第51話蒼牙対毒憤
毒憤には欲がありませんでした。
物欲も色欲も金銭欲も権勢欲もありません。
基本的な欲求はありますが、それも他者を押しのけてしまうほどのものではありませんでした。
強欲ではなく無欲。
それが毒憤という老人の特色でした。
三世代前の蟹入道を決める際も後継者候補として名が挙がっていましたが、彼らしく断ったのです。名誉や権力は要らないと。
「毒憤よ。お前の望みはなんだ?」
親友であり三世代前の蟹入道になった男は、高台から里を微笑ましく眺めている毒憤に訊ねました。
もしも、何か狙いがあるのなら、たとえ親友であってもこの場で始末しなければならないと悲壮な覚悟を決めていた蟹入道。
すると若き日の毒憤は言いました。
「俺はさ、誰かの上に立つ人間じゃねえんだ。道端の糞のように下の人間なんだ」
「そのようなことはない。現にお前の実力は私と同程度だ」
「実力云々じゃねえのさ。まあ話しても詮のないことだけどよ。それに俺はこの里が好きなんだ」
毒憤は振り返りました。
蟹入道はその瞳を真っ直ぐ見ました。
それは偽りもなく、裏もない清らかな瞳でした。
「この里を守るためなら、俺はどんな汚いことでもやるぜ。そんな人間は上に立たせちゃいけねえよ。清濁併せ持つお前こそが蟹入道に相応しい。だから降りただけなんだ」
毒憤の言葉を聞いた蟹入道はふうっと溜息を吐きました。
「本心のようだな。私はお前を殺そうと思っていた」
「だろうな。殺気が僅かに感じた。お前らしくないな」
「――お前に四天王筆頭を命ずる」
すると毒憤は「四天王筆頭?」と怪訝な表情をしました。
「なんだその四天王って」
「頭領の補佐役として四人の草の者を選ぶ。その代表となれ」
「おいおい。俺はそんな役目など――」
「頭領命令だ。山猿衆との戦いも激化しているときに有能な者の地位を引き上げることは急務なんだ」
そして蟹入道は笑いました。
「お前は立派な草の者だよ。私よりも長生きするさ」
その言葉どおり、三世代前の蟹入道が六年後に戦場の露と消えてしまっても、毒憤は生き続けました。
やがて無欲な毒憤を里の者は尊敬していくことになります。
任期である六十歳まであと一年。
既に筆頭の地位は雀罰に譲って、後は隠居か後進の教育をしようと思っていた直後。
猿蟹合戦が始まってしまったのです。
「お主は山猿衆はないのだろう? 何故奴らに加勢するのじゃ?」
相対する蒼牙に毒憤は問いました。火球を逃れた蒼牙は言われたとおりまず毒憤を相手にしようと思っていたのです。
しかし、毒憤のほうから蒼牙に近づいてきて好都合に思えました。
このまま戦闘に入ると蒼牙は覚悟を決めて、折れた木槍を二つとも掴んで二槍流の構えを取りました。
二槍流は扱ったことはありますが、長槍と比べてあまり得意とは言えませんでした。
だから攻めあぐねていたとき。
毒憤が問いかけてきたのです。
「それは拙者にも分からん!」
蒼牙は堂々と言いました。
毒憤はあんぐりと口を開けました。
「わ、分からないだと? それで加勢したとお主は言うのか?」
「そうだ。拙者は吉備太郎殿が決めたから戦うだけだ。どうしてこんな風に戦わなければいけないのか、自分でも分からん!」
毒憤は呆れればいいのか、怒ればいいのか判然としませんでした。
ここで蒼牙は竹姫が人質に取られていることを話すこともできました。そうなれば蒼牙も吉備太郎も沢蟹衆に寝返ることになったでしょう。その可能性はありました。
しかし竹姫自身からそれは口止めされていたのです。
「いい? もしもあたしが人質に取られていることが分かったら、あたしたち全員死ぬと思いなさい」
牢屋越しにそう話す竹姫に吉備太郎は黙って頷いていましたが、蒼牙は理解できなかったので訊ねました。
「それはどういう意味ですか?」
