第63話嚢沙之計
間者から鬼の軍勢が迫ってくる情報が鎌倉にも伝えられました。
「吉備太郎くん。着いて早々だが、協力してくれるかな」
「もちろんです。鬼の暴虐を食い止めなければいけません」
右大臣の要請を二つ返事で応じた吉備太郎。
右大臣は帥を発しました。軍勢は二万。総大将は吉備太郎も知っている安田晴盛でした。
それは問題ないのですが、珍しいことに今回の戦いに竹姫も従軍するというのです。
「大丈夫か? 戦場に居たことないんだろう? それなのに……」
「あたしも行きたくないわよ。でもそうしないといけないから」
その言葉に何か気にかかった吉備太郎でしたが、真意が分からなかったので、黙ったまま認めるしかありませんでした。
吉備太郎たちは総大将の安田の近くに居て、行軍していました。
「久しいな。吉備太郎殿」
「安田さまもお元気そうで何よりです」
「様など付けなくても良い。お主のおかげで総大将を任されるようになった。感謝しておるぞ」
馬上からではありますが、こうして総大将から声をかけてもらえることに三人の仲間は驚いていました。
「それで、陣を敷く場所を決めたのは吉備太郎殿の仲間らしいが、どなたかな」
安田が訊ねると「ここに居る翠羽です」と吉備太郎が言いました。
「そうか。一応、軍略というものを知っているのだな。河を前に山を背に陣を敷く。しかし古の趙括のようにならねば良いがな」
趙括というのは古代中国の武将で、兵法家でありながら白起という将軍に負けてしまった人物でした。
すると翠羽はこう言い返しました。
「趙括はただ兵法書を丸暗記しただけです。兵は紙上へ動く駒ではありません。食事もするし疲労もします。また将に対して尊敬もすれば軽蔑もします。つまり士気もございます。それを理解しなかったから敗れたのです」
安田は一応、感心しましたが、口だけならなんでも言えると思っていました。
「ふむ。なるほどな。では鬼の軍勢に対してどう攻めるのだ?」
翠羽は吉備太郎の顔をちらりと見て、それから献策をしました。
「二万の軍勢を見て、鬼共は意気消沈すると思いますか? いえしないでしょう。鬼は僕たち人間を見下しています。羽虫のように思っているでしょう。しかしながら、そこが狙い目なのです。人間は力では及びませんが、知恵でははるかに勝っています」
そして翠羽は「すでに策は仕込んであります」と言いました。
「詳しいことは陣中で話しましょう」
安田は「総大将の我に黙って策を講じたのか?」と厳しい顔で翠羽を睨みます。
「いえ、あなたが総大将に決まる前に策を練っていたのよ」
助け舟を出したのは竹姫でした。
「なんだと? どうしてそのようなことをしたのだ?」
「時間がかかる策なのよ。詳しいことは必ず陣中で話すわよ」
安田は納得いかない顔をしましたが、昔のこともありましたので、ここは吉備太郎の顔を立てることとしました。
軍勢は大きく浅い河、名田川の近くで陣を敷きました。鬼との戦いの備えて、みんな緊張しているようでした。
「それでは策を聞こうか」
陣中には総大将の安田と部下である忠正など十人の武者が居りました。
そして吉備太郎、竹姫、蒼牙、朱猴、翠羽がそれに参加していました。
真ん中には机が置かれており、その上には地図が置かれています。
「まず僕の策ですが、まずは弓矢と投石で牽制して、その後二千の騎馬隊で突撃します」
これは基本的な戦法でした。
「一見、普通の戦いにしか思えないが、それで鬼に勝てるのか?」
安田の言葉に部下は頷きました。
「いえ、敵わないでしょう。しかしそこが狙い目なのです。ある程度戦ったら、こちらは退くのです。鬼共に追撃させるために」
すると忠正は「わざと退くのか? なんのためにだ?」と問い質します。
「ええ。こちらの地図をご覧ください」
名田川の上流を指差すと一同は覗き込みました。
「こちらの上流に土嚢を積んでおきました。大量の水が堰きとめられています。それを一斉に外し、洪水の如く鬼共を滅ぼしてしまいましょう」
