までこさんと今日降る雪の
世間亭しらず
◆までこさんと今日降る雪の◆
――淡雪、綿雪、牡丹雪。降りに降りては雪景色。
今は昔の、年の暮れ。
父は仕事で海の向こうに、惜しみながらも旅立った。
「すまないな葉子。二週間後には帰ってくるから」
胸の内に寂しさを秘め少女は父を笑顔で見送る。
けれども母が折悪しく、身体を崩して入院へ。
「ごめんね葉子。お祖父さんとお祖母さんの言うことをよく聞いていい子にしていてね」
胸の寂しさはよりつのり、それでも母に笑顔で頷く。
――小雪深雪に
今は昔の、年の暮れ。
祖母に連れられ田舎道。
前を向けどもただ白く、吐き出す息も凍りつく。後ろを返ればなお白く、とどまることなき氷の花が辿りし路を消してゆく。
「雪は怖くないけんね」
手を繋いだ祖母の言葉、少女は返事が出来ずに俯いた。
田舎の家は少女の身には余る大きさで。
静けさが耳にうるさく眠れぬ少女は微かに窓を開いて外を眺める。
黙々と舞い降り音もなく積もりゆく雪はこの世の全ての音を吸い取ってしまったかのよう。この中にあっては今宵の除夜の鐘とて届くまい。
きっと今ならどんな音だって吸い取ってしまうだろうから。
だから少女は胸の不安を音にして――……
「雪なんて……きらいよ……」
そっと雪に落として捨てた。
――夜の
◇
近畿地方の奈良県某市に所在する私立おさらぎ高等学校。
生徒の自主性に任せた自由でのびのびとした校風で知られるこの学校には、様々な部活動や同好会が存在しています。
その部活動は伝統的に文化部が多くを占め、中には文化部のくくりであってもアウトドア派な部活も多くあったりします。
例えば、おさんぽ部。ただの散策集団……ではなく、主にペットを飼えずにケモノモフり欲求が溜まった生徒によって構成されており、地域の飼い主から朝晩の犬の散歩を請け負っている為ご近所の奥様方にも好評です。
例えば、鉄道愛好会。校外活動で毎週仲良く鉄道を乗りに行くものの、部員が乗り鉄・撮り鉄・音鉄・車庫鉄と見事に趣向が違うため、最終的には全員別行動がお約束です。
さて、木枯らしに吹き上げられた落ち葉が窓を撫でゆく多目的ホールで競技かるた部の部員に混ざり練習試合をしているのは、2年生の万葉研究部部長、までこさんです。
切れ長の涼やかな目は真剣な光を湛えて目の前に並ぶ札に落とされています。ひとつに結い上げられた艶やかな髪も俯いた形に合わせて左肩にさらりとしなだれ掛かります。
ロングスカートに慎ましく包まれた腰をわずかに浮かし、右手は膝に軽く添え、左手は適度に力を抜いていますがいざという時には水切り石のごとき鋭さで取り札を払うのです。
はてさて万葉研究部――通称・万研部――にも関わらずなにゆえに競技かるたに興じているのか不思議ですが、いつもの事なので気にしてはいけません。
部室では万研部の面々も張り詰めた空気の中で勝負の行方を見守っています。
特に万年ジャージ姿な万研部1年生のアトソンくんは「音をたてないようにじっとしてなさい」と言われて部室の隅で律儀に正座していますが、もう長いこと足の痺れと戦っています。その横に淑やかに正座する先輩のよしのさんにつんつんされては声もなく悶絶しています。
ほどなく試合も決着がつき、競技かるた部は暫しの間休憩に入りました。
簡易敷の畳の上で姿勢を正したまでこさんは、ほぅ、とどこか艶っぽさのある吐息と共に緊張をほぐします。
そうして今しがたまで真剣勝負を繰り広げていた目の前の対戦相手に微笑みかけました。
「参りました。お見事だね、千代莉さん」
「貴女にそう言われてもあまり嬉しくありませんわ」
までこさんの正面に座してそんな不満を唱えるのは、1年生のちよりさんです。丁寧に切り揃えてハーフアップにされた長髪と、ややつり目がちの勝ち気な小顔が印象的です。
「おや、何故かな?」
「お姉さまともあろう人が本気を出してわたくしに負けるとは思えませんもの」
ちよりさんは拗ねたようにつんと唇をつき出します。
「これは心外だね。可愛い後輩の頼みになおざりな相手などするまいよ」
「本当ですの?」
ちよりさんは万葉研究部と競技かるた部を掛け持ちしています。
