茜色の世界に君に会いに行く

たれねこ

Day 1

第1話 プロローグ

 夢を――不思議な夢を見ていた気がする――――。

 私はあかね色に包まれた世界で誰かと話していた。誰かは思い出せないけど、その相手はとても辛そうで苦しそうな表情を浮かべていて――私はその相手を助けたいのだけれども、どうやらボタンを掛け違えてしまったようだった。

 上手く言葉が出てこない、息ができない、そんな苦しさに感覚が支配されつつも何故なぜか心は穏やかで――悲しいのだけれど温かいそんな夢――――。



 目を覚ますと、茜色の世界ではなく、カーテンから差し込む白い太陽の光に照らされた見慣れた自分の部屋の天井が目に入ってきた。

 先週から十月に入り、季節は秋真っ盛り。一ヵ月後には立冬りっとうこよみの上では涼しくなってもおかしくない時期だというのに、まだ残暑ざんしょは厳しく、朝から蒸し暑さを感じる。じとっとしていて横になっているだけでも汗がき出してきそうだった。

 ふいに首筋の違和感をぬぐおうと横になったまま左手を挙げようとする。しかし、ひじの辺りがやけにごわつく。目線を自分の体に移すと、制服姿で――私は驚いて、いつもより重く感じる体を一気に起こす。理由が分からないが私は制服のまま眠っていたようだ。

 でも、それはありえないことだった。私は家に帰ると二階の自分の部屋に真っ直ぐに行き、制服のブレザーとリボン、スカートをハンガーに掛け、楽な部屋着に着替えてから何かをしている。それは習慣化していて、どんなに疲れていても制服のままベッドに横になるなんてことはしない。

 ただ、制服一式をハンガーに掛けた後、シャツだけというなんとも無防備な姿でベッドに倒れこむことがあるのは否定しない。

 だからこそ、今の制服姿というのがどうにもに落ちなかった。

 頭の中に疑問符が浮かびまくっている最中さなか、私の右手がもう一つの違和感があることを知らせてくる。軽く握った手の中に小さな硬いものの感触が伝わってくる。手の平をゆっくりと開くとボタンを握っていた。私はそのボタンを凝視ぎょうしする。見覚えのあるボタンだ。それもそのはずで制服のブレザーのボタンだった。

 私は今まさに着ているブレザーのボタンをチェックする。前をめるボタンは二つともちゃんとついている。次いで、そでのボタンを順にチェックする。両袖にはちゃんと三つずつボタンはついていた。

 私はそれを確認してひとまずホッとする。ボタンは大きさ的に袖のボタンのようで、もしかしたら、誰かのボタンを知らず知らずのうちに預かったり拾ったのかもしれないと思い、ブレザーの右ポケットにボタンをしまうことにした。

 一つ大きな伸びをしていると、外から小学生が笑い声をあげながら登校している音が聞こえてくる。その声にハッとして目覚まし時計を見ると、いつもは私も家を出ている頃合の時間を示していて――。

「なんで、今日に限って、スマホのアラームも目覚ましも鳴らないのよ! 母さんも起こしてくれればいいのにっ! もう!!」

 私は制服を着ていたことを幸運だととらえ、鏡の前で髪型をさっと整える。目立つ寝癖ねぐせはないようだ。相変わらずナイスなくせっ毛で、鎖骨さこつあたりまで伸びている髪の毛は首元でゆるくウェーブが掛かっている。私は急いで自分の部屋を飛び出して一階に降りる。

 家の中はとても静かだった。居間のソファーでは母が横になって眠っていた。

朱香あけみ……」

 寝息に混じり、私を名前を呼ぶ声が聞こえる。私は母の寝顔をのぞき込む。首に浮かぶ筋が深くなったように思え、また少しせたのかなと心配になる。

 私は両親には苦労をかけているという実感がある。ただ両親はそのことで私を責めるどころか応援してくれている。私の家は子供の私から見ても裕福というわけではなかった。父は朝早くから深夜まで仕事で家を空け、休日も出勤したりと年中忙しそうだった。母も家計を下支えするために近くの弁当屋でパートをしている。

 そこにさらに私が追い討ちをかけた。私立の名門進学校に合格し、高い学費に通学のためのバスの定期代、勉強についていくための予備校にと、我が家の経済状況を逼迫ひっぱくしている。それだけでも両親には頭が上がらないのに、女の子だからと服や化粧品を最低限買うためのお小遣いまで貰っていて――それらのお金を捻出ねんしゅつするために、母は日中の弁当屋のパート以外に夜間清掃の仕事を始めた。

 私はそんな両親の期待と努力に応えるために一生懸命だった。

「お母さん、いつもありがとう。いってきます」

 起こさないように小声で母に挨拶をして、いつものように玄関から外に出た。

 バス停まで歩いて、列の最後尾に並び、バスに乗り込む。吊り革をいつものように右手で掴み、流れる景色をぼんやりと眺める。窓に映る自分の姿を見ながら空いてる左手で前髪を整える。そこで私の視線は私の左手首で固定される。腕を挙げたことであらわになった手首には身に覚えのないあざがあった。それは誰かに強く握られたような手形の痣で――なんだか気味が悪く私はそっとシャツを伸ばして手首を隠した。


 それにしても今日は不思議なことだらけだ――――。

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