さよなら~006

 飲み物が切れたようで、楠木さんが席を立つ。これで俺の両隣が空いた事になる。

 その隙を狙ったように、国枝君が隣に滑り込んできた。

「楠木さん、余程面白くなかったようだね」

 槙原さんに怒った事か?それは俺も気になったが…

「なんで槙原さんに怒った?自分が面白くない事でも言われたのか?」

「槙原さん、楠木さんの事なんか眼中に無いような感じだったじゃないか。こっちはライバルだって思っているのに、無視とかされたら、気分は良くないでしょ」

「それはそうだな…」

 納得して頷く。俺もボクシングやっているから、その辺は解る。

まだ全然弱い頃の格上とのスパーなんか、まさにその通りだったし。会長は勉強だとか言っていたけど、俺はぶち砕く武器が欲しいだけだからムカつくだけだったな。

「で、春日さんがまさかの離脱で、楠木さん、槙原さんの一対一になったけど、緒方君はどうするか考えているのかい?」

 隣に来たのは、それが本命か。

「ぶっちゃけて言う。昨晩春日さんに呆れられて、振られたダメージがデカくて、よく考えられない…」

「緒方君は振られる辛さが解ってしまったんだね。どちらかを今の自分と同じ気持ちにさせたくない。そう思っているんだろう?」

 それもあるけど…

「じゃあ諦めて日向さんを悪霊にさせるのかい?」

「そんな事、絶対にさせられない」

 国枝君は微かに笑う。予想通りの答えだと小声で言って。

「タイムリミットを気にしないのであれば、また違った考えが生まれたかもしれないんだろうけど、今はそれどころじゃないよね?」

「そうだ。俺がグダグダやればやる程、麻美を苦しめる。楠木さんや槙原さんも苦しめる」

 結果全員失うかもしれない。木村に言われたように、俺は誰も信じていないけど、好意は確実にあるんだ。好きだって気持ちは確かにあるんだ。

 その好意を、昨晩自分でぶち砕いたような物なのに、まだ学習しないのか俺は…

 カラオケ終了後、二次会なる物が催されて、そこでも派手に騒いだ。

 俺も騒いだ。純粋に楽しかった訳じゃない。空気を読んだ訳じゃない。考えたくなかったから無理やり騒いだ。

 それは当然麻美の事。いつも頭の片隅には必ず存在していた、麻美の問題。それから目を背けるよう、騒いだ。

 帰りもヒロと一緒なので、あまり考えずに済んだ。

 だが、家日は入り、一人になると―――

「……いいや。寝よ寝よ」

 布団に潜り込んで目を瞑る。目蓋の裏には麻美の笑顔がある。

 それが、もうちょっとで笑顔じゃなくなるのか…悪霊化によって…

 ……違う、寝るんだ。悪霊化になる前に決着を付ける約束を下じゃないか。今サラダ。何を不安になっている。

 春日さんに呆れたられて、振られたくらいで、なにを不安がっている。

 そうだ。別の事を考えよう。

 そう言えば、蟹江君のおばあちゃんがつい最近亡くなったらしいな…

 お別れとか何とか……いやいや、じゃ無くて、楽しい事を考えるんだ、楽し良い事を…


 ………


 また灰色の背景…麻美の場所か…考えないようにと寝たつもりだったが、どうやらそれは駄目らしい。

 家主不在なれど、麻美が来るまで腰掛ける。この景色も、今は灰色だけど、その内真っ黒に…

「お待たせ」

 妙に明るい声が背後から聞こえてきて、振り返る。

「麻美…か?」

「何言ってんの?私に決まっているじゃん?」

 そう…だよな…一瞬別人かと思った…

 今までの麻美は明るく振る舞っているが、どこか思いつめたように暗い、悲しい気配、表情をしていたが…今日は全くその気配が無かったからだ。

 微妙にウキウキしながら紅茶を淹れる。

「隆はコーヒーだよね?」

「あ、う、うん…」

 鼻歌を歌いながらコーヒーを淹れてくれる麻美…