そのちよりさんが新年に行われる競技かるたの大会が近いということで、までこさんたちは応援に来ていたのでした。
「巧言令色、鮮なし仁。人から好かれんと愛想を振りまく者は得てして誠実にあらず仁徳に欠けるものなり。君が私に勝てたのは正しく君の実力によるところだよ」
までこさんに太鼓判を押されて、ちよりさんも機嫌を直します。そうして二人は揃って部室の隅で見学している万研部の元に帰ってきたのでした。
ちなみに正しくは競技かるた部の部室なのですが、ドアノブに『万葉研究部』の札が下がっている以上ここが万研部の部室なのです。
「“五番勝ち”のお姉さまにそこまで言って頂けるなら安心ですわ」
「うごごご……“五番勝ち”ってなん――いぎぃっ!」
「修行が足らないよアトソン君」
帰ってきたまでこさんに非常にデリケートでセンシティブな部分(足の裏)をからかい半分に踏まれて畳に突っ伏すアトソンくんです。
でも靴下越しにまでこさんと触れ合えてぐふふとくぐもった笑みを浮かべているのでアトソンくんは強い子です。
「“五番勝ち”というのはお姉さまの二つ名ですわ」
ちよりさんが『嫌ですわこの男ったら』な顔をしつつも教えてくれます。更にはよしのさんも、いつものおっとりとした口調で付け加えてくれます。
「までこは去年ここの部員と、多目的ホール共有権を賭けて、競技かるた五番勝負をして勝っているのよ」
「お姉さま伝説の一つですわね。とはいえ部活中邪魔になるような事はなさらないし、顔を出した時には部員に競技かるたの指導も行ってくれるので今では関係は良好ですわ」
高校生らしかぬ知識と老成した雰囲気を持つミステリアスな万葉研究部部長のまでこさん。
顔は知らずとも『五番勝ち』『畳返し』『超推理合戦』『おさらぎ高の探偵ホームズ』『カグヤ騒動』『校長の茶飲み友達』『教頭の胃痛の種』『若年寄』と聞いたらピンと来る生徒がチラホラいるくらいにはおさらぎ高校の中でも有名人なのです。
けれどそれは今回とはまた別のお話です。
「それはさておき――待たせたね。それでは次は君の話を聞こうとしようか」
そう言って改めてアトソンくんの方へと向き直るまでこさん。までこさんの言葉を合図にみんなの視線がアトソンくんに集まります。
それは、4日前の万研部の活動中のことでした。
「クリスマスは俺とデートして下さい!!」
「悪いけれどその日は部活動があるんだよ」
目を爛々と輝かせたアトソンくんのお誘いを、あっさりといなすまでこさん。
万研部ではよくある光景です。
「えーっ! だって12月25日って終業式じゃないっすか! 確か万研部は今週で終わりっすよね?」
「実は千代莉さんから新年の競技かるた大会に向けて練習相手を頼まれていてね。終業式の後はそちらにかかりきりだね」
「それじゃあ、部活の後で! それか前日の24日とか!」
「どちらも気乗りしないね」
「そんなぁ」
さっくりとフラれて落ち込むアトソンくんなのでした。
これも万研部ではよくある光景です。
ですがそれくらいでへこたれないのがアトソンくんのいいところです。すぐさま立ち直ってまでこさん攻略の為の新たな道を模索します。
「日本人ならやっぱりクリスマスよりお正月ですよね! 大晦日は俺と一緒に新年を迎えましょう!!」
「悪いけれど年の瀬はいつも家族と過ごすことにしているのだよ」
「ううう……家族思いなところも素敵です……」
そんなお馴染みな光景をお茶を啜りながらのんびりと眺めているのは、までこさんと同じく万研部2年生のよしのさんです。
「阿藤君はいつも直球だわねぇ」
よしのさんはいつもトロンとした目に力の抜けたような笑顔を浮かべています。かといって眠たいわけではないのでミントガムの差し入れはいりません。
「までこは部活の鬼よ、少し誘い文句を考えてみなさいな」
小首を傾げながらそんなことを言うよしのさん。遅れて肩の上で柔らかな猫毛の髪がフワリと揺れて、スローテンポなまばたき一つ。見ていて眠くなってきそうな独特のテンポがよしのさんの魅力の一つです。
部活と聞いて、とたんにまでこさんの顔がほころびます。
「おや、そうなると場合により放てはおけないね」
「俺は部活以下っすかぁ!?」
