Day 3

第23話 寝過ごした朝は訪問者とともに

 夢を見ていた気がする――。

 まだ朝日と言った方がいいような棘のない日差しが差し込む中、私は早足で階段を上っていた。

 そして、目的の階に上がりきる前に足を止め、そこから見える非常階段の影に目をやる。

 そこにはパッと見では分かり辛いが人影があったのだ。それはよく見知った顔で――。

 その人は苦しそうな表情を浮かべ、コンクリートの壁に拳を当てながら静かに何かを発散させていた。

 それはきっと人には見せたくない姿だから、あんな人気のないところで一人でいるのだろう。

 その姿を見て、私はできることなら救ってあげたいと思った――。


 私は以前から気にかけていた、その人知れず悲しむ君に、恋をしていたことにそのとき初めて気づいた――。


 私は自分の中に急に芽生めばえた――というか、実感してしまった感情の扱いに困ってしまい、今は何もしてあげることのできない君の姿に胸を痛めながら、チャイムが鳴り響く校内を教室に急いだ――。

 



「ごめんなさい……」

 目が覚めると同時に私はそう呟いていた。それは誰に何のことで謝ったのだろうか?

 窓から部屋に差し込む陽はさっきまで見ていた夢の中と同じくらいの強さと柔らかさを帯びているように思えた。

 隣を見ると有悟ゆうご君はまだ寝息を小さく立てていて――その寝顔をゆっくりと起こさないように覗き込む。生きていれば頬に触れたりとかしたいと思うのかもしれない。しかし、伸ばした手が触れることがないのを知っているので、私はただ黙って見守った。

 有悟君のまぶたがゆっくり開き、寝起きのまだはっきりしない顔に赤みが差していくのが分かり、それがなんだか愛おしかった。

「おはよう、有悟君」

「う、うん。おはよう、朱香あけみさん」

 有悟君はいそいそと移動して、ベッド脇の時計で時間を確認する。

「もう十時前か……こんなにも寝坊と言うか寝過ごしたのはいつぶりかな」

 有悟君は頭をきながら呟く。

「私は週末で予定も課題もない日はこれくらいの時間まで寝てたよ。まあ、そんな日は高校生になってからそうそうなかったんだけどね」

「そうなんだ。僕は体調不良の日くらいじゃないかな? こんな時間まで起きないって事は」

 有悟君は手櫛で雑に寝癖を直しながら今度は扉に移動する。

「朱香さん、僕は少し遅い朝ごはんを食べてくるよ」

「私も付いて行っていい?」

「いいけど……大丈夫?」

 有悟君なりの気遣いを受け止めてながら、「大丈夫」と笑顔で返した。

 一階のダイニングキッチンに通じる扉を開け、足を踏み入れた途端、有悟君は足を止める。私も思わず急停止して、肩越しに部屋の中の様子を伺う。

 キッチンスペースには、家政婦の紗和子さわこさんが有悟君に視線を向けながら挨拶をしてきていたが、有悟君の視線はテーブルに座っている人物で固定されている。その人物は手にしていたカップをゆっくりと置いて、有悟君の方に向き直り、

「おう、ユウ。おはよう。お前が寝坊なんて珍しいこともあるもんだな」

 と、気楽な挨拶をしてきた。

「兄さん――どうして、ここに?」

「そんな言い方ないだろう? ここは俺の家でもあるんだぜ? いつ帰ってきても問題はないだろう? とは言っても、前に帰ったのは盆くらいだったから二ヶ月くらい前だったかな?」

 秀介しゅうすけさんは有悟君に肩をすくめて見せて、おどけたような軽い口調で話す。この兄弟は不思議だ。ずば抜けた頭の良さや顔の造形ぞうけいはよく似ているのに、口調やまとっている雰囲気はまるで別人で――兄弟じゃないと言われればそれでも納得してしまいそうだった。

 有悟君が未だ扉のところで立ちすくんでいると、

「ほら、そんなところに突っ立ってないでユウも座れよ。お土産もあるんだぜ」

 と、有悟君を手招きしつつ、紗和子さんにも「あれ、ユウに出してやって」と声を掛ける。紗和子さんは笑顔でそれに応じ、奥で皿に何かを乗せているようだった。

 有悟君は観念したように秀介さんの正面の椅子に座る。迷いなく座ったということはそこが有悟君の椅子なのだろう。私は有悟君の斜め後ろに邪魔にならない場所に立って事の顛末てんまつを見守ることにした。

「有悟さんは飲み物は何になさいますか?」

「コーヒーを……」

「紗和子さん、じゃあ、俺もコーヒーれ直してもらっていいかな?」

「ええ、もちろんです」

 部屋にコーヒーの香りが広がりだす。そして、会話もないまま時間だけが過ぎていく。しばらくすると、紗和子さんがトレイにコーヒーと先ほど奥で準備していた皿をせてやってくる。