「はいどーぞ」

「あ、ありがとう…」

 一口啜り、麻美の様子を見る。

 ……やっぱり嬉しそうだ。ご機嫌宜しく、マカロンを食べている…

「…なあ麻美、お前、その…修旅がタイムリミットって言ったよな?もう一か月も無い…」

「うん?ああ、うん。そうだね。だから頑張ってね隆」

 …なんだ?この前は泣いて助けてと言ったのに、この変わりようは?逆に不安になって来るが…

「麻美、なんか嬉しそうだけど…?」

「そりゃね。隆、今日楽しかったでしょ?隆が楽しいんなら、私も楽しいよ」

 思っちゃ駄目だ。無理やり笑っていたなんて、思っちゃ駄目だ。

「無理やりにでも、私を忘れようとしてくれて嬉しいよ」

 バレてる!!そりゃ、麻美には、俺の思考なんてただ漏れか…

 それは兎も角、と、麻美を直視する。

「……麻美、お前が安心できるのは、やっぱり彼女が出来る事のみか?」

「う~ん…そうとも言えるし、そうじゃないとも言えるかな?いつか言った事あったと思うけど、隆には私に縛られたくないから」

 その明確な形が恋人だと…その理屈も解るが…

「春日さんに振られちゃったから、あと二人。どっちかだよ、二択だよ。あ、川岸さんも捨てがたいよね?」

「お前、いつかもそんな事言っていたよな?川岸さんとか、あり得ないだろ。確かに世話になっているけど、そう言う感情は抱けない」

「そっかな~…可愛いと思うけどな~」

 何だ?ここにきて、微妙に川岸さんを押すのは?凄い違和感だが…

 まさか、とは思うが、一応聞いてみる。

「お前、川岸さんに頼まれたのか?俺と恋人になりたいとか何とか…」

「まさか、ぎっしーは本当は……」

 慌てて口を押さえる麻美。それは言ってはいけない事を言おうとしたよな?

「…なにを隠している?」

「別に~。春日さんに振られたから、また三択もいいかなって」

 そっぽを向きながらの回答。絶対に違うだろ!!

 だが、こうなれば麻美は言わない。ならば自分で突破口を見つけるしかない。

 川岸さんとは、ほぼ麻美絡みでしか話した事が無い。最初はどうだったっけ?文化祭前の公開スパーの見学だったっけ?

 そういや、その時麻美と川岸さんが話したんだったな。助けてくれとか?

「お前、川岸さんに助けを求めたのか?」

「へ?ああ、悪霊化したら祓ってってやつ?」

「じゃなくて、本当の最初の時だ。公開スパーで初めて会った時だよ」

「ああ、ほっといてって言ったんだけど、私なら上手くやれるから、って言ってきたんだよ」

 んんん?話が違うな?川岸さんが、麻美の方から助けてくれと言われたとか何とかだった筈だが…

「あ!ああ!そうそう!!助けてくれって言ったんだ!!うん、思い出した!!」

 目を泳がせながらの返答。絶対に違うなコレ。

「……お前、何を隠している?言っとくが、お前は俺の考えが解るんだろうが、俺もお前が嘘をついている程度なら看破出来るんだぞ?誤魔化しは無しだ」

 互いに見つめ合う。付き合いが長いんだ、

 そして、こうなったら、後ろめたい方が折れる。事実、麻美は溜息を付いて項垂れた。

「…明らかに面白がって首突っ込んできたからさ、話聞くよ、って。だから、ほっといてって言ったの。でも、煩くてね。私なら望みを叶えられるから、って」

 それは嫌悪の顔。お前、川岸さんと仲良かった筈じゃ…

「じゃあ叶えて貰おう、って事で、悪霊になったら祓ってって。実は私が願いしたのはこれだけ」

 じゃあ…恋人作り云々で俺を突いたのは……

「隆が彼女を作って私を安心させてくれる、ってのは、川岸さんには頼んでいない。あれは彼女が勝手に首を突っ込んできただけ。私は雑談で話しただけ」

 …じゃあ…自己満足の為に首を突っ込んできたのか?

