犬に仕える一年間

世界三大〇〇

はじまりはじまり

第1話

 ある日、森に行った。何をしようかという訳ではない。ただ、一本の綱を持ってそこに行った。身長の3倍よりもまだ長く、何処かに結わい付けるには便利である。しかも太く、全体重が掛かったとしても充分に支えてくれる。そんな代物だ。その綱を得る為に、全財産を投げ出した。送られてくるまでの3日間というのが、なんとも待ち遠しかった。命よりも大切な綱。だから、命綱と名付けた。

 丁度良い木は無いかと探し回った。だが、いざ探してみるとそんな都合のいい木は無いものだ。大抵は、手の届かないところに枝がある。楽な道を選んだつもりだというのに、こんなにも苦労させられるとは思ってもいなかった。森の奥へと行ってしまったことが裏目に出たようだ。入り口では囀るようだった鳥の音も、いつのまにかギャーギャーという、聞いたこともないような不気味なものに変わっていた。それに混ざるようにゴォーゴォーと、こちらも聞いたこともないような獣の呻き声が響いていた。獣に襲われるような最期だけは御免だなどと思うと、足が止まった。

 それからは、元来た方へ戻って行ったのだが。はて、こんな所を通り過ぎたのだろうか。見たこともない所に来たようでもあり、何度も同じ場所を歩いているようでもあった。樹海とは、こういう所のことをいうのだろう。だから、余計に驚いた。神社があるのだ。参拝する人がいるのだろうかと思うほど人里離れた場所である。その割には手入れが行き届いているようで、緑や朱色の屋根や壁も色鮮やかだった。

 ふと覗いてみると、そこには狐……、いや、犬だ。狛犬に出会った。その狛犬は、私をしばらく見つめ、不意に尻尾を垂れながら社の奥へと歩いて行った。私を誘っているようだった。悠々として、しなやかで、おくゆかしくて、麗しい。つまりは、美しく趣があった。神に仕えるものは、これ程までに神々しいものなのか。何の疑いもなく、ただそれを追いかけた。思った通り、狛犬は私が来るのを待っていたようだった。蹲踞というのか、正座というのかはよく分からないが、極めて神妙にそこに鎮座していた。

「命綱を、譲ってはくれぬか」

 ここまで来て、狛犬が喋ることに驚くことはなかった。しかし、一つだけ驚いたのは、命綱を所望しているということだった。命を捧げよと言われていれば、はいと即答したであろう。それが、どういう訳か、命綱である。命よりも大切だから命綱と名付けたのである。だから、逡巡してしまった。それを見透かしてか、狛犬は困ったようにして、新たな提案をしてきた。

「譲るのが難しいのなら、せめて一年間だけ、貸してはくれぬか」

 一体何故この命綱を欲するのかと聞くと、狛犬は丁寧に答えてくれた。

「井戸の水が飲みたいのじゃ」

 そう言われて、私は初めて狛犬の背後に、古びた井戸があることに気付いた。そっと近寄って覗いてみた。暗くてよく分からなかったが、相当に深い。

「この井戸の水はな、上手いのじゃ。山の恵み、そのものじゃ」

 森を彷徨い歩き続けた体が、不意に水分を求めた。唾をゴクリと飲み込んで、一緒に飲みましょうなどと考えて、精一杯の微笑みを返した。狛犬には、ちゃんと返事として伝わったようである。だが、狛犬の表情は険しくなった。

「それはならん。お主にはまだ早いのじゃ」

 思いがけない拒絶に、私の身体が固まると、狛犬は直ぐ様言葉を付け足した。

「お主、1年間だけ儂に仕えよ。さすればその水を飲ませてやろう」

 この言葉が、私の頭にスーッと入っていった。1年経てば、水を飲ませてもらえることが、なんだか楽しみになった。ワクワクした。

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