大樹の許に(平成三十年八月四日)
大樹の許に集う人々がいた。彼らの足元には、かつてこの世界を支配していた者どもの記憶が眠っているという。しかし掘り返そうとすると、その記憶はたちまち空中に溶けて、まったく消え失せるらしい。集団の中で、どこか申し訳なさそうに顔をのぞかせている次郎丸が教えてくれた(ちなみにこの次郎丸というのは、皆が想像するような愛玩動物、すなわち犬のような動物ではない。では何かと問われても、こちらとしては答えかねる。どうしても知りたいのならば、いますぐこの集団の中にこっそり入って、その正体を確認せよ――もっとも、誰かに一人でも見つかってしまったらおしまいなのだが――)。/いま、こちらもまた集団の中にいる少女が、何かをいとおしそうに手で抱えていた。おそらく小鳥か何かだと思われるが、その正体はいまいちはっきりしない。むろん色さえも。これは推測であるが、黄色い光っぽい色のような気がしている。あの空で眩しいほど輝く何かのように。/「樹の枝をくまなく見ていくと、どこかに忘れていったものが眼の前に蘇ってくるような錯覚をしてしまう」と、集団のうちの誰かが言った。もしそれが本当だとして、はたして彼は何を忘れていたというのだろう。いま彼が潜んでいる集団の中にはなかったというのだろうか。誰にもわからない。/水のように流れていく時間の中で、時間を忘れて海のように踊る男女がいた。彼らは集団の中には含まれていない。もし彼らが集団の一員だとしたら、もといた人たちは流されてしまうだろう。そんなことはほとんどありえない。なぜなら彼らは集団から離れることによって、彼ら独自の時間を創り上げているに相違ないから。/集団のうちの誰かの頭の上には、大きな花が咲いていた。いったいどうやってここまで育て上げたのだろう。きっと自分で種を蒔き、みずから発芽させ、そこから長い時間をかけてここまで立派なものを築き上げたにちがいない。一昼夜ではなし得ない作業である。誰もやっていないようなことで見知らぬ人に笑われても、彼にとっては些細なことだったのだろう。よく頑張った。集団の遠くから、わたしは彼にそういってあげたい。彼のところまで声が届くかどうかはわからないが。/その人たちは皆、何かしら自分にとって重要なものを抱えているようだった。だからこそ、この壮大な樹のもとに集まることができたのだろう。じつに感慨深い。海のような濁流にのまれた人たちもまた、そこで幸せそうに暮らしているといいのだけれど。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます