アッカド基地最後の日/前編

――アッカド基地が半壊してから、既に五日が過ぎた。

 負傷した隊員の復帰や防衛機能の回復は僅かで、もし二度目の魔物襲来が来たら耐えられないくらい脆弱だという。

 しかし、アッカド基地の雰囲気は決して暗いものではなかった。

 どうやらソフィア姫の権力は、俺の想像以上に確かなものだったらしい。

 南方の領主達によるアッカド基地の支援決定や、アポクリュフォンの森に居た魔物達の減少、そして今までアッカド基地で戦ってきた兵士達の功績の見直し等、不遇だった環境の改善が大幅に進められている。


【……あと二日で五十名を超える正式な救援部隊も到着すると聞く。その者達と入れ替わるように我らはアッカドを離れることになるだろうな。ゆえに、この警邏も明日で最後と言うわけだ】


 そう呟く杖になった神様を肩に担ぎながら、俺は黙々と森の中を散策していた。

 五日前と同じ過失を生まない為のパトロールである。

 とはいえ連日、警戒する範囲内で魔物の姿を発見することは一度もない。

 ……その代わり、という訳でも無いだろうが。


「――おお。ココに居られましたか、クロー様」


 森を抜けた平原から、ボコボコに歪んだ鎧を纏った兵士がコチラに近付いてくる。

 ……良かった、見覚えのある顔だ。これなら名前も言える。


「どうかしましたか、エシュフさん」

「姫殿下が会議室でお待ちです。見つけ次第、早急にお連れせよと承っていました」

「そうですか。伝言ありがとうございます。このまま向かいますから、別に仕事があるなら其方を優先してください」

「了解しました。では私は復旧作業に戻ります。どうか、お気を付けて」


 一礼して去って行ったエシュフさんを見届けながら、俺も新たに出来た目的地へ向けて足を伸ばす。

 ……その途中、神様が興味深そうに話しかけてきた。


【先程の男、知り合いだったか?】

「一応は。この五日間で、アッカド基地に居る全員と会話しましたから。どうにか顔と名前が一致する程度には覚えました」

【ほう。アッカド基地の兵士達の名前を暗記したのか。他人に興味が無さそうだった貴様が随分と変わったな。やはり、イーシュと喧嘩した事が切っ掛けか?】

「……正直、自分でも良く分かりません。ただ、忘れたくないと思っただけです」

「ほう?」

「ここで俺の仕事は無くなったようですし、そうなれば別の場所で働くことになるでしょうから。それまでに覚えられる範囲で頑張ろうかと」


 自分で言っておきながら内心、俺自身も驚いている心境の変化ではある。

 これは多分、優先順位が産まれたのだろう。

 赤の他人より、アッカド基地にいる人達を率先して助けたいという願望だ。

 ……まぁ自分でも余計な感傷だと理解しているので、神様がそれは止めた方が良いというなら従うつもりである。

 しかし神様の声色は思いの外、優しく聞こえた。


【価値を見出せるモノに出会えたのなら、義務感で人を助けるより良いことだ。その気持ちは、この国で過ごす事となった貴様にとって大切なものとなるだろう】

「なるほど」


 納得したフリで肯定も否定も誤魔化して、俺は視界に捉えた目的地を見据える。

 ……もはや廃墟としか認識できないアッカド基地、その光景を焼き付けた。

 そして五分後。


「――どうも、クローです。呼ばれたので来ました」


 今にも崩れ落ちそうな扉をノックして、俺は返事を待たずに開ける。

 ガチャリと入った会議室の中は、既に六人の人間が長方形のテーブルを囲んでいた。


「あら。ちょうど良い時間で帰ってきたわね、クロー。これから手続きを始めようとしていたところなのよ。早く来なさい、貴方が座る場所はココね」


 上座に居るソフィア姫が、俺に目を向けながら右側に用意された空席を指さす。

 ……この部屋に存在する椅子は四つだ。

 ソフィア姫の左側はイーシュさんが座り、エレナさんはソフィア姫の背中を守るように横に控えていた。

 そして残りの一つにセレネ将軍が佇み、その後方は大きな男が陣取っていた。


「おはようございます、魔法師クロー。五日ぶりですね」


 セレネ将軍から親しそうに挨拶されて、俺は黙って会釈で返す。

 指定された椅子に座る直前、突き刺すような殺意を感じて振り返る。

 ……犯人は大男、カドモス副将軍だった。

 獰猛な笑みを浮かべる相手に、ペコリと挨拶を済ませて大人しく席に着く。

 それが開始のスイッチであったかのように、ソフィア姫が静かに口を開いた。


「……では今から、ティマイオス王国とクリティアス帝国の代表者による合同会議を始めます」


 そう宣言したソフィア姫の話をまとめると、今日の集会は二つの重要事項を決定する為のものだと言う事だ。

 一つは帝国が利用している新アッカド基地の委譲手続き。そしてもう一つは、帝国兵達の撤退予定の確認である。


「――さて。これが新アッカド基地の所有と委譲に関する契約書です。貴方が受け取れば我が隊は速やかに南方領土から撤収する事が義務づけられています」


 そう言ってセレネ将軍は、傷だらけのテーブルの上に純白の用紙を差し出した。

 壁が崩れ、窓からすきま風が入り込むほど傷んだ室内の中、それは一種の洗煉された装飾のような美しさを感じる。

 まぁ実際、欲する者からすれば目が眩むほどの価値ある物に違いない。何しろ、あの設備の整った基地が無条件に近い形で手に入るのだから。

 対面に座っていたソフィア姫の雪のような指も、丁寧な動作でソレに触れていく。


「……驚いたわ。まさか堂々と委譲許可証なんて記述するとはね。領土と材料、費用も全て王国の民が負担している建物なのに」


 などと不満を隠さないまま紙にザッと目を通すと、椅子の後ろに控えていたエレナさんにスッと手渡した。


「……まぁ。それでも客観的に見れば、貴方達の存在が南方の治安維持に役立っていた事は真実なのでしょう。えぇ、感謝しても良い。そちらが望むなら、帝国への手土産に多少の金貨を与える用意はあるわよ?」