「彼女ってさ、こう思っていたんだよ『こんな重大な問題を片付けたら、私ってやっぱ凄いじゃない』って。雑談相手には重宝したけど、全く心は許していなかったよ。いつだったか言ったでしょ?私は大沢もあまり信じていないって」

 確かに…川岸さんの事を信用している、とは一言もなかった…誰も信用していないとは言った事があったが…

「じ、じゃあ、なんでお前…川岸さんと付き合わせようとした…?」

 喉がカラカラだった。唾が妙に粘っこく感じる…

「川岸さん、霊力があるじゃない。危険予知が出来るかなって思って」

 危険予知とは、一体何の為の…?

「お前…まさか朋美に対抗する為に、俺に彼女を作れと言ったのか?」

 少し戸惑ってから、頷き、続けた。

「一番の押しは春日さんだった。あの子、躊躇なく殺すから。だけど、まさか、じゃなく、案の定隆は振られた。もう春日さんには頼れないから…」

 案の定とか言うな。自分が一番、痛烈に感じているんだから。

「楠木さんは周りを固めて隆を守れる。あの子、人懐っこいじゃない?それも裏の顔だけどさ。その裏の顔に期待した訳」

 楠木さんですら、お前にとっては俺を守る為の道具なのか…ならば当然、槙原さんも…

「槙原さんは言う必要が無いでしょ。春日さんの次に期待していたのがあの子」

 やっぱりそうか…だけど…

「朋美はもうここにはいない。他ならないお前が頑張って遠くにぶっ飛ばしたんだから。なのに、なんでそこまで朋美を気にする?」

「……私は何十回、何百回、隆を戻して来たんだよ?あの子がそんなに簡単に諦める訳が無い事は承知だよ。いつかきっと忘れた頃にやってくる。私が居なくなった後にでもね」

「だから彼女達に俺を守って貰おうと考えたのか!!」

 狂人相手に俺を守らせようと!! そんな目的で彼女云々言うのなら、一生独身で構わねーよ!!俺の為に、彼女達を危険に晒す真似は断じてさせられない!!

 利用するだけの彼女は必要ない。好きって感情を二の次にして、打算で付き合うような真似はお断りだ!!

「お前、マジふざけんなよ!!彼女達を道具扱いにするんじゃねーよ!!」

「じゃあ、仮に隆の前に須藤が現れたらどうするの!!」

 キレて言ったら逆ギレで返された。つか、そんなもん!!

「ぶち砕くに決まっているだろ!!」

 麻美は笑う。呆れたように。

「隆に女子は殴れないよ。威勢のいい事ばっか言っているだけ」

 …こいつ、俺以上に俺の事を知っているからな…麻美がそう言うのなら、多分そうなんだろう。だが、やる時はやるんだよ、俺は。

「中学の頃、見るからに糞な女を追い払っただろうが?」

「追い払ったね。怒鳴って。その時殴ったっけ?」

 …いや、だって、怒鳴って失せたんだから、ぶち砕く必要が無いし…

「いや、いやいや、やるよ、朋美なら躊躇なく…か、どうかは解らないけど、やるよ!!」

 つか、なんか喧嘩みたいになって来たな…

 麻美と喧嘩か…すげえ久し振りだな…

 なんかこう…テンションが上がって行くのが解る!!

