第23話 トレインジャック<2>

「ぃよし、これで!」


 振り返ったニンジャの鼻先を、鋼鉄に覆われた指がかすめる。

 視界を失ったスモウヤクザは暴れ牡牛のように両腕を振り回している。鉄のハンマーに匹敵する破壊力が無秩序に振り回されていた。

 窓を登っていたマイルズが、声を殺して合図している。

『こんなの相手していられるか! さっさと逃げるぞ!』と。


「それならそう言ってくださいよ!!!」


 叫び声に向かってスモウヤクザの両手が突っ込んできた。避けたニンジャのかわりに、壁が濡れ紙でも剥がすかのようにグシャリと握りつぶされる。

 マイルズに助けられながら、ニンジャは這う這うの体で屋根に逃げた。

 屋根は相変わらず、粘性さえ帯びるような暴風が吹き荒れている。

 マイルズは足元を見てうんざりとこぼす。


「手負いの獣は危ないって本当だな。ありゃ熊だ」

「熊に力負けしなさそうですよ。和ノ国って怖い」

「とにかく先を急ごう。正気付く前に離れたい」


 ニンジャを促して先を急ぐ。

 車両の接続に差し掛かって、屋根にしゃがんだマイルズは瞠目した。

 足首がつかまれた。

 デッキから女性らしい細腕が伸びていて、マイルズの足を絞めつけている。


――魔術!


 今度は魔力の気配があった。悲鳴のような思考が次の行動をはじき出す前に、腕はマイルズを屋根から引きずり下ろした。

 ぐるりと体が回り、デッキの床に背中を打ち付ける。床と言っても鉄板だ。肺の空気が押し出され呼吸が止まる。

 マイルズを組み敷く女性の髪がすだれのように周囲に垂れた。マイルズの視界を覆い隠す。

 唯一視界に映る女性の顔は、蛇のように笑っている。

 打ちつけた痛みが引くとともに、マイルズは自分の体勢に気づかされた。

 喉が重たく絞まる。

 首に両手をかけられて、押し込まれている。


「ぐ、うう……!」


 後頭部が風に洗われる。うなじをくすぐる悪寒で背中が汗ばんだ。

 首を絞められているのではなかった。

 デッキから押し出されている。マイルズを落としてき潰そうとしているのだ。


 気道を塞ぐ異物感に、苦い吐き気がこみあげる。マイルズは歯噛みした。

 抵抗しようと力をこめるほど首が絞まり、酸素不足で力が入らなくなる。手から逃れようと体を反れば、それだけ地獄のヤスリに自ら近づく。完全に首元のマウントを取られ、手も足も彼女に届かない。

 詰みだ。

 本来ならば。

 声なき声でニンジャを呼ぶ。彼が後ろから襲えばそれで解決だ。カーブに差し掛かり、翻る風が彼女の髪をわずかに開けた。

 屋根が欠けている。


「なんてこった……!」


 スモウヤクザが、閃光の衝撃から回復したようだった。引きちぎるように列車の屋根が破壊されている。

 耳鳴りに遮られて外界の音が入らない。

 再び女性の髪に視界が閉ざされる。マイルズの背中はずるずると滑り、鉄板の縁が背骨を削っていく。

 肩甲骨まで宙に浮いていた。

 上ってきた血に歯噛みする。抵抗できない。

 女性は敵の死にざまを見逃すまいと、嗜虐的な笑顔で唇を舐める。

 マイルズは乾いた唇を震わせ、声を絞り出した。


「獲物の前で……」


 声がかすれる。

 しかし、至近距離で顔を突き合わせる二人には十分だ。

 怪訝そうな女性を、笑う。


「獲物の前で舌なめずりをするのは、決まって三流の側だぜ」


 驚きに開かれた目に、怒りの色が差した。腕に力がこもる。

 マイルズは大きく背中を反り上げた。

 上着が滑って風にはためく。

 マイルズと、彼を押さえ込む女性がデッキの端から転がり落ちた。

 アッという短い悲鳴は、すぐに怖気おぞけを誘うにぶい揺れに飲み込まれていく。


「ぐお、っぶねぇ!!」


 車輪の吹き返しが頭皮を撫でる。

 マイルズはデッキの端に足をかけた逆立ち状態から、腹筋で飛び上がるように起き上がる。鉄板をつかんだ腕力で、慌ただしく鉄板の上によじ登った。

 デッキに座り込んで鉄柵を握るマイルズは振り返る。ごうごうと流れる枕木。駆け抜けるレール。

 マイルズはようやく息をついた。


 かすかな銃声が頭上を駆け抜けていく。強風に巻かれてひどく遠くに聞こえた。


「いつまでも足止めされちゃ敵わない。ルーシーにたどりつくまで、まだまだ遠いんだ」


 マイルズは幸運にもデッキの端に落ちていた武器を拾う。鉄柵に足をかけて屋根に上った。


 夕暮れの残滓が稜線の淵に残る空の下。

 ひとつ前の車両の端で、ニンジャとスモウヤクザが対峙していた。

 先頭車両を背に振り返るニンジャが、苦しげな顔で腰だめに銃を構えている。

 マイルズに背を向けるスモウヤクザの、前かがみに指先で地面をさわるような構えは獰猛な熊そのものだ。肩越しにマイルズを振り返ったスモウヤクザは、にやりとほくそ笑んでニンジャに向き直る。


