がなぜだか口をぽかんと開けていた。
ゆらり。今までの攻撃がまったく効かなかったからか、廊下の向こうの男が持っていた弓を捨て動き出す。速い。素人が見ればそう思えるほどの蹴りだしてからの加速。低い姿勢で疾走する男の右手にはナイフが見えた。男が近づくことでその姿がはっきりとわかる。といっても顔のほとんどを布で隠しているので人相はわからない。ただ殺意を宿した目がそこにあった。接近した男と影の視線がかち合う。
結界には発動からクールタイムが必要であり、仕方がなく男の手を押さえつけることでそれを防ぐ。かわしてもよかったのだが、そうなると後ろの少女へと男が向かう可能性があった。初手を防がれた男の目に驚愕が浮かぶ。それを見て影の困惑も深くなった。
男は驚きつつも次の手を繰り出す。抑えられた手を支点として倒立。同時に靴の裏に仕込まれた刃が影の脳天を貫かんと迫った。曲芸のような動きは訓練された精密さがあった。そしてそのトリッキーな動き。初見殺しのその技に男は相当な自信があったのだろう。布の奥で口角がわずかに上がっているのがかすかに見えた。だが。
「なっ!?」
思わず男は声を上げていた。彼の目の前で人差し指と中指だけを使って刃を止めた影は首を傾げると抑えていた手を握り直し、驚異的な力で男を振り回し壁にたたきつける。
骨を折るほどの衝撃に男はあっさりと意識を手放した。がくりと頭をたれて壁に寄りかかっているのを見届けると、背後を振り向く。
あの時からずっとなのか口を開けていた少女がじっと影を見ていた。
「おい」
少女の肩がびくりと震える。自分が口を開けっぱなしのことに気が付いたのか慌てて閉じると、さわさわと落ち着かないように髪をいじり始める。
「なん、ですか?」
「大丈夫か?」
ぴたりと少女が固まる。あり得ないものを見るかのように影を見ていた。少女の視線に不快感を感じながら、影も自身の体に異常がないかチェックするとため息をついた。
「……その様子だと問題ないようだな」
そしてその言葉だけを残すと影と伸びていたはずの男の姿はいつの間にか消えていた。あとに残された少女は茫然としていたが、影の姿が見えないとわかるときょろきょろと探し始める。やがてどこにもいないという当然の事実を再認識すると、炭化したベッドにぽすんと寝ころんだ。天井を見ると、影の炎によってすすが一面に広がっていた。そこだけ夜の闇を移したように思える。
一人だけになった部屋で夜を見ながら少女は瞳を閉じて眠りについた。
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