 そういや、蟹江君、と言うか、楠木さんが言っていたな…お別れを言ったか?と。

 俺は麻美の葬式の時、終始俯いていたし、墓参りも、知っている限り、繰り返し中の二年の春にした事のみ。

 俺は…ちゃんとお別れを言っていない。だから麻美が留まっている。

 安心云々じゃねーんだ。死んだ者に対して、別れを言うのは、残された者の義務。

 その義務を怠ったんじゃ、たとえ彼女が出来たとしても、麻美は成仏できない。

 ならば、話して、話し合って、『俺』がお別れを言えるようにしよう。俺に心残りが無い様に。言っても絶対に心残りはあると思うけど。

 それを言うなら、麻美だってそうだろう。どんなに満足しようが、心残りは絶対にある。

 それでも、大抵の人は成仏するのだろう。残された者がちゃんとお別れを言う事によって。

 まあ、死者の都合は兎も角、今は俺の都合だ。

 取り敢えず、俺から満足するか。

「麻美」

「なによ?」

「お前、俺を信用してないんだよな?」

「信用していない訳じゃない。隆が駄目駄目だから安心できないって言ってんのよ」

「そうか。俺もそう思う」

 麻美が目を剥いた。こいつ何言ってんだ?みたいに。

 俺は構わず続ける。

「俺を一番信用していないのは他ならない俺自身。俺はヘタレで受け身で臆病者で、すぐ拳に頼ろうとする狂犬みたいな奴だ。そんな自分を、俺は一番信用していない」

「ち、ちょっと、そこまでは思っていなかったけど…」

 そうなのか?麻美の中で、俺は随分評価が高いんだな?逆に感心してしまう。

 「じゃあ、お前は俺以上に、俺を信用しているって事だな?」

「そう…なるのかな……?」

 超自信なさ気だった。首を何回も捻っての回答だった。

 まあ、兎も角先に進むぞ。

「じゃあ、お前が俺を信用しているとしてだ、俺が朋美をぶち砕けるって事も信用して言える訳だよな?」

「ええ……」

 困っている顔だ。俺の豪快なこじつけが、麻美を追い詰めた証拠だ。

「つか、朋美がまた現れるのは確実なのか?お前があんなに頑張って遠くに追い払ったのに?」

「それは…正直何とも言えないけど…」

「何とも言えないんだったら、二度と現れない可能性だって当然あるよな?」

 言葉が出て来ない麻美。勢いは間違いなく俺にある。

「……そりゃ、少なくとも元気な状態では戻って来ないと思うけど…何があるか解らないでしょ?」

 頷く俺。その通り。先の話だ。何が起こるか解らない。

 起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。ただそれだけの話。

「あの状態の麻美がどうやって戻って来るんだ?親父はあんなでも、一応朋美の身体を心配しているんだぞ?あの状態でも退院させるのか?」

「いくらなんでもそれは無い…よね?本当に無理したらヤバい状態なんだから…」

「じゃあ勝手に病院抜け出して戻って来るのか?電車に乗れるのか?バスに乗れるか?絶対に通報される出で立ちなのに?」

 痩せこけて、髪もごっそり抜け落ちて、幽霊みたいな成りになってしまった朋美。病院から抜け出したと容易に想像できる。最低でも警察に通報されるだろう。

 誰にも見つからないように移動するのであれば話は違うが、その場合、深夜にこっそりと歩くしかない。絶対に途中で死んじまう。

「…我儘言って、地元で療養するとか言い出しそうじゃない…?」

 段々トーンが低くなって来たな。

 来ない可能性の方が遥かに高いと思ってしまったんだろう。実際そうだろうし。

「お前、親父を散々脅したんだよな?お前の脅しが無意味だって事か?」

「無意味になるかもしれないじゃない…」

「だったらお前の心配も無意味になるかもしれないよな?」

 先の事は誰にも解らない、たとえ幽霊の麻美であろうとも。心配通りの事が起こるかもしれないし、杞憂に終わるかもしれない。

「つか、お前のプランは、俺には絶対に受け入れられないからな。朋美云々以前の問題だ」

「じゃあ解った、やっぱり私がちょっと祟って来るよ。それでいいでしょ?」

 若干キレ気味になった。ちょっと祟って来るって、そんなにお気軽に祟れるもんなの?

