外伝第9話 痛みの中にあるもの




 誰しもが痛みを嫌う。

 何も人間に限った事ではない。

 生命はそういう風にできている。

 痛みは身体に対する警告だ。

 身体の危機を伝える警鐘だ。

 痛みを避けられぬ生命は死ぬ行くのみ。


 つまり、私は生命としては完全に失敗作なのだ。




 彼女は幼い頃から両親に愛されて過ごした。

 美味しいご飯、綺麗な服、たくさんの玩具、欲しい物は何でも与えられてきた。

 失敗をしても怒られない。転んで怪我をすれば必要以上に心配される。

 両親の愛を一身に受けて育った少女は、真っ直ぐに優しく慈愛に満ちた子になった。


 小学校に入ってからも彼女は愛された。

 いつでも周りに友達が集まり、優秀な生徒として教師からも信頼される。

 彼女はいつだってその愛に応えてきた。応える様に努めてきた。

 



 それでも彼女は満たされなかった。

 愛が清く尊い物である事は知っている。皮肉ではなくただの事実。

 しかし、彼女にとって何よりも心地良かったのは、愛される彼女を嫉み恨む影からの声であった。


 人に優しくする事は、愛を向ける事は難しいようで簡単にできる。

 相手の事を何も知らなくても、ちょっとした優しさを向ける事はできる。

 勿論より深い愛には、より深く相手を知る事は必要だろう。

 それでも、自然と他人を愛し優しくできる彼女には、愛は簡単なものに見えた。


 しかし、人を憎む事は、簡単なようで難しい。

 何も知らない相手を憎む人間なんていない。憎しみは相手を知って初めて抱ける。

 どうでもいい相手に優しくする事はできても、どうでもいい相手を憎む事などできない。 


 愛の反対は憎ではなく、無関心と良く言われる。

 しかし、彼女にとって、愛と無関心は隣人で、憎しみこそが無関心から程遠い感情であった。


 愛され続けてきた彼女が、最も人との絆を感じたのは、初めて嫉妬という憎しみの感情を向けられた時だった。




 そんな自分が歪んでいると彼女は知っている。

 自身に向けられる愛が、無関心からくるものではない事も知っている。

 愛が憎しみよりも簡単だなんて事はない事を彼女は知っている。

 

 知っていても、愛しさだけは隠せない。

 憎しみが、恨みが、辛みが、痛みが、苦しみが……本当に自分を嫌いでなければ向ける事などできない負の感情への愛しさは。


 彼女は無意識に恐れていた。

 自身に向けられた愛が、本当はどうでもいい相手だからこそ向けられるものなのではないかと。




 彼女の世界は愛に満ちている。

 この世界では彼女は決して幸せになれなかった。

 彼女は優しさに満ちている。

 誰も望まない彼女の劣情をさらけ出す事はできなかった。


 そんな彼女を癒やすのは、誰にも悟られずに自身に痛みをもたらす見えない自傷行為であった。

 あからさまな行為はしない。

 ちょっとだけ自分をつねってみたり、手の甲を僅かに齧ってみたり、走って派手に転んでみたり……気付かれないように、見つからないように自分に痛みを刻み込む。

 優等生だけれど少しドジ、そんな程度の印象しか与えない、周囲からは愛嬌のひとつとしか思われない程度の僅かな自傷行為。


 自分で抱く自分自身への愛さえも、彼女には信じられなかった。

 自己愛は生きる為の機能に過ぎない。

 愛を感じるために痛みを刻み込む事で、初めて彼女は自分自身へ抱く感情が本物であることを、ただ生きる為の惰性ではないことを、生きたいがための本能ではないことを理解する。



 いつしか、愛を感じるための苦痛は悦びへと変わり、過程であった筈が目的へと変わっていく。

 彼女はそれが間違いである事を知っている。

 彼女は正しくありながら、次第に狂っていった。

 



 やがて、彼女は並の痛みでは足りなくなった。

 もっともっと痛みが欲しい。苦しみが欲しい。憎しみが欲しい。

 しかし、わざわざ恨みを買うために、誰かをすすんで傷付ける事はしたくなかった。誰かを悲しませてまで自傷行為に走りたくなかった。優しさ故の思考ではない。結局のところ彼女も他人を害する程に他人に興味がなかったのだ。