アトソンくんが傷ついた顔で嘆きますが彼の扱いが軽いのは本人の日頃の行いの所為なので仕方がありません。
「まあいーっす……それじゃあ……ゴホン! 改めて、新年は俺と二人きりでめくるめく万葉の世界を楽しみませんか?(めっちゃエエ声)」
「ふむ。――それで、君はどんな活動内容を提案してくれるのかな?」
「へっ?」
「部活動として集まるならばもちろん万葉集に関わりのある活動内容なんだろうね?」
「え~と……ちょっと待ってください?」
救いを求める目をよしのさんに向けますが、
「それくらい自分で考えなさいな」
やんわりとした口調でピシャリと釘を刺されてしまいました。
うんうん唸り始めてしまうアトソンくんを見かねたまでこさんが助け舟を出します。
「仕方ないね。ならば、考える猶予を与えよう。25日の放課後までにどんなことをやるのか考えておいで、それを聞いて正月に部活動をするかどうかを決めるというのはどうだね?」
「わっかりました! きっとものすごい活動内容を考えてギャフンと言わせてやりますよ! 待っててくださいヨーコさんんんんんっっ!!!」
「あらあら、までこをギャフンと言わせるだなんて、意味をわかって使ってるのかしら?」
「……ある意味、まさしく今言いたい心境ではあるね」
意気込んで駆け出していくアトソンくんを見送りながら、首を傾げる二人なのでした。
そんなこんなで約束の25日となった今日、までこさんをギャフンと言わせるかどうかの――いえ、新年に二人きりの部活デートを出来るかどうかのプレゼンテーションが始まろうとしていました。
プレゼンテーターは万葉初心者のアトソンくん。聴衆はまでこさん、ちよりさん、よしのさんです。
「さて、どんな手で来るものか期待しているよ」
「きっとこんな風に
〈笹が葉の さやぐ霜夜に 七重着る 衣に増せる 子ろが肌はも〉
のような相聞歌を持ち出して妙な屁理屈こねてくるに決まってますわ」
ホワンホワンホワ~~ン
想像の中のいやらしい目でよだれを垂らしたアトソンくん:「『笹の葉っぱがザワザワする霜が降りるような寒い夜には、たくさん着る服にもまして愛しい貴女の肌を思い出す』といいます。ぐへへへ、ヨーコさんも真冬の寒さの中俺とあったまりましょ~~~っ」
ホワンホワンホワ~~ン
「千代莉さん、いくらアトソン君でもそんなことは……稀に言うこともあるね」
「あらあら、彼がそんな難しい歌を持ち出してくるわけないじゃない?」
「言われてみればその通りですわね」
さて、そんな何かやらかしてくれそうな期待と警戒の視線の中、アトソンくんが口を開きます。
「フィールドワークをしましょう!!」
「――ほぅ?」
意外な第一声にまでこさんが少し目を見開きます。
「談山神社、川原寺、橘寺、飛鳥寺、飛鳥坐(います)神社、山田寺跡――あとはもちろん春日大社や橿原神宮。万葉集に縁のある寺や神社を参拝するんです。多分全部一度は行ったことあると思うんすけど……お正月にいっぺんに行くってのはしたことないんじゃないかと思って! ゴージャスでしょ?」
フィールドワークは日頃の活動の中でも特にまでこさんが大切にしてきたことでした。
和歌に触れ、和歌を体感することで和歌を身近に感じる。それがまでこさんの万葉集との寄り添い方なのです。
「ふふふっ……確かに、したことはないね。そんなに一度に回れるかな?」
までこさんがおかしそうに笑うのを見て、今度はアトソンくんが目を丸くします。
普段は凛とした表情やすました微笑みしか見せたことのないまでこさんのレアな表情です。控えめに言って可愛すぎです。
これはもしかしてイケるんじゃ? という気持ちがムクムクと湧いてきます。
「それで具体的には、万葉縁の神社仏閣を巡ったり、初詣に行ったり、おみくじ引いたり――……」
「全部同じじゃないですの! 他にやることはないんですの!?」
「ちょっ、いいところで茶々入れんなって! ええっとだから、あの~」
ちよりさんの横槍にしどろもどろになりながら必死に頭の中の僅かばかりの知識を掻き集めます。その時アトソンくんの中にそれが天啓のように閃いたのです。
「ホラ、新年の歌であるじゃないっすか!