 まあ、仕切り直しだ。ごり押しとも言うが。

「意味無意味は置いといてだ」

「そうだね。この話し合いも無意味だもんね。主張が全く違うから」

 ぷいっと麻美。無意味にしようとしているのはお前なんだけど。

「つか、お前は何で朋美を嫌いなんだ?俺の知る限りじゃ…決して親しいとは思わなかったけど、お前等そんなに険悪でも無かったよな?」

「険悪だよ?何言ってんの?」

「いや、お前の生前の話なんだけど」

「ああ…あの子、外ヅラは良かったからね。私と仲良しを演出するくらい簡単でしょ」

 そう言われりゃそうだけど。その外ヅラで俺が酷い目に遭った事も何回もあるし。

「以前はあの子が私をどう見ているかなんて左程興味なかったからスルーしていたけど、死後に私を嫌いだって解ってホッとしちゃった」

「嫌われていて安心する?」

「だって私も嫌いだもん。好かれちゃ逆に困る、と言うか迷惑」

 迷惑ですか。完全同意だ。

 好かれたが為に、とんでもない事になっているのが、俺なんだから。

「そんな大嫌いな朋美を遠くにぶっ飛ばした麻美に、俺は本当に感謝している」

 テーブルに額が付かんばかりの礼を見せる。

「え?な、なに?ちょ、やめてよ…」

 おろおろする麻美だが、構わず進める。

「遠くにぶっ飛ばしてくれたおかげで、俺には平穏が訪れた。感謝の言葉も無い」

 ぐ、と唸る麻美。

 そりゃそうだろう。

 お前の仕事は終わったと、遠回しに言われているようなものだから。

「麻美、お前は俺の為に頑張ってくれた」

「…隆の為だけじゃないよ…」

 自分の為でもあると。祟ったのは俺の為だけじゃ無く、自分の為でもあると。

 やっぱり麻美は優しいな。全部『俺の為』なのに、引け目、負い目を感じさせまいと…

 俺は顔を上げて麻美を見る。

 …俺は高校二年生。目の前の麻美は、中学二年生の頃から時が止まって幼いまま。この見た目の年月よりも更に長い間、俺を守ってくれていたんだ。

 俺は本心で、真正面の麻美に向かって言う。本当に麻美に言いたかった言葉を…俺の心残りを…

「……お前を好きでいて良かった」

 俺の言葉からやや遅れて、麻美が自分の顔を両手で覆った。

 そして大粒の涙をテーブルに零した…

 ぐしぐしと鼻を啜る音のみがこの場を支配する。

 やがて嗚咽が小さくなると同時に、麻美が言った。

「…私が居なくなっても平気?」

「…平気じゃねーよ。本当は離したくない。だけど…待っていてくれるんだろ?」

 うんうん頷く。

「…今後の為には私の事は忘れて欲しいんだけど…隆に忘れられるのは嫌だから…」

「忘れる訳が無いだろ。俺が一番好きな子だ」

 鼻を啜る音が再び大きくなる。

 …俺も泣きたいっつーの…だから…いや、いいや。

 もっと泣け…もう泣かなくてもいいように…

「なるべく…」

 暫く泣いていた麻美が、小さい声で言う。

「なるべくゆっくり来てね」

「うん」

 早く会いたいのは山々だけどな。と呟く。

「隆なんか短命っぽいから、病気とか怪我とかに気を付けて」

「うん」

 短命なのは間違いない。麻美が居なかったらとっくに終わっていた命だ。だからそれを俺なりに必死に伸ばすように頑張るよ。

「隆…」

 顔を上げた麻美…ボロボロと大粒の涙を零しながらも笑っている…

「大好きだったよ」

 過去形かよ。いや、麻美は死者だから、それが正解か。

 俺も大好きだったよ。いや、今も好きだよ…

「隆…」

「うん?」

「隆…!」

「うん…」

「たかし!!」


 さよなら


 最期に見た麻美の顔…


 俺の大好きなあの笑顔…


 堪えていた涙が此処で流れる。


 ああ、よかった。


 涙で滲んだ麻美の顔が最期じゃ無くて…


 ちゃんと、顔見れて…


 本当に良かった…


 …

 ……

 ………………

 目を開けると、そこは俺の部屋の天井…あのまま寝ちゃったのか……いや、元々寝ていたんだ。家主が居なくなったから、追い出されたって感じか?

 麻美の気配を捜すも、感じない…やっぱり行っちゃったんだな…うん…

 俺の目頭が熱くなる…

 麻美…

 麻美…麻美…

 あさみ…!!

 俺頑張るから。

 絶対に死なないから!!

 次にお前に会えるその時には、沢山生きて悔いが無いって笑うように頑張るから……っ!!

 なんでだ?なんでだろう?

 麻美が麻美の場所にちゃんと行けて良かったと思うのに。

 麻美が苦しみから解放されて良かったと思うのに…!!

 何でこんなに涙が出て来るんだろう?

 なんで?なんでだ?