 良い子でいなければならない。彼女はきちんとこの世界で生きる為に必要な常識を持っていた。だからこそ、一線を越えずに苦しみ続けた。


 彼女が唯一嫌う"束縛"。それは世界に自身を縛り付けなければ、人は生きてはいけないということ。




 苦しみながらも彼女はそこそこ長く生きた。

 両親を穏やかに看取り、夫を静かに見送り、子供達からも涙と共に見送られ、孫達にもその死を悲しまれ、そこそこ長い人生の中で関わった多くの人々に惜しまれながらこの世を去った。

 その人生に幸せを感じた事は一度たりともなかった。





 女神ヒトトセはその哀れな女に新たな生を与えると言った。

 女に"束縛の勇者"の称号と共に"束縛の縄"と呼ばれる呪具を授けた。


 "束縛の縄"はありとあらゆるものを縛る。

 人間を縛って封じ込める事もできれば、人の行動を縛り禁じる事もできる。

 たとえば、嘘を縛れば人は真実しか話せなくなる。

 それ以外にもありとあらゆるものを、事象を、概念を……思い付く限りのもの全てを縛る事ができる。


 代償は、縛ったものの重みに応じて与えられる"痛み"。

 小さなものを縛る分にはタンスの角に小指をぶつける程度の痛みしかない。

 しかし、より大きな物を、より多くの物を縛る毎に痛みは増していく。

 親しらずを引き抜くような、出産をするときのような、更には死に至るような……痛みは際限なく増えていく。




 "束縛の勇者"として新たな世界に生まれ落ちた女は、貧しい家で育った。

 常にお腹を空かせて、粗相をすれば両親に殴られ、こっぴどくこき使われる。

 それでも女は楽しげに笑った。

 これこそが、彼女が望んだ世界だった。

 如何なる虐待を受けようとも、楽しげに笑う女を両親はひどく気味悪がった。

 口減らしと称して、気味の悪い"悪魔の子"を両親が捨てるのはそう遅くなかった。


 女は自身の"年齢"を、幼い姿のままで"縛"った。

 "不老"の代償の痛みは既に前世で味わったものと比べても上位に位置する痛みだった。

 更に女は痛みで死ぬことがないように、己の"死"をも"縛"った。

 "不死"の代償の痛みは想像を絶するものだった。


 普通ならば発狂する程の激痛の中、女は尚も笑い続けた。


 この痛みさえも、彼女にとっては悦びでしかない。

 この世界には人々を害する魔物がいる。

 この世界には前世のような道徳はない。

 この世界には自分を縛る周りの人々もいない。

 この世界は痛みと憎しみに満ちている。


 皮肉な事に"束縛の勇者"として生まれ変わって、彼女は初めて自由を手にした。










 ボロ布を纏い首に縄を巻く少女、うららは久し振りに取れた睡眠から目を覚ました。普段から激痛に見舞われている彼女が眠れる事は少ない。極稀に、痛みを気にせずにいられる時にしか眠りにつける事はない。


 うららは酒場のテーブルの上で眠りこけていた。

 向かい側には頬杖をついて、じろりと睨む赤い髪の男。


「よう、起きたかよ。」


 女神ヒトトセにより選ばれた"束縛の勇者"うらら。向かいにいるのも同じようにヒトトセによって選ばれた"殺戮の勇者"ゲシ。

 今はこの場にはいない"闘争の勇者"トウジのトラブル解決に向けて、情報収集をしていた二人は、そのついでに気分転換に酒を楽しんでいた。

 その中で酔いつぶれたうららは眠ってしまっていたのである。


「寝てしまってましたか。」

「そりゃもう気持ちよさそうに寝てたぜェ? 人様に昔話しろと言ったくせに、話の途中にスヤスヤとなァ?」


 ゲシの話を聞いている中でうららは眠りに落ちていた。


「ごめんなさい。あまりにも退屈なものだったから。」

「もう二度とお前ェとは話さねェからな。起きたンならとっとと行くぜェ。もう代金は払ってるからよォ。」

「あら、ご馳走様です。たまには気が利くんですね。」

「『たまには』は余計だ。割り勘にすンぞ。」


 うららは自身が歪んでいる事を知っている。

 人並みの幸せを感じられない事も知っている。

 それでも彼女は痛みと共に生きている。 



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