「もしもそれで寝返るように説得でもされたら、真っ先に朱猴はあなたたちを殺すわよ。それにあたしも死ぬ」
詳しいことを話しても蒼牙には理解できないと思って、簡略に答える竹姫。
「はい、分かりました。気をつけます!」
それで納得してしまう蒼牙もどうかと思いますが、仕方がありませんでした。
なにせ、蒼牙はあまり賢くなかったのですから。
具体的に言えば、話しながら自分が風下に追いやられていることにも気づかないほど、愚かだったのです。
「では吉備太郎がわしらの仲間になったら、どうする?」
「それはありえないな」
蒼牙はにやりと笑います。
「吉備太郎殿はそのような裏切りや寝返りをする人間ではない」
毒憤は首を振って、面倒くさそうに言いました。
「ならばお主たちは死ぬことになる」
「それもありえないな。拙者はともかく、吉備太郎殿が負ける道理はない」
毒憤は周りの状況を確認して言いました。
「その吉備太郎は確実に死ぬ。何故なら雨水が相手なのだから」
蒼牙は「雨水とはそんなにも強いのか?」と訊ねました。
「ああ。ワシよりも強い」
「……あなたがどれだけ強いのか、分からんのに、比べようもないだろう」
その言葉を聞いて、今度は毒憤がにやりと笑います。
「ワシも強いぞ。相手に負けたことを悟らせずに勝ってしまうのだから」
その言葉の意味が分かりかねている蒼牙ですが、次の瞬間、否応にも分かってしまいます。
膝から崩れ落ちて、そのまま倒れてしまいました。
「こ、これは……」
「水遁、死に水。これでお主は助からぬ」
蒼牙は一応警戒していました。朱猴の言葉どおり、相手は猛毒遣いだと知っていたのです。だからこそ、近づかずに間合いを測っていたのです。
「何故……毒には……触れてない……」
「液体の毒を操る水遁だが、それにはもう一つ先の領域がある」
毒憤は説明をしました。
「空気に含まれる水気を解して、相手に毒を盛る。これぞ水遁の真骨頂。見えぬ毒を知らぬ間に盛るのはいくつか条件があるが、一つは相手が風下に居ることだ」
そして、苦無を取り出し、蒼牙に近づきます。
「死に水で死ぬのは必定だが、念のため、首を刎ねよう。確実に殺す」
既に解毒水を撒いて、死に水を無毒化した毒憤は蒼牙にゆっくりと迫り――
「――死ね」
間合いに入りました。
蒼牙の間合いに。
「――二槍流、二連牙槍!」
素早く起き上がり、両手の槍をもって、毒憤に二連撃の牙槍を食らわす蒼牙。
毒憤はまともに食らい、後方へと吹き飛びます。
「な、なぜ――」
毒憤は混乱に陥りましたが、なんとか体勢を直そうとして――
「まだだ! 落下撃!」
上空からの槍術。そして連撃。軽くない傷を負い、そして老いている毒憤には避けることはできませんでした。
「あらかじめ、無効水という毒を投与しておく」
戦いが始まる前に吉備太郎と蒼牙に朱猴は言いました。
「まあ苦しむことになるが、水遁の技を一度だけ無効してくれるものだ。草の者ならば警戒するが、そうではないお前たちには警戒も薄くなるだろうよ」
毒憤の失敗は『秘伝』である無効水を投与されていたことに気づかなかったことです。
よそ者に秘伝を使うことはありえない。心の奥底でそう思っていたのでしょう。
「あの山猿がよそ者をここまで信用するとは、まさか沢蟹衆を統合させるのはまことのことなのか?」
薄れゆく意識の中で、毒憤が最後に思ったのは、悔しさや怒り、悲しみでもなく。
若者の向こう見ずな青さだったのです。
「ワシも老いたな」
その呟きは誰の耳にも届きませんでした。
「ふう。騙まし討ちは気が進まぬが仕方ない。この老人は強かで強かった」
そういう蒼牙はその場で膝を付きました。いくら無効水と言えども、死に掛けたことに相違ありませんから。
蒼牙対毒憤。
結果は蒼牙の辛勝でした。
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