 麻美…

 麻美…麻美…

「あさみっ!!!!!」

 俺は声を上げて泣いた…

 こんな事は…麻美が死んだ時でも無かったのに…

 ずっと、ずっと泣いていた。

 日課のロードワークの時間が過ぎても泣いていた。

 カラカラと部屋の扉が開く音がしても泣いていた。

「隆、なんで来ねえんだよ?どっか具合でも悪いのか?」

 ヒロが慌てたように部屋に入って来た。だけど俺の涙がは止まる事は無かった。

「お、おい?どうした?具合云々じゃねえようだけど…」

 俺は頷く。と言うか、頷く事が精一杯だった。声を出せは嗚咽しか出てきそうも無かったから。

「ちょ、マジでどうした?また須藤が来たのかよ?」

 来る訳無い。麻美が頑張って遠くに追いやったんだから。

 麻美が俺の為に必死になって頑張った結果なんだから。

 暫くして、どうにか落ち着いた俺は、あの事を話した。

「……俄かには信じられねえけど…」

 いいんだ。信じられないのは当然だから。だけど、いなくなったのは事実。

「喪失感っての?それか?」

 それもあるかもしれない。なんで泣いているのか、俺自身も解らないのだから。

「…じゃあ今日は…やめとくか?」

 俺は頭を振って拒否する。

「いや、やるよ。麻美どころかバックボーンも失う事になるから…」

 麻美が命を落としてから始めた日課。これまでやめてしまったら、俺には何も残らない。

「…つっても時間が時間だからな。柔軟くらいしかできないぞ?」

「…走るのは登校中にやるよ」

 そうだな。と言って立ち上がるヒロ。

「付き合うぞ当然。日向が居なくなっても、俺達はまだ生きているんだからな」

 頷く。麻美が繋いでくれた明日の為にも、日課は途切れさせたら駄目だ。

 ボクシングは麻美を失った思い出そのものだから…

 全く身に入らなかった柔軟をどうにかこなし、着替えた。

 そろそろ登校、というところで着信が入る。川岸さんだ。

 麻美が成仏した事を言わなくちゃな…

 彼女も興味本位とは言え、骨を折ってくれた人だ。お礼もしなきゃいけない。

「はいもしもし…」

『随分沈んでいる声だね緒方君』

「そうか?自覚は無いけど」

 嘘だ。自覚はバリバリある。ただ認めたくないだけだ。

『その調子じゃ学校にも行きたくないんじゃない?』

「……なにがあったのか知っているのか?」

『…日向さんが枕元に立ってね』

 麻美がお別れを言いに行ったのか…心を全く許していなかったのに、わざわざ…?

『じゃあ今日は特別に私と話す事を許可しよう』

 意味が解らないが、学校に行きたくないのは事実。それにお礼もしたい。なので俺はその誘いを受ける事にした。

 と言っても電話では無く、普通に呼び出された。

 一応ヒロに連絡を入れて、待ち合わせ場所に電車で向かう。

 呼び出されたのは総合病院。つっても川岸さんは別に入院した訳じゃ無い。

 普通に学校に行っている時間帯にプラプラすれば補導される事は必至な訳だから、このチョイスは正解に近いか?

 川岸さんは休憩室で呑気にお茶を啜っている。簡単に発見できたことは有り難いが、制服は目立つんじゃねーか?

 俺が声を掛けると、川岸さんがじっと見つめた。

「……うん…本当に行っちゃったみたいだね…」

「まさか、それを確かめる為に、呼び出したんじゃないよね?」

 苦笑いし、返す。

「枕元に立ったって言ったでしょ。念の為ね」

 そう言って座るよう促す。俺も立っているのは疲れるので素直に座った。

 そして深々と頭を下げた。

 いきなりの事だったので理解が追い付かない程だった。

「ごめんなさい」

 そしてやはりいきなり謝った。

「私自身も結構やばかったみたいなのに、緒方君に自分の考えをごり押しして、ごめんなさい」

 麻美、最後にネタばらしして行ったのか?

