第3話 俺だけど

「あの、もしもし? ばあちゃん? 俺だけど」


 電話の声は若い男性の声だった。少し声がかすれているようにも聞こえる。しかしミネは即座に確信した。その電話の相手が一体誰なのかを。


「あらま、正夫かい? どうした? 元気にやっとるかい?」

「うん、まあね。ところでばあちゃん……」

 ミネは一気に腰がしゃんとした、目が輝きだした、そしてたくさんの言葉があふれだした。


「そうかい、そうかい、生活にも困ってるだろう? 待っとれよ、すぐ行くからな。いえいえ、遠慮はいらんって、ばあちゃんあんたのためにたんまりお金貯めとったんやから。ええ、ええ、神社でな、あのよくお参りした楠木神社な、あそこはあまり人も来んしな、正夫も気を付けてくるんじゃよ」


 外ではセミの鳴き声がうるさく響く。

 暑い日差しは、ようやく高度を下げつつあるものの、いまだミネ宅の軒先をまぶしく照らしていた。ミネの目に入る景色全体が幾分まぶしく輝いたような気がするのは、きっと日差しのせいじゃない、ミネの気持ちのせいもある。急がねば、最愛の孫が待ってる、私のお金を待っている。ミネはいそいそとタンスへ向かった。通帳と印鑑を手に入れるためだ。




「そんじゃ父さんは今から明日の大豆の仕込みをするから、店番をよろしくな。田中さんが買いに来るって言ってたから、対応しとってね、おい聞いてるか?」

 そこまで聞いて、よし子ははっとした。

「え? ごめん何も聞いてなかった」

 よし子の父、辰夫はがっくりと肩を落とした。何か他の事を考えているといつもこうなんだよな、そう考えながら、その薄くなりかけた頭をもう一度ぽりぽりと掻いた。


 よし子の家は豆腐屋だった。

 世の中にはコンビニエンスストア、スーパーがたくさん浸透しつくしている中、よし子の家は豆腐一本、3代続く老舗だった。

 父の辰夫は思った。

 豆腐屋は決して派手じゃあない。きらりと儲かる職でもない。でも日本人の生活に脈々と流れる血液のように豆腐は今でも生きている。みそ汁の具は決まって豆腐とわかめ、夏は冷ややっこ、冬は湯豆腐。油で揚げれば油揚げ。豆腐に辰夫は誇りを持っていた。そんな豆腐屋も次第に減ってきている。ある人は言った、それは一時期あった大豆の高騰のせいだよと。またある人は言った、減ったのは時代のせいじゃない、味が落ちただけだ、って。

 そうなんだろうか、どちらにせよ娘のよし子は真面目で正義感が強いお蔭で、大学生となった今でも真剣にこの豆腐屋を手伝ってくれている。本当に助かる、良い娘を持ったものだ。


 しかしちょっと真面目すぎる。

 一時他の事を考えると、もうそれしか考えられない、もう少しだけ頭を柔らかくしてもらえんだろうか、そんなことを考えながら再び最初から話し始めるのだった。


「だからね、今から明日の大豆の仕込みを……」

「お父さんごめん、やっぱり私ちょっと行ってくるわ」

 その了解を得る前にもうよし子は走り出していた。

「おい、行くってどこに? 店番は誰がするんだ?」

「すぐ戻る!」


 その声はまるで救急車のサイレンのドップラー現象のように遠ざかっていき、

すでにもう辰夫の手の届かない場所へ消えて行っていた。一人ぽつんと立ち尽くす辰夫のそばには、昼下がりのじめっとした熱気と、セミの鳴き声だけが残された。


……何かいやな予感がする、あのばあちゃんの表情、きっと何かが起こる……


 よし子は全速力で走った。とは言っても、目線はまっすぐ、腰も落とさない、どちらかといえばピッチ走法が得意なよし子は元陸上選手だった。そんなよし子にとって、ミネばあちゃんの家までは5分もあれば十分だった。



「ばあちゃん!」

 急いで引き戸を開けると、よし子は居間へ駆けつけた。いない、どこ? トイレ? あたりをきょろきょろと見回すよし子に絶望的な景色が飛び込んできた。


「やっぱり」


 タンスの引き出しが開きっぱなしだった。

 中を見る、ない、通帳と印鑑、そしてミネ。黒電話をみる、あれ、この電話故障してたはずなのに、もう直ってたんだ、この電話がミネばあちゃんを……? 

 まだ間に合うかもしれない、飛び出そうとしながらも、一旦よし子考えた。


——ちょっと待って、どこへ? ばあちゃんが行くとしたら……。


 一縷の望みをかけて、よし子はダイニングへ向かった。いつも外出する際、ばあちゃんはメモを残していた。今回も書いていてくれるだろうか。急いでいればそんな事忘れているかもしれない。ダイニングテーブルにたどり着いた時、よし子の目には、テーブルの上に置かれた一枚の紙きれが目に入った。


 正夫に会いに神社に行ってきます。


 今よし子は確信した。

 ミネばあちゃんはオレオレ詐欺に遭った。そしてお金をおろし、犯人の元へ向かっている。神社だ、今ならまだ間に合うかもしれない。気づけばよし子の目は血走っていた。許さない、絶対に!


 よし子は玄関の引き戸を全力で開けると、神社に向かって走り出した。すでに心拍数がかなり上昇していたよし子にとって、ウォーミングアップは必要なかった。

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