第一章『今日この日まで夢を見る』2

「…………イーシャ?」

「な、なんですかぁ?」

 草原を後にして進んだ先、青々と生い茂る森に入って少し進んだ途中。

 悠久を過ごしている古代樹が林立する開けた場所であるにも関わらず薄暗い道。清涼な森であるならば聞こえてくる川のせせらぎや小鳥のさえずりはそこには無く。

「わ、私も白兎キキも降りそうだなぁとしか言っていないですし……というかこんなに早く降ってくるとは思いもしませんし……。

 あぁでもまさか、ここまで天気が急変するものとは思ってもいなかったのですよ」

「いやいや、そんな開き直られても」

 額に手を当てて首を振る精霊の姿を見て、アルマは吐息と共に肩を落とした。

 土砂降りの雨。

 歩いてきた道は既に水溜まりに埋まり、木の葉に幾度も雨滴が打ち付けられて奏でられる音が、降雨の激しさを物語る。

 身を切るような冷たさはなく、うっすらと皮膚が汗ばむような雨。初夏の長く続く雨かと言えばそうではなく、まだ春の気候の突飛さが未だに残っている雨だ。

「それにしても久し振りの雨なのです」

「そうだね、丸二週間ぐらいぶり」

 バチバチバチと打ち付ける音にイーシャは目を閉じて聞き入る。

 降られる分には大いに迷惑だが聞く分には心地よいのです、とはつい先日の雨が降った日のイーシャによるところである。

「今日まで非常に良い天気が続いていたのですが……季節の変わり目というのはとっても不安定なのです。おかげでちっとも、大気の変動が分からないのですよ」

「二週間前は雨、晴れ、雨、晴れの繰り返しだったからね。丁度目の前に森があるときに雨が降ってきたからよかったものの、あの時は大変だった」

「そうですねぇ。青空が広がっていると思ったら、数分ぐらい目を離している間に空が灰一色——なんてこともありましたね。びしょ濡れになって帰ったのもまだ記憶に新しいのです」

 その日はちょうど遠出をした日。平原を端から端へと横断する道なかばで、突然陽の光が陰り、湿った空気と共に雨が降り始めたのだった。

 たまには雨が降る日もあっては良いと思うが、もうすこし予兆というものをはっきりとさせてほしいところではある。

「嫌だなって思う?」

「雨のことなのです?」

「うん」

「私は嫌いじゃないのですよ。雨が降れば風は地面に降りて休むことはできるのですから。あとは、あの方が気まぐれだから、天気の荒れるときは急に虫の居所が悪くなったのではないか、面倒くさいなぁ、と思うぐらいなのですよ」

「風が休むって面白い表現だね。たしかにせわしなく動き回る風は、風の精霊さんとは違って大変そうだもんねぇ」

「アルマ、髪、引きちぎっても良いですか?」

 ギュッと、アルマの髪の毛の数本を束ねて握りこみ、今にも抜かんと少しだけ強く力を入れたり抜いたりする。そのたびに頭皮が引っ張られる嫌な感覚がアルマを襲って。

「ああー、冗談だよ冗談。イーシャもずっと風を読んだり風を起こしたりして僕を助けてくれるもんね。超大変だよ、えらいえらい」

 いじわるな人は禿げやすいんですから気を付けてくださいね、とイーシャは呟いて髪の毛から手を離す。アルマはそれに安堵の息を漏らすと、もう一つ気になったことを口にした。

「ああ、ところで。あの方、って誰のこと?」

 アルマがそう言うと「あなたが良く知っている人なのですよ」とだけ。

「えっ、それだけ? 僕のことを一方的に知られているというのは、なんていうtかこそばゆいものだねぇ。その人も精霊だったりするのかな?」

「いいえ、精霊ではありませんね。本人は全くこういう考えを持っているというわけではないのですが、私のような風の系列の精霊にとっては親分みたいな存在ではありますね。全精霊のことを束ねる役目を担ってはいますが、今までに命令されたりということはないのです」

 束ねると言っても、今までこれと言った注意を受けてはいないので自由にさせてもらってるのですよ、とイーシャは弾んだ声で言う。

 私とは顔見知りですし、とも。

「ふむ? 僕とイーシャが出会ってからそんな人に会ったことあったっけ」

 古代樹の幹に背中を預け、灰色の空を見上げながら呟くアルマ。

 その顔を上から覗き込みながらイーシャが言う。

「私がアルマと出会う前に、一度だけ会ったことがるのですよ。いつも暇をしている方なので、アルマならすぐに会いに行けるのですよ」

「おお、じゃあそこってどこにあるのか」

「常に落雷と竜巻の発生している場所にいるのです。びりびりごうごうです」

「……え」

 アルマの表情が固まった。豆鉄砲でも喰らったかのように目を開き口の端を引きつらせる。それに気が付くことなくイーシャは続ける。

「その場所は人類未到達の場所なのですよ。人が踏み込むには命がいくつあっても足りない。あの方に召集されでもしたら否が応にも赴かなければいけないのですが、私たち精霊にとっても出来れば行きたくないのです」

「……いつでも会いに行けるって言葉が信じられなくなった」

「ですから、大丈夫ですよ。なんたってアルマには私がいるのですから!」

 パチン、と黒髪を両手で押し付ける様にして叩き、

「私が落雷を捻じ曲げて、竜巻を対消滅させるのですよ。そうすれば、命の二つや三つでなんとかなるのですよー。私は風の精霊なのですから!」

 えっへん、と鼻息荒くイーシャが胸を張る。

「なので、魔物だけはアルマにどうにかしてもらうということで」

「魔物がいるのは当たり前か……まぁ、すごく楽しみだということにしておこう」

「ええ。いつか行ける様になることを楽しみにしているのですよ」

 ひとしきりの会話。普段から話しているからか互いに話すことが尽き、ただひたすらに目の前を幾億の雨粒が落ちていくのをぼんやりと眺めていた。


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