 わりと気前の良い台詞を投げつけながら、ソフィア姫は備えられていたティーカップに口を付ける。

だがセレネ将軍は大した興味も示さず首を横に振った。


「自分たちの求めた成果は既に果たされました。余計な報酬など得ては、天秤が傾いてしまう。貴方に預けたペンダントを返却して頂けたら、すぐにでも帰国するつもりです」

「あら、五日も催促されないから忘れていたのかと思っていたわ」

「こちらが先に権利書を与えるまで、素直に出すとは期待していなかっただけですよ。けれど自分たちは既に手渡した。ゆえに速やかに我が家紋を返却して頂きたい」


 ……一見、穏やかな会話だが目に見えない火花が散っている気がする。

 そんな緊迫感を様子見しながら、俺はソフィア姫の隣でテーブルの上に盛られた果実の山を口にしたくてウズウズしていた。


「安心なさい。そう急かさずとも出し惜しむ気など無いわ。エレナ、ご所望の品を出して差し上げなさい」

「はい、ソフィア様」


 ソフィア姫の座る背後から、エレナさんが両手に木箱を添えて一歩前に出る。

 そのままセレネ将軍の前で箱の蓋を空けると、中身は絹に包まれた銀色のペンダントが収まっていた。


「ふむ、これは確かに我が家紋。では遠慮無く返して頂きましょうか」


 手の届く範囲まで側に来たエレナさんから箱に触れて、そのままペンダントを手中にしたセレネ将軍は満足そうに笑うと、こう告げた。


「これで憂いはありません。契約通り、自分は本国へ帰還するとしましょう。分かっていますねカドモス、貴方も早く来なさい」

「へいへい了解ですよ」


 本当に、その言葉に偽りなど無いのだろう。

 セレネ将軍は俺達に向けて一礼した後、こちらの返事を待たずに席を立った。


「ふぅん、本当にあっさりとしたお別れなのね。意外だわ」

「手土産を早く本国に持ち帰りたいと言うだけの話です。では、これにて自分は失礼します。みなさま、ごきげんよう」


 そう言い残すとセレネ将軍はコチラを振り返る事なく、まっすぐドアへと手をかけて退室しようとする。

 ……せめて最後の挨拶でもした方が良いだろうか、と悩みながら彼女の後ろ姿を見た瞬間、意識が弾ける。

 ――セレネ将軍の後を追う大男が、背中に帯刀していた剣の柄に指をかけていた。

 あっという間に抜き身の刃が煌めき、目にも留まらぬ速さで獲物に向かう。

 気付いた時には、俺は杖を突き出しながら席を立っていた。

 ガキィン、と。金属と金属がぶつかり合う。


「ほう、良く止めたな?」

「貴方が本気じゃなくて助かりました」

「それが理解できてりゃ上等だ。殺意を漏らして予告した甲斐があったぜ」


 ……カドモスは爛々と目を輝かせ、口元を三日月のように歪ませて喜んだ。

 その視線の先は、エレナさんの首筋にまで迫った大剣の切っ先と、これを防ぐ杖となった神様がいる。

 先程も言ったが、これは相手が本気じゃなかったからこそ得られた結果である。

 しかし、それでも俺が邪魔しなければエレナさんの命は無かっただろう。

 攻撃を受けた本人も、それを肌で感じた違いない。


「こ、これは一体、何の真似ですか、カドモス副将軍ッ」


 大きな声の抗議と同時、エレナさんは空き箱を捨てて自分の武器を手にすると戦闘態勢に入った。


「姫様に確認を取るまでもありません、今のは完全な敵対行動です。このまま貴方を排除しますッ」

「おう。そのつもりでやったんだから、遠慮はいらねぇよ。かかってきな」


 途端に張り詰めた緊張感が室内を満たす。

 しかしその空気は、セレネ将軍の一撃によって粉砕された。 


「カドモス、誰が余計な手間を増やせと命じましたか?」


 ザクン、と想定外の方向から肉を断つ音が響く。 

 それは文字通りの一刀両断だった。 

 セレネ将軍の振り下ろした刃によって、カドモスの左腕が切り離される。


「え?」


 ブシャリ、と舞い散る血飛沫が頬に掛かる。

 余りにも意味不明な光景過ぎて、思考と身体が固まってしまった。

 セレネ将軍が、仲間である筈のカドモスを攻撃している。

 その不可解な事実の前に、命を狙われたエレナさんや冷静に状況を見守っていたソフィア姫でさえ困惑を隠せずに居た。

 平然としているのは、攻撃した人とそれを受けた者だけである。


「いやはや、こりゃ随分と手痛い叱責ですぜ、セレネ様。おかげで相手の戦意が消失しかけちまってる」

「……首を跳ねなかっただけマシと知りなさい。自分は素直に撤退する予定でした。お前に計画を狂わされて、少し苛立っています」

「はん、俺様はあんたほど我慢強くねぇからな。まともに戦える最後のチャンスだ、派手に殺し合っておきてぇのさ」


 あまりにも物騒な発言だったが、それに対してのお咎めは発動しなかった。

 カドモスは右手に持った剣を床に突き刺すと、落ち着いた様子で自分の左腕を拾い上げて切り裂かれた傷口へと押し当てる。


「万物の喪失は宿命なれば、再生もまた摂理なり、慈悲を求めるのならば捧げよ、対価と共に与えよう。……『代償の癒やし』ってな」


 カドモスが放った詠唱の効果によって、切り離された腕は完全に結合した。

 敵対者に大きな猶予を与えた事になるが、悔しさよりも未だ困惑の方が大きい。


「……結局。今の暴挙は貴方の部下の独断という事で良いのかしら、セレネ将軍?」


 厳しい視線で俺達の気持ちを代弁するソフィア姫に対し、セレネ将軍は不愉快そうに首を横に振った。


「いいえ。勝手な行動を起こす者など、もはや部下ではありません。断罪を済ませ自分の気は晴れましたので、そちらで処分しても構いません。どうぞ、好きになさってください」

