夢を引き継ぐ者
「お祖父ちゃんのバカッ! 薄情者っ!」
俺の背後で、萌々が罵倒を飛ばす。
塾長は顔色ひとつ変えずに、
「ふん。私は十分に恩義を果たした。薄情者と言われる筋合いはない」
「へっ? 恩義?」
萌々は非難の眼差しを投げつける。
「この塾を立ち上げた時、亀吉氏に力を貸して頂いたからな。息子の小太郎君を入塾させてくれたり、近所の子供に声をかけてくれたりとな」
萌々は、のしのしと前に進み出て、
「そんなの関係ないよっ! コタローさんは家族同然でしょ!」
「家族同然というなら、なおさら厳しく行かねばなるまい。これ以上雇い続けることは、小太郎君の自立を妨げることになる」
と、塾長は涼しい顔で受け流す。
萌々は、塾長の机に両手をついて、
「自立できないから雇ってあげてるんでしょ! コタローさん、ホームレスになっちゃうよ!」
しかし塾長は、扇風機のように首を横に振るだけである。
俺は、可憐な姫騎士の肩をぽんと叩く。
「ありがとう、萌々ちゃん。その気持ちだけで胸がいっぱいだ。あとは俺に任せてくれ」
かくして俺は塾長の机の正面に立つ。
塾長は不機嫌そうに俺を見上げて、
「まだ何かあるのかね?」
「俺には一つだけ、納得できないことがあります」
「君が納得しようとしまいと、クビになるのは変わらんぞ」
塾長は傲然と言い放つ。
「いや、そのことじゃなくて、ですね」
「なんだね? もったいぶらず言い給え」
塾長は時計を気にする素振りをする。
時間はすでに夜の一〇時近い。
分かりました、とうなずいてから、俺は単刀直入に切り出した。
「昔、塾長は作家になりたかった」
その瞬間、塾長は人形のように固まった。
目だけが徐々に開いて行く。
「な、なぜそれを……」
ふっ。
よほど隠したかった過去のようだな。
俺は自分の顔を指差しながら、
「だから塾長にも分かるはずです。俺がどれだけ真剣に作家を目指しているか」
「し、しかし……」
塾長は俺から目をそらす。
俺は塾長にぐっと顔を近づけ、
「忘れちまったんですか? 当時の情熱を」
「……しかしだ。き、君が目指しているのは、エンターテイメントではないかね? エンターテイメントなど小説の名に値せぬ売文行為、と言っただろう……」
塾長は、目を左右に泳がせながら、うわ言のように言う。
だが、本心から言っているようには、俺にはとても見えない。
やはりな。
三〇年前の情熱は、今も塾長の心の奥底で滾っている。
ならば今、それを目覚めさせてやろうじゃないか。
「心にもないことを言わないでくださいよ、塾長。この夢の集大成が売文だとでも言うのですか?」
俺は脇に抱えた紙袋から、一冊のハードカバーの本を取り出した。
三〇年前、塾長と海山氏が共著で書いた短編集だ。
「魍魎たちの呼び声」というタイトルが表紙に記されている。
塾長は、皿のように目を見開いた。
椅子から腰を浮かせて、
「そ、それは……」
「三〇年前の塾長は、こんな売文行為に情熱を燃やしていたのですか?」
「……」
塾長は身じろぎ一つせず、口だけをパクパクと動かす。
「まさか、そんなはずはないですよね」
そうだ。
そんなことがあってたまるか。
俺はハードカバーを開いた。
ぱらぱらとページを繰って、「あとがき」にたどり着く。
そこに書かれた文章を、俺は無慈悲に読み上げる──
「……この原稿を書いていた時の私には今までにない充足感があった。執筆の楽しさを初めて知った、といってもよい。
小説とは本来、楽しむためのものではないか。ならばとことん楽しさを突き詰めてやろう。そう考えながら書き上げたのが本作品である。
正直に言うと、若い頃の私は純文学を尊び、エンターテイメント小説を軽んじていた。その傲慢さが私を夢から遠ざけていたのだろう。そのことにもう少し早く気づいていれば、と今は思うばかりである……」
俺が読み終えると、塾長は尻餅でも付くように、椅子の上にへなへなと腰を落とした。
☆
教室内に沈黙がのしかかる。
塾長は居心地悪そうにうなだれている。
まるで悪戯が見つかった子供のようだ。
俺は、本棚の上に飾られた古いモノクロ写真をちらっと見上げる。
「塾長は、親父さんの夢を受け継ごうとして、作家を目指したんですよね」
塾長は肩を落としたまま、
「ほう、知っていたのか。どうせ、文子あたりから聞いたのだろう……」
「はい。昔、文子から教わりました。文子も、同じ理由でエッセイストをやっているそうですよ」
二〇年以上前の高校時代、文子は確かにそう言っていた。
俺は、そんな志の高い女に告白した。
そしてあっさり断られたのだった。
塾長は、机の上で両手を組み合わせた。
それから乾いた声で訥々と語り始める。
「……君の言う通り、私の親父も夢を持っておった。立派な作家になりたいという夢をな。しかし当時は戦時中だった。親父は戦地へ送られ、そのまま帰らぬ人となった……」
「塾長の親父さんも、夢を断ち切られた多くの青年の一人だったんですね」
「そうだ。残された親父の日記や手紙には、文学への情熱がせつせつと綴られておった。だから私には、親父の夢を受け継ぐ義務があった。そして私は力を尽くしたが……」
そこまで言って塾長は言葉を詰まらせた。
俺の脳裏に、海山老人の言葉が蘇る。
海山老人によれば、塾長は二〇年もの間、作家を目指して真剣に頑張っていたという。
四〇歳になり、夢を断念した時の塾長の無念の大きさは、いかばかりか。
自堕落な人生を送ってきた俺には、想像もつかぬほどのものだろう。
でも、塾長の夢は、まだ終わったわけじゃない。
その夢を引き継ぐ者がここにいる。
そう、俺だ。
「塾長の夢は、俺が叶えてみせますよ」
俺は親指で自分の胸を指した。
塾長はここで「うん」と言うはずだ。
俺はそう思っていた。
だが塾長は言わなかった。
何やら、迷った表情をしている。
なぜだ?
まだ何か、葛藤でも抱えているのか?
俺に足りないものがあるのか?
と、その時。
塾長は、わずかに首を持ち上げて、俺の背後の方を見た。
俺は、塾長の視線を追って振り返る。
そこにはシャーロットが立っていた。
金髪娘は、何やら思いつめた顔で、塾長の方をじっと見ていた。
むむっ?
強い違和感。
二人の様子は、まるで何かを事前に示し合わせていたかのようじゃないか。
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