 二人の前にコーヒーとサンドイッチが並べられる。サンドイッチの下に敷かれているナプキンには店のロゴマークが入っていて、テレビでも取り上げられている有名店のものだと気づいた。たしか、サンドイッチやハンバーガーで有名な店で、名物はヒレカツサンドとエビカツサンドで――エビが好きな私はいつかは食べに行ってみたかった店の一つだった。

 有悟君は出されたサンドイッチをまじまじと見つめる。

「ユウ、警戒しなくても大丈夫だって。俺が食ってるのはエビカツサンドだけど、そっちはヒレカツサンドだ。テイクアウトもわざわざ箱を分けてもらったから大丈夫だ」

「僕がエビ嫌いなの知ってたんだ……」

 有悟君の呟きに秀介さんは眉間に皺が寄る。そして、笑顔を向けながら、

「知ってるに決まってんだろ。兄弟なんだから。それにお前がエビ嫌いなのはアレルギーからだろ?」

 と、口にした。有悟君はコーヒーをすすってから、

「アレルギーなわけではないよ。ただ食べると発疹ほっしんがでるだけで――」

 と、俯き加減に答える。

「ユウ、それをアレルギーって言うんだ」

 秀介さんの言葉に私も頷く。有悟君は気づいていなかったということなのだろうか?

「でも、昔は食べても何にも問題なかったんだ」

「そりゃあ、異常が出始めたのが小六くらいのときくらいからだろ? 発疹出た時にもしかしてと思って調べた記憶があるからな。ああ、そうそう。俺が中二のときだよ。医学書読みまくったからな。まあ、ユウはエビとかカニ食ったら口がかゆくなるから嫌いというより、元から食感や味が好きじゃなかったとかだったみたいだし、給食のなくなる中学校あたりから自然と口にする機会は減ったんだろうよ」

 有悟君は腕を組んで考え込んでいる。思い当たる節があるみたいだ。

「そのことは兄さんだけが気づいてたの? 本人の僕でもただ苦手だとしか感じてなかったことなのに……」

「まあ、気づいたからって直接何かできるわけじゃないから、昔、嫌ならエビとかは食べるなって、ユウに忠告したことくらいと、母さんや紗和子さん、前の家政婦には事情は話してたけどね」

「そうだったんだ……」

「たださ、ユウがアレルギーに気づいてないとは思わなかったよ。まあ、前の家政婦のなんだっけ……多嶋たじまは事情を知りながら、“アレルギーは思い込み”みたいなアレルギーに対して正しい知識を持ってなくて、ユウにも無関係にエビとか甲殻類こうかくるいを出そうとしやがってな……」

 秀介さんの言葉には静かな怒りが込められているようだった。そして、それが昨日有悟君から聞いたご飯抜きの真実なのではないのだろうか? 有悟君も同じことに行き当たったのか、確かめるためにはっきりと口にして尋ねる。

「それで……それが理由なの? あの頃時々あった、兄さんが僕はいらないと言っていたという嫌がらせのような理由で僕の分だけご飯がなかったりしたのは……?」

「嫌がらせか……そう取られてもおかしくなかったかもな。ユウ、お前の思ってる通りだよ。ユウのご飯がない日はあの人が甲殻類を直接的、間接的に使った料理を作った日だよ。だから、母さんと相談してできるだけ早く辞めさせたんだけどな……悪かった」

 秀介さんは有悟君に頭を下げる。有悟君はそれを黙って見つめる。

「兄さんが悪かったわけじゃないだろ……頭をあげなよ」

「そうだな……あっ、そうそう。コーヒー冷める前にサンドイッチ食べちゃいな。ここのすげえ美味いから」

「……いただきます」

 有悟君は促されるままサンドイッチに手を付け始める。それを見て、秀介さんも同じように食べ始める。

 おそらく久しぶりの兄弟二人だけの食卓は思いのほか静かだった。なにせ、食べ終わるまでに発せられた言葉が、「兄さん、美味いよ、これ」「そうだろ、そうだろ」だけだったのだ。

 それまでの会話で二人の間にあった溝はかなり埋まっていたのだろう。

 それにしても、目の前に実際に見る戎谷えびすだに秀介しゅうすけという人物は聞いていた印象とはかけ離れている人物に思えた。学校の噂で聞く、完璧超人というわけでも、有悟君から聞かされた意地の悪い印象もなく、ただ弟想いのいい兄にしか見えなかった。それでも、有悟君の話に出てきた秀介さんの姿から想像するにまだ何か秘密や事情があるのだろうとも思った。

 秀介さんは有悟君と違い口数も多く表情豊かだが、それでも有悟君と同じで考えていることや意図が見えにくい。その眩しすぎる表面に隠されて分かりにくいけれど、裏があるようなそんな人物に見えた。

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