「は?」

「たった今、カドモスという男は自分の指揮から外れ、除隊しました。ここに居るのは剣を振り回すただの危険人物です。早々に排除した方が良いと提案します」


 アッサリとした発言に室内の空気は凍る。

 仮にも副将軍なら帝国でも重要な人材である筈だ。なのに、セレネ将軍はゴミを捨てるみたいに未練無く切り捨てようとしている。



「……待ちなさい。貴方、自分の配下を庇う気が無いの?」

「えぇそうですよ当然です。しかしむしろ、そこに居る男は喜んでいる筈です。違いますか、カドモス」

「仰る通り、ありがてぇ。つまり俺様は自由の身って訳ですかい」

「はい。お前に庇護も責任も持ちません。まぁ看取るくらいはしてあげますので、さっさと死んでください」


 あまりにも異常な人間関係だった。

 これから訪れる人間の破滅を、当事者同士が笑い合って語っている。

 以前、ソフィア姫が帝国の人達を戦闘民族と厳しい表情で言っていた事を思い出す。

 なるほど、あまりにも命への尊重が無い。同じ軍人でもイーシュさんとは大違いだ。これならば嫌悪するの仕方ない気がする。

 ――だが、だからこそ今の状況には強烈な違和感が伴う。


「その男を見捨てるというのなら、どうして腕では無く首を刎ねなかったの? 其方の方がお互いに面倒が無かったというのに」


 俺が抱いた事と同じ疑問をソフィア姫が口にする。

 それに対し、セレネ将軍はまったく予想外と言わんばかりに首を傾げる。


「おや。自分なりの親切心だったのですが余計でしたか? 敵の手加減で無防備にも首を危険に晒したという汚名の返上、その機会を奪うのは野暮だと思っていたのですが」


「なによそれ。つまり貴方は、私達に副将軍の生殺与奪の権利を譲ったと言いたいわけ?」

「えぇ、もちろん。ですが感謝を要求するほど恩着せがましいことは言いません。ただ見届けて頂きたい、これから披露される貴方達の手腕を堪能させてください。まぁ自分としても本国に帰りたい気持ちは変わりませんから、手早く済ませて貰いたいですね」


 もはや完全無欠の他人事、野次馬と成り下がるという宣言である。

 想像の斜め上を行く解答に、ソフィア姫も困惑の顔を隠せない。

 ソレは俺達も同様だ。セレネ将軍を除けば、その言葉を動揺せずに受け止めているのはカドモスだけだった。


「……という訳だ、さぁ続きをしようか。誰が相手をしてくれる?」


 などと言いつつギロリと物色するような視線を向けられるが、すぐに逸れた。狙いがある訳ではなく、戦えれば誰でも良いという事らしい。

 その節操の無さに少し呆れていると、エレナさんがカドモスの視界を遮るようにスッと前に立ち塞がる。


「不意打ちで首筋を狙われて黙っていられるほど私は穏健ではありません。汚名返上というならば、私こそが相応しい。受けた恥辱は自らの手で雪がせて頂きます」

「おう、まぁ妥当だな。一番最初は最も弱い奴からっていうのはよ」


再び剣を握り締め、カドモスはエレナさんに向かって大振りに剣を振ってくる。

しかし今度は油断など無い。エレナさんは最低限の回避動作で攻撃を躱し、仕返しとばかりに勢い良くレイピアを振りかざす。


「上司に恵まれない境遇は同情しますが、二度も命を狙われた以上は容赦はしません。なにより私を甘く見積もった愚かさは、早急に糾さなければ」

「はん、初めから遠慮はいらねぇと言っただろうがッ」

「では気兼ねなく、そうさせて頂きます」


 宣言通り、エレナさんは迷わずカドモスの心臓へ向けてレイピアを突き刺した。

 人の急所である以上、当たれば一撃必殺だ。しかし相手は鎧で身体を覆っている。

 それでもあえて狙う以上、エレナさんには何か秘策があるのか。

 ――だが、それが解明されることは無かった。

 何故なら突進するレイピアに、カドモスは左腕を犠牲にして防いだからである。


「今の一撃、どうにも嫌な予感がして咄嗟に邪魔してみたが、この様子じゃ我ながら良い勘してたようだな」


 得意気な顔をするカドモスだが、その左腕は鋼鉄の鎧が覆っているにも関わらずボタボタと血が滴り落ちている。

 原因など言うまでもない。ズブリと突き刺した剣先は、なんと分厚い肉の盾を貫通して胸元の前で止まっているのだ。


「魔剣だろ、それ。俺様の武器に比べりゃ格が落ちるが、真正面で受けてりゃ鎧ごと刺されて即死だったわけだ」

「……それでも完全に左腕を刺突しています。痛みは無いのですか」

「この程度で驚くなよ。俺様は腕ごと斬られても平気な男だぜ」


 カドモスは一切怯むことなく、足を前に出しエレナさんに近付く。

 同時にレイピアによって穿たれた傷口がゆっくりと広がっていくが、全く異に返さない笑顔を見せて、剣を振り下ろした。

 狙いはエレナさんの頭。まともに当たれば、スイカのように肉が弾けるだろう。

 ソレを防ごうにも、武器が相手に埋まったままでは身動きが取れる筈もない。

 まさに肉を切らせて骨を断つ。カドモスという男には粗雑な見た目とはかけ離れた合理的な戦闘技術があった。

 ――しかし。


「まったく野蛮ですね、付き合いきれません」


 そう言うとエレナさんは最大の攻撃手段たるレイピアを迷うこと無く手放し、 相手と距離を取る為、踵をバネにした後方移動を優先した。 