〈
おめでたい新年を体感して楽しんで、今年も良い年になるようにとお願いする――それが俺のフィールドワークなんすよ!」
「まぁ。万葉集最後の一首、大伴家持の新年を言祝ぐ歌ですわ。有名な歌ですけど……よく貴方がそれを知っていましたわね」
「ふっふっふ。俺だっていつまでも素人じゃあないんすよ!」
勝ち誇ったように胸を張るアトソンくんでしたが、本当は昨日勉強しようと万葉集の本を開いて、けれどあまりうまくいかずにパラパラめくっていった最後のページに載っていたのを偶然覚えていただけなのでした。
苦し紛れではあるものの上手い返しが出来たと内心浮かれるアトソンくんでしたが、その歌を聞いた途端、までこさんの目にこれまでにない光が宿りました。
「なるほど確かにフィールドワークとは体感してこそ。君の言い分はよく理解した。そこまで言うなら元日の朝、もしこの地に雪が積もるならば君と初詣巡りをしようじゃないか」
「……ん?」
「『おめでたい新春に降り積もる今日のこの雪のように、たくさんの良いことが重なりますように』――この歌を体感するとなれば雪は欠かせぬものであろうよ」
「い、いや、今のはその言葉のあやと言いますか、何もそこまでキッチリすることもないんじゃないかなーと」
「アトソン君。君は今の歌をただ言い繕うためだけに引き合いに出したのかな?」
「い、いやぁ……」
いつになく力の強いまなざしがアトソンくんをまっすぐに見つめます。その視線が自分を非難しているように感じられ、アトソンくんはたまらずに勢いよく立ち上がりました。
「わかりました! 一月一日に少しでも雪が積もってれば初詣デートしてくれるって事っすよね!? 絶対に雪を降らせてみせますよ! だから約束ですよ!? 俺ちょっと、雪降らせる方法調べてくるっす!!」
そう言って部室を後にするアトソンくん。
「あらあら、までこったら厳しいのね。阿藤君との初詣デートがそんなに嫌だったのかしら?」
「そういう訳ではないよ。そう、ただ……――この歌には、少しばかり思い入れがあるものでね……」
◇
今は昔の、年初め。
少女は病院の母の元へと駆けつける。
飛び込んだ病室で体を起こしていた母は、別れた時よりいくらか血色のよい顔で少女を出迎えた。
「明けましておめでとうございます、お母さん」
「明けましておめでとう、葉子」
「お父さんからお手紙がとどいていたの」
「ありがとう。一緒に読もっか」
赤と青の縁取りの封筒を開けば、綴られたるは母と少女を気遣う言葉と、和歌が一首。
〈新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事〉
「なんて書いてあるの?」
尋ねる少女の頬を少しひんやりとして柔らかな手で撫でた母が、温かな笑みを目尻に浮かべる。
「それはね――……『おめでたい新春に降り積もる今日のこの雪のように、たくさんの良いことが重なりますように。葉子にたくさんの良いことが訪れますように』って書いてあるのよ」
「雪のように?」
「そうよ、新年に降る雪はとてもおめでたいものだと言われているの。お祖母さんちの方はすごい雪だったでしょう? きっと葉子にもすっごくすっごく良いことがたくさん起きるわ」
そうして少女は気がついた。
雪はひらひらと花弁のように舞い落ちて、少女に小さな幸福を降り注いでいたのだと。
雪が静かなのにうるさく思えたのは、少女のことを応援していたのだと。
父も、母も、祖父母も、みんな少女の幸せを思っていてくれたのだ。
「あのね、もう、良いことがあったよ」
「あら、なあに?」
だから少女は母に寄り添い、そっと耳打ちをした。
「……怖いものが、ひとつなくなったの」
◇
20xx/12/25 19:04
差出人:阿藤尊
本文:約束ですよ!初詣デートしてくださいよ!