「ちょっと視えるくらいで調子に乗ってた。本当にごめんなさい」

「いや、いいから。とにかく頭上げてよ」

 このままじゃ居心地悪いだろ。現に他の人達も、俺を訝しげに見ているし。

 漸く顔を上げた川岸さん。本当に悪いと思っているようで、顔色が優れない。なので俺は言ってやった。

「川岸さんも一応は好意でやってくれていたんでしょ?」

「それは…その通り…じゃない…私は自分が気分良くなりたかったから首を突っ込んだようなものだから…さっき言ったでしょ?ちょっと視えるから調子に乗ったって」

 言わんとしている事は理解した。

「私は何にも解っていなかった。日向さんがあんな事考えていたなんて知らなかったし…」

 何か言おうとしたが、やめた。

 川岸さんの顔色が優れない理由が解ったから。

 麻美を怖がっているんだ。証拠に身体が小刻みに震えている。

 麻美の考えは人身御供みたいなもの。そこには川岸さんの事は全く考慮されていない。

 俺の為に頑張れ。

 俺の事を必死に頑張ってくれたのは理解するが、それはまるで悪霊のようじゃないか…

 その後も川岸さんは、何度も奢っていたとか、慢心していたとか、ごめんなさいを繰り返していた。

 その都度何度もいいから頭を上げてと言ったが、聞きやしなかった。

『向こう側の住人』を甘く見て、それを後悔して怖がっている。なのでごめんなさいは俺に向けた言葉じゃない。麻美に向けての言葉なのだろう。

 別に構わない。それで川岸さんの気持ちが晴れるのなら。事実、川岸さんも骨を折ってくれていたのだから。

 だが、執拗に謝罪されてはたまらない、やめろと言っても聞きやしない。なので俺はこの話はもうお終いとばかりに席を立つ。

 川岸さんが酷く怯えた顔で俺を見る。

「まさか…許してくれないの!?ねえ!?なんで!?」

 掴みかからんばかりの勢いだった。許すも何も、もういいと何度も言ったんだけどな…

 半ば呆れて言う。

「聞いてなかったでしょ、俺の言葉。何回も許すも、もういいも言ったよ?」

「嘘だ!!ひょっとして緒方君…日向さんに命令して、私に祟れとか言おうとしているんでしょ!?そうでしょ!?ねえ!?」

 もう何を言っても無駄だ。本気で呆れて、逆にお願いをした。

「じゃあさ、悪いと思っているんなら、今日の所は帰ってくんない?昨日の事で、ちょっと寝不足なんだよ。ぶっちゃけると、帰って寝たい」

「そ、そんな事で許してくれるの?」

 頷く。もうこれ以上関わりたくないのが本音で、実際は許すも何も無いのだが、取り敢えず頷く。

「わ、解った…そ、それで本当に?」

 何を怯えているのか本気で理解出来なかったが、頷けば安心すると思い、頷いた。

「わ、解ったわ…じゃあ…」

 そう言って川岸さんは及び腰で去って行く。

 俺は溜息を付き、無駄に疲労した精神を安定させた。

 取り敢えず家に帰って、サボったので何も出来ないので、テレビを見たり、勉強したりで…

 気付いたら、もう昼を回わりに回って3時に差しかかろうとしていた。

 昼飯は何も食べる気にはなれなかったので別にいいけど、喉がちょっと渇いたな…

 冷蔵庫に向かい、物色するとコーラがあったので、それも持って二階に戻る。

 プルトップを開けると。プシュッと炭酸が抜ける音。

 一口飲んでスマホに目を向ける。メールが入っていた。

 ヒロと楠木さんと槙原さんと国枝君。そして…

 川岸さん。

 今朝会ったばっかなのに、何で?そう思って開いた。

 メールを読んで軽く溜め息をつく。

 その内容…と言うか、要望通りに、彼女のアドレスを削除した。

 そしてメールに返信。

【ご要望通り削除しました】

 川岸さんのメールの内容が【怖いからもう関わりたくないのでアドレスとか消して】だったからだ。

 そっちから関わって来たくせに、何だっつー話だ。いや、別にいいんだけどさ。俺がムカつくのも解ってくれるだろう?

 その後すぐに返信が来た。


【さよなら】


 …麻美に言われた時よりも、春日さんに言われた時よりも、全然心に響かなかった。ただ単にアホらしくなっただけだ。

 なので、どーでも良く思って、そのメールを削除して返信はしなかった。

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