 直後、エレナさんの居た床が破裂するほどの剣撃が落ちる。

 バキィと砕かれた木片と共に、埃が煙幕のように沸き上がった。


「よくぞ武器を離したな、俺様の予想より勇敢だったか」

「なら、これは私を見くびった代償ですッ」


 そう声を張るとエレナさんは回避行動から一転、足場を蹴って跳躍した。

 天井に触れんばかりの飛翔は片足を持ち上げての攻撃準備にスライドしていく。

 狙いは攻撃を繰り出す為に背中を丸めたカドモスの頭部、心臓と並ぶ人体の弱点にエレナさんは躊躇うことなく強烈な蹴りをお見舞いする。

 それで勝負は決まったと思えた。

 通常ならば気絶するか、最低でも倒れ込むこと間違いなしの一撃だ。

 しかし、カドモスは僅かに揺れることさえなかった。


「褒めてやる。悪くねぇ一撃だ。まさか足の防具にまで魔法が掛かっているとはね。身体強化と一時的な飛翔能力か? さすがは一国の姫を守る騎士、装備が豪華だな」

「し、信じられません、鉄製のブーツに打ち勝つ石頭なんて初めてですッ」

「クク。今度はコッチの番だ。俺様を見くびった罰を受けな」


 余裕の表情を浮かべるカドモスは、頭部に触れていたエレナさんの足をガシッと掴むとそのまま振り回して放り投げる。


「きゃ」


 小鳥が驚いたようなエレナさんの高い悲鳴の後、ドッカンと人が壁に激突した衝撃が部屋に響き渡る。

 エレナさんが磔のような格好で壁に叩き付けられたのだ。


「手加減はしてやったぜ、この程度で倒れるなよ。いや、その服も魔法がかかっていれば無事なのは当然か?」

「くっ、言われるまでもありません」


 本来なら意識を失っても不思議じゃいほどの打撃だろう。

 しかしエレナさんは、身体をふらつかせながらも強気を崩さない。

 その様子を嬉しそうに笑うカドモスは、腕に刺さった凶器を引き抜くとエレナさんに向かって放り投げた。


「使えよ。それを使わんと俺様に傷さえ負わせられんぞ」

「……その油断、絶対に後悔させてみせます」


 情けをかけれた事に怒りを露わにさせながら、それでもエレナさんは血まみれの剣を拾って構え直す。

 その気力は凄いが、傍目から見ればエレナさんが不利なのは明らかだった。

 しかし、手は出さない。いや、正確には出せずにいる。


「……意外ですね。今の状態なら多勢で敵を倒せるというのに。何故、貴方達はそれを選択しないのでしょう」


 部屋の隅に背中を預けて高みの見物を決め込むソフィア将軍が、まるで挑発するように俺やソフィア姫、そしてイーシュさんに視線を向ける。

 最初に答えたのは憮然とした態度を見せるイーシュさんだった。


「今のところ、武人として一対一の勝負を継続していると判断した。エレナ殿が要請しない限り吾輩は手を出さない」

「ほう、ではクロー君は?」

「俺は人を助けたいのであって、人を殺したいわけではありませんから」

「へぇ、意外ですね。その言動、もしやカドモスを殺す気なのですか?」

「……俺にも優先順位が出来ました。最悪、エレナさんを助ける為ならそうします。けれど、まだ少し迷っている段階なので」


 勿論、嘘だ。殺すとは言わないまでも、エレナさんを助けるという意味では彼女と協力して倒すという選択肢は決して間違いではない。