嚢沙之計と呼ばれる兵法でした。かの有名な韓信という中国の武将が得意とした戦法でした。
「騎馬隊なのはそのためです。素早く退くために必要です。また鬼は巨体ゆえに動きが鈍い。水からは逃げられません」
一同は黙って考えました。
「堰を切るのは、どの状態からだ?」
安田が訊ねると「味方が全員退いたときですね」と翠羽が答えます。
「その時機は朱猴さん、あなたが合図を分かりやすくやってください」
朱猴はいきなり言われたので驚きましたが「俺様に任せておけ」とすぐさま応じます。
「この草の者で大丈夫なのか?」
安田が怪訝な表情をしながら朱猴を見ます。
「おいおい。総大将。俺様の聡さを知らないな? 合図の方法も火薬を使ってやるから平気だぜ」
自信ありげな朱猴を疑わしい目で見る安田たち。
「大丈夫ですよ。安田さん。私の信頼する仲間ですから」
鬼退治の若武者である吉備太郎が言ってしまえば納得してしまいます。
「もしも鬼が対岸まで辿り着いてしまったら、吉備太郎さんや蒼牙さん、朱猴さんの出番です。絶対に負けないでください」
翠羽が念を押すように言いました。
三人は頷きました。
その後はどの武者が危険な騎馬隊になるのかを決めたり、各隊の指揮者を指定したりと総大将らしい役割は安田たちに任せました。
その晩、吉備太郎たちは与えられた場所で休んでいました。
「しかし翠羽殿は流石ですね。実戦は初めてなのに、策を思いつくとは」
蒼牙がのん気に言いました。
「僕は軍師になりたくて、勉強し続けていたんです。女のクセに、生意気ですかね?」
その言葉に朱猴は首を振りました。
「女だろうが関係ねえよ。草の者――いや忍者にとっては優劣が問題なのさ」
翠羽はこの人たちは優しいなと思いました。危険な目に合わせておきながら、こうして仲間に入れてくれたことや自分のことを信じてくれることはかなりありがたいのです。
感謝しかありませんでした。
「竹姫。今まで喋らなかったけど、元気ないのか?」
吉備太郎は竹姫のことを慮っていました。
「いえ。大丈夫よ」
「そんなことないだろう。いつもなら――」
「…………」
「竹姫、やっぱり今からでも鎌倉に居たほうが――」
「うるさい! 黙りなさい!」
竹姫は吉備太郎に苛立ちを示しました。今までに見たことのない怒りでもありました。
「……竹姫?」
「……っ! もうほっといて」
そう言って外に出て行く竹姫。
「吉備太郎さん。ここは僕が行きます」
追おうとして翠羽に止められてしまいました。そのまま翠羽も出て行きます。
「竹姫殿、どうしたのでしょうね」
「ふん。初めての戦場で落ち着かないだけだ。気にすることねえよ」
蒼牙と朱猴の言葉が響いて離れませんでしたが、ここは翠羽に任せることにしました。
竹姫は陣から離れて行きます。
「……どこへ行くつもりですか?」
翠羽は冷えた声音で問いました。
「…………」
「あなたが居なくなったら、策は成りません。人がたくさん死にますよ」
「分かっているわよ。一人にさせて」
翠羽はためらいましたが、結局は一人にさせました。
「鬼を滅ぼす手立てをしてしまった。鬼を殺すのはなんとも思わないけど――」
竹姫は空を見上げました。
そこには十六夜の月が照らしていました。
「あたしも戻らないといけないの?」
悲しげに呟きますが、誰も聞いてはくれません。
「吉備太郎……あなたと離れたくない……」
知らない内に涙が零れてきました。
「あたしは、吉備太郎のことが……」
こらえきれずにその場に座り込んでしまいます。
「淋しいよ、吉備太郎」
見た目通りの子どものように泣きじゃくる竹姫。
「あなたは悲しんでくれるの?」
鬼退治を取るのか、それとも竹姫を選ぶのか。
答えは未だ分かりません。
月だけが竹姫を見つめていました。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます