その契約はクーリングオフできません
夜更一二三
黒のプロローグ 【誰よりも強く世界を呪った貴様に】
群がる魔獣の中心で、青年は膝を突き、慟哭した。
腕に抱えるのは血塗れの母。周囲には同じように血に塗れ、人の原型を留めていない村人が転がり、平和だった風景は崩れ、燃え盛っていた。無残に散らかされた血肉の臭いを嗅ぎ付け、魔獣達はぞろぞろと集まってきたのだ。既にいくつかの死体は魔獣達に群がられ、更に形は失われていく。
この凄惨な光景を作りだしたのは魔獣達ではない。
青年はこの村に起きた悲劇を隠れて見ていた。
帝国の兵士達が無抵抗の村人達を惨殺していくのを見た。掲げた旗が帝国軍を意味するものは世間知らずの青年でも知っている。
老若男女問わず徹底的な虐殺が始まり、抵抗を試みた者も居た。しかし、それを見覚えのある戦士達が一蹴した。帝国でも英雄と呼ばれる者達は青年もかつて新聞や写真で見た事がある。
何が起こったのか等と青年に理解出来る筈もなかった。ただ、帝国軍の手により、村は青年を除き全滅した事だけは理解できた。
そして血だまりの中、死肉を求めて集まった魔獣に今正に青年は食い殺されようとしている。
もう何もない。最後に残された自分の命さえも、これから奪われようとしている。
どうしてこんな事になった。
どうして帝国軍に親父は、お袋は、村の人達は殺されなければならなかったのだ。
どうして俺は死ななければならないのだ。
誰が悪い。
帝国軍に村人達が殺される中、隠れ続けていた俺か。
帝国軍に敵わず呆気なく殺された村の術士達か。
俺達と共に生きると誓ったにも関わらず、何もできない精霊達か。
死肉を貪りに来て、ついでのように俺を殺そうとしている魔獣達か。
何が悪いか分からない。だけど、憎い。
帝国軍が憎い。呆気なく死んだ村人達が憎い。取り囲む魔獣が憎い。
いざという時に何の役にも立たない精霊が憎い。
こんな状況に俺がいるのに、恐らくはのうのうと暮らしているであろう人間が憎い。
何もできずに此処で死ぬであろう自分が憎い。
どうして自分だけがこんな目に遭わなければならないのか。
結局何が憎いのかは分からないが、行き場のない感情が爆発する。
半ば八つ当たりのように、青年はこの世全てを深く憎んだ。
「こんな世界滅んでしまえばいいのに。」
魔獣が涎を垂らしながら青年に迫る。
その鋭い牙で青年に魔獣が襲い掛かろうとしたその時であった。
(破滅を願う者よ。その破滅を成す為の力が欲しいか。)
深く、地の底から響き渡るような声が青年の耳、というよりは脳内に響く。
同時に青年が見たのは、宙に浮かぶ黒い球体であった。
曇り無き漆黒。均整の取れた真円。明らかにこの場に似つかわしくないそれが現れた瞬間、世界はまるで停止したように沈黙した。
唖然として見上げる青年の眼前で、黒い球体は動く事なく声を響かせる。
(我が名は“終焉の黒”。破滅を望む者の声に応え世界を破滅に導くもの。此度、貴様の破滅を願う声に応え顕現したもの。)
青年はその力の気配から、精霊に似たものを感じ取る。
精霊に似ている、が決して精霊ではない。あまりにもその力は大きく、そして歪であった。
「精霊……じゃないよな。お前は一体……?」
(同じようなものと捉えて差し支えない。破滅を望み、力を欲する者と契約を結び、破滅を成す為の力を与える精霊と思え。)
「その、精霊が……俺と契約を?」
(然り。死が、怒りが、怨念が、世界の器を満たした瞬間。最も強く世界の破滅を望んだ者が我が契約者として選ばれる。)
黒い球体がゆっくりと降りてくる。そして、最後の問いを投げ掛ける。
(選べ。我と契約し、世界を破滅に導くか。契約せずに、世界の破滅を見送るか。)
それは生き残るチャンスとなる神の救いの手か。それとも、苦境に立つ者にぶら下げられた、悪の魔の手か。
青年は二つの可能性を頭に浮かべながら、即座に答えを出す。
「契約する。力を貸せ“終焉の黒”。」
黒い球体は青年の目の前まで降りてきていた。
青年の契約の言葉を受け取り、球体“終焉の黒”は初めて脳内に語りかけるような声ではなく、周囲の空気を震わす低い声を放つ。
【契約成立だ。若き精霊術士、クレールよ。我が力、存分に使うがよい。】
青年、クレールは声に応えるように、“終焉の黒”へと手を伸ばす。黒い球体は細かい糸のように解け、クレールの指先から、その体内へと溶け込んでいく。
流れ込むのは膨大な力。まるで何でもできると錯覚するような、軽く世界を滅ぼせてしまいそうな、途方もなく深い力。
止まっていた時が動き出す。
新鮮な肉を求めて群がり取り囲む魔獣達をクレールが一睨みすると、たちまち本能で危険を察知した魔獣達はぶるりと震えて毛を逆立てた。
しかし、窮鼠猫を噛む、一部の魔獣が恐れを攻撃性に変えクレールへと飛び掛からんとする。
そんな敵を冷たく見下し、クレールは軽く手を振り払う。
「“終焉の黒”。」
それはさながら一枚の絵に黒いペンキをぶちまけたかのように。
魔獣を、死体を、血溜まりを、村を、一瞬で黒い洪水が音もなく撫でた。
村のあった場所にはクレール以外には何も残らない。
たった一回手を振っただけで、クレールの周囲は黒い無の中へと消え去った。
目の当たりにした光景から、本当に今手に入れたのは世界を思うがままに滅ぼせる程の力だと、クレールに思い知らされる。
黒い煙が立ち上る自らの掌に視線を落とし、今まで当たり前に存在していた日常が黒く塗り潰された光景を見渡し、クレールの口は三日月のようにつり上がった。
「く、くくく……くはははははははははははははは!」
黒い無の世界の中心で、クレールの高笑いだけが虚しく響き渡る。
【さぁ、我が契約者、クレールよ。貴様の望むがままに、世界を滅亡へと導こうぞ。】
世界が終わりを迎えるべき時、この世界の終わりを誰よりも強く願った青年の元に、“終焉の黒”は顕現した。
世界を滅亡へと導く、幕を閉じる為の物語が動き出す。
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