 では何故倒さないのかという理由は幾つかあるが、その一つをソフィア姫が代弁してくた。


「私が介入しない理由は単純だわ。セレネ将軍、貴方が何を企んでいるのか分からない以上、この茶番に参加する気が無いからよ」

「心外です、この件に関しては自分も巻き込まれた被害者だ」

「だったら早く出て行って構わないわよ。あとは私達で処理するから」

「いえ、結末は見届けますよ。予想外の出来事は、分からない事に溢れているからこそ香味深く娯楽になりえる」

「……白々しいわね。なら、あの男の容態の変化についても無知を装うつもり?」


 苛立ちを隠さないソフィア姫の視線は、戦い続けているカドモスに向いている。

 近場にある備品を壊しながら剣を振り回す姿は、荒れ狂う大熊を連想させた。

 ……いや、実際にカドモスの身体は黒々とした体毛に覆われ始めていく。


「ハハハ、逃げるだけとはつまらねぇ。フハハ。立ち向かってみろよ、何の為に武器を返したと思っている。ククク、楽しませろ。出来ないのなら、こっちの番だハハハ」


 嘲笑いながら、肉食獣が獲物を捕らえるようにカドモスは右腕を振り下ろす。対抗するようにエレナさんは肉を削ぐ気で切り裂く。

 交差する金属音。

 しかしその応戦による損傷は、一方的なエレナさんの敗北に終わった。


「くぅぅッ」


 突風に煽られたと錯覚するほどエレナさんが吹き飛んだ。

 魔法による飛翔能力のおかげで倒れ込むような被害は無かったが、それでも床に膝を付けて荒い呼吸を繰り返している。


「……とんだ化け物ですね。詠唱無しで防具を超える肉体変化なんて。事前に用意していた魔法とも思えません。まさかクロー様と同様の、竜化の護身の失敗?」


 悔しそうに呟くエレナさんは対峙するカドモスを睨み付けた。

 鍔迫り合いで吹き飛ぶ前、エレナさんは確かにカドモスを切り付けた。しかし斬られた筈のカドモスの腕は、擦り傷のような残すのみだ。

 しかしその僅かな功績も、伸び続ける黒い体毛によって隠れてしまった。


「いいねぇ、クヒヒヒ。こりゃ大成功だ。これで俺様は、人間を超えた存在になったことが証明された訳だ。ガハハハ」

「人間を超えた存在? その猪みたいな体毛が生えた事が?」

「おいおい獣風情と同列にするなよ、間抜け。俺様は、神の力を取り入れたガヒャ、ヒヒヒヒヒ、偉大なるガハハハ武人ダァァァ」

「神の力? 待ちなさい、それは一体どういう意味ですか」


 戸惑うエレナさんの質問にカドモスは答えない。

 いや、応える器官を失ったのかも知れない。


「――――」


 悠然とした沈黙。しかして戦意は上昇しているのが音と容姿で理解できる。

 ……バキバキと骨が軋む響きとともに、カドモスの体格が徐々に巨大化していく。

 身を守る防具さえ弾き飛ばす肉の膨張はグロテスクにさえ感じた。


【クロー。あの男、人間から魔物に成り下がっているぞ】

 今まで杖に徹していた神様がそう呟く。

 ――その言葉の通り、もはやカドモスに人としての面影は見出せなかった。

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