「ずいぶん余裕だな」


 怪訝に思ったのは一瞬のこと。銃を向けようとしたときにはスモウヤクザの笑みの理由に気づかされた。


「やられた。撃てない……!」


 列車は一直線。不安定に揺れる屋根の上で、敵の向こうには味方がいる。

 この状況で撃てば流れ弾が仲間に当たる恐れがあった。

 位置関係は最悪だった。

 敵を挟んでいるのではない。味方が分断されているのだ。

 苦渋の表情でニンジャは叫ぶ。


「撃ってください! 俺にかまわず!」

「できるかそんなこと!」


 マイルズは即座に叫び返した。


「死体が落ちたらどうやってチップを回収するんだ! ハッサ教授が命を懸けて預けてくれた情報だぞ!!」

「そんなことだろうと思いました!」


 泣き笑いをするニンジャ。良くも悪くも気合が入ったようで、銃を強く握りなおす。

 スモウヤクザは屋根を手で打ち、勢いをつけて駆けだした。

 まるで四肢を持った艦砲射撃だ。

 ひと蹴りごとに屋根を踏みつぶし、怒涛の如く肉薄する。

 ニンジャの顔が引きつり、悲鳴と銃声が一緒に噴き出る。


「うおぉおおぉわああぁ怖ッえぇえええ!?」


 パニックトリガー一歩手前の乱射にスモウヤクザは両手のガントレットで体をかばう。銃口が完全に見えているのか、すべて完全に防ぎきっているのが化け物じみているものの……突撃の足は止まった。止めた足をじりじりと踏み出す。

 伏せたマイルズにも流れ弾は当たらなかった。かろうじて距離を保っているニンジャが不意によろけてしゃがむ。

 カーブに差し掛かった。

 大きく揺れて、列車が傾く。


「今……だッ!」


 マイルズは揺られながら銃を抱えて引き金を絞った。

 一直線からわずかに傾いだ隙間。その距離を使って誤射を避けた。

 だが――

 カーブを抜けたスモウヤクザは、マイルズをあざけるように笑う。


「当たらなかったか……!」


 マイルズは屋根を殴りつける。

 もとより不安定な足場でのこと。銃身の振れ幅でニンジャを誤射しないよう散布範囲を狭く取ったために、肝心のスモウヤクザにさえ当てることができなかった。

 くそ、とマイルズは悔やむ。それこそニンジャに当たる覚悟で、スモウヤクザを捉えるべきだったか――?


「いや。仲間もろとも殺したんじゃ意味がない」


 まだなにも解決していないのだ。

 生き延びるためには、スモウヤクザをここで退けなければならない。ニンジャを犠牲にすることなく。


 ニンジャは顔をひきつらせて機銃を構えている。


「ぐ、く、くそぉ……!」


 じりじりと後じさりする彼のかかとが、車両の先端に迫りつつあった。

 接続部に飛び降りて身を隠す? いや、スモウヤクザが追いかける方が早い。相手はあの体格、あのタフネスだ。象を撃ち殺すようなもの。銃弾の一発や二発で仕留められるはずがない。

 ぐぐっとスモウヤクザの身体に力がこもる。

 ニンジャの泣き顔が歪む。

 マイルズは息を吸って、


 叫んだ。


「忍者跳びだ!」


 四股しこのごとき強烈無比な踏み込み。重たい一歩を鮮やかに連ね、距離を踏みつぶす――そのとき。


「こうなりゃヤケだぁああああ!」


 ニンジャは恐怖に引きつった顔で走り出した。スモウヤクザに向かって。

 腕を出すスモウヤクザに向かい、ニンジャは高々と跳ぶ。


 まるでハンマーのような重く太い腕を踏み台に、さらに高く跳び上がった。空中前転でスモウヤクザの頭を飛び越える。


「ぁああぁあああ!!」

「でかした!」


 その壮烈な跳躍に、マイルズは完璧に呼吸を合わせた。

 ニンジャの体が空中にある隙に、鋭く速射。腰骨と背骨、頭を的確に撃ち抜く。

 スモウヤクザの背中から力が抜けるや否や、マイルズは銃を投げ捨てた。

 大男が降ってくる。


「あああああ――うぐふっ!?」

「っだぁ! いってぇちくしょう!!」


 高速で走る列車の屋根に弾む大男を、マイルズは抑えようとして押し倒される。転がった体は二人がかりで両手両足を突っ張って耐えた。勢いに背中が滑る。

 がたがたと揺れる列車の端で、二人は慣性の運動法則と必死に戦う。

 マイルズの左手が屋根から落ちて……そこで刹那の攻防は終わった。

 二人は起き上がることもできない。屋根に大の字で重なったまま、山頂の陰がかかる空を見上げている。


「……心臓が、心臓がやばいです。もしかして、これが恋……?」

「チップ返せ。そうしたらもう落ちていいぞ」

「渡しません! 絶対に渡しませんよ!?」


 ひとしきり笑い、上がった呼吸を整えたところでマイルズは起き上がる。

 勝利に拳を突き合わせた。


 そして顔をあげて、見た。

 笑顔が吹き飛ぶ。目を剥いた。


「まずい……っ!」

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