20xx/12/25 19:10
差出人:万里野葉子
本文:逢引ではなく部活動のはずだね
20xx/12/25 19:11
差出人:阿藤尊
本文:二人っきりなんだから部活デートなんです!普段も二人っきりだけど今回は私服デートなんです!
◇
20xx/12/30 13:24
差出人:阿藤尊
本文:雪ってどうやったら降るんでしょうね!?テルテルボーズにお願いしました!
20xx/12/30 14:01
差出人:万里野葉子
本文:照る照る坊主では晴れてしまうのじゃないかな。
20xx/12/30 14:01
差出人:阿藤尊
本文:水で凍らせて家の表に逆さ吊りしました!これで絶対に雪降りますよ!!
20xx/12/30 14:28
差出人:万里野葉子
本文:首チョンパか逆さ氷漬けか二つに一つとは、ただならぬ仕打ちだね。
◇
20xx/12/31 23:50
差出人:阿藤尊
本文:起きてますか?電話大丈夫ですか?
行く年を送る鐘の音がどこからともなく耳に届く窓辺から目を離すと、いつの間にか携帯端末にメールが届いていたようです。開いてみるとここ数日でおなじみとなった名前がそこにありました。
返信をすると、すぐさま着信が入ります。着信の主は言わずもがな、アトソンくんです。
「もしもし?」
『あっ、こんばんは! 今大丈夫でしたか?』
「うん。部屋の熱に当てられて少し涼みに出ていたところだよ」
『そうでしたか。…………へへ……降りましたね、雪』
アトソンくんの言うとおり、までこさんが見上げる空からはちらちらと雪が舞い落ちてきていたのでした。奈良では12月~1月にかけて雪が降る日は年に一度あるか無いかだというのに、夜も更けた頃から今の時間まで降りやむことはなく、ついに新年を迎えようとしています。
「本当に、君の執念には負けたよ。約束どおり共に初詣巡りに行こうか」
『うぉぉぉ、よっしゃぁぁぁ……ッ!』
電話口の向こうから声を抑えつつも押さえきれない喜びの気合が伝わってきます。
「やれやれ、そんなに楽しみにしていたのかね?」
『それもありますけど――あっ待ってください、間もなく新年ですよ』
自分の部屋に飾ってある時計を見やれば、もう十数秒で年が明けるところです。
二人はしばしの間声を潜め、その瞬間を待ちました。
居間から漏れ出すテレビの音からワッと歓声があがり、俄かに活気づきます。
「新年明けましておめでとうございます」
『明けましておめでとうございます、ヨーコさん』
と、電話口のアトソンくんが再び嬉しそうにへへっと笑います。
『電話出てもらえて良かったっす。ヨーコさんに一番に挨拶したかったし、ヨーコさんの一番になりたかったんすよ。どっちも叶って新年早々良いこと尽くめっすね、あっははは』
「おや、欲張りなことだね。ならば今の君の状況はまさにあの歌の通りというわけだね」
『あ。でも俺、この歌見た時、なんかヨーコさんの顔が浮かんだんですよ。良いことがヨーコさんの上にいっぱい降り積もればいいなーって。それでこの歌を覚えてられたんすよね』
〈新しき 年の初めの 初春の 今日降る雪の いや重け吉事〉
新年に吉事を願うこの歌を、もしも大切な人に贈ったならば、それは――……
それは、相手を思いやる言葉。
そのありようを喜ばしいと言祝ぐ気持ち。
かつて新年に、同じような言葉を贈られ祝福されたことを思い出します。
それは冷たいけれどとても温かな優しい記憶で、までこさんが万葉和歌の世界を知るきっかけになった大切な思い出でした。
「やれやれ、今回ばかりは、完敗だね」
『え、何がっすか?』
「こちらの話さ。ともあれ、今年も賑やかな良い年になりそうだね」
『はい! 今年も末永くよろしくお願いします!』
◇
〈あらたしき としのはじめの はつはるの きょうふるゆきの いやしけよごと〉
『おめでたい新春に降り積もる今日のこの雪のように、
たくさんの良いことが積もり、幾重にも重なりますように。
この一年が貴方にとって良い年でありますように。』
◇おしまい◇
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