クレインの恩返し

伊藤 光星

第1話 鶴亀荘

 暖かい春の日差しが天から降り注ぎ、川のせせらぎが心地よく聞こえている。川辺には黄色い菜の花が咲き乱れ、鼻の奥を突くような独特の香りが漂っていた。少しだけ冷たい春風が桜のつぼみを揺らしている。


 世は平成が終わると騒いでいる。来月の五月で天皇陛下が生前退位されるとニュースが流れ、こぞって騒ぎ立てているからに他ならない。つい、先日まで近隣諸国でイザコザして、やっと終わったと思ったのに、終結については、うやむやのまま、時だけが過ぎた。喉元過ぎれば熱さ忘れるんだろうか。いや、嫌な事なんて、いつまでも考えていたくないのが正直なところだろう。


 俺、日沖 拓真たくまは今年三月に高校を卒業し、県内の大学へと進学することになった。ただ、県内といっても、実家から大学までは、かなり遠いため、今日は父と母、妹を連れ立って、アパート探しをしているのだ。


 俺の条件としては、なるべく、大学から近くて、ワンルームで陽当たり良好。さらに月々の家賃も安い事が条件である。今は、父と母が共稼ぎで頑張ってくれている。だが、先々、妹も家を出るかもしれない。そう考えると、あまり贅沢ぜいたくな要望は言えなかった。


 そして、大学近くの不動産屋に行き、数件の物件を紹介された中で、ようやく辿り着いたのが、ここ鶴亀荘というアパートだった。最近の小洒落た横文字アパート名が多いと言うのに、何とも昭和を感じさせる名前である。ただ、不動産屋でアパートの家主が鶴島 亀三つるしま かめぞうさんと聞いて、何となく、そのアパート名の由来を推測した。


 とはいえ、俺は平成っ子である。小洒落たアパートの方が良いに決まっている。本来ならば、もう少し早く動いておけば、そんな小洒落たアパートにも落ち着けたのだろうけど、人より一歩出遅れると、こうなる典型的パターンである。


 それに加えて、俺のように優柔不断で、何をするにも重い腰を上げるのが億劫おっくうな人間にとって、限られたパイの中で、フラフラと決め兼ねていたことが災いし、最終的に鶴亀荘へ落ち着くことになったのである。


 アパートは鉄筋コンクリートの二階建て。木造じゃないだけマシとも言えるが、非常に湿気が籠りやすい。全六部屋で築は三十五年を数える。俺の住む部屋は二階の真ん中に位置していた。四畳半一間1DKである。


 北側には寂れた玄関があり、そこを”景子”と名付けようと、ある友人が言っていたが、それは某有名女優の名前だろうっ!と俺は危うツッコミそうになった。

 

 さて、”北側景子”・・いや、玄関を入って直ぐ右側には水汚れと錆にすすけたキッチンがあり、左側に和式便所と壁一枚隔てて、全面青色タイル張りの浴室が並んでいた。


 浴室はリフォームしたようで、小汚いステンレス浴槽、青いタイル張りと対比し、小奇麗な蛇口とシャワーヘッドがアンバランスに映った。ただ、唯一の利点は、ベランダは南向きなので、洗濯物や布団を干すには申し分なかった。


 それから、引っ越し当日。実家から最小限の荷物を送って貰い、あとは現地調達することにした。俺は一足先にアパートへと向かう。


 二○二と書かれた赤茶色のドアの前で、シリンダー錠に鍵を通していた時のことだ。歳の頃、七十後半ぐらいの、頭髪の大半が白髪になった年輪の刻まれた顏の老人が階段を上ってくるのが見える。


 体型は、やせ形で長そでの白いポロシャツとねずみ色のズボンを履いていた。てっきり、このアパートの住人だと思ったのだが、その老人が俺に声を掛けてきたのだ。


「ああ、君、ちょっと」


「えっ?俺ですか?」


俺は手を止めて老人を振り返る。


「あんさん。もしかして、今日、二○二号室に入居される日沖 拓真さんでっか?」


「ああ・・ええ、そうですが・・。あっ!もしかして、大家さんですか?」


「ええ、どうも。ワシ、鶴島 亀三っていいます。今後とも、よろしゅうに」


「あ、いえ、こちらこそ、今後とも、宜しくお願いします」


と、俺は明るく言ったつもりだったのだが、亀三さんは何処か、薄ら寂しげな表情を浮かべ、俺に、


「ああ、こちらこそ。ほな、体に気つけて頑張りや」


と、しわがれた声の関西弁で短い言葉を発し、去って行った。俺は、妙に奥歯にはさまったような感覚に捕らわれながらも、軽く一礼して、部屋へと入った。


 と、その途端、タバコのヤニ、カビ、そして甘ずっぱいようなアルコール臭が織り込まれていたかのように極悪臭となって俺の鼻を直撃する。


「うわっ!なんだ、この臭い?」


 不動産屋さんと一緒に巡っていた時は、全く気付かなかったのだが、どうやら、元々、この部屋に染みついていた臭いのようである。


「まさか、あの不動産屋!俺たちが見学に来る前に先回りして、窓でも開けてたんじゃないのか?!」


 俺の中に沸々と怒りが湧き上がる。だが、賃貸契約を交わしてしまい、早々簡単に引っ越しできるものでもないのも事実だ。ともかく、俺は慌てて靴を脱ぎ捨てると、ベランダの窓を全開にし、換気扇をフルで回すことにした。


「はあ~、何って不動産屋だよ!もう!」


 俺はベランダの窓に近づき、新鮮な空気を吸おうと畳の上に座った。窓から春の暖かい日差しと少し冷たく心地よい風がレースのカーテンを巻き上げながら部屋の中へ入ってくる。


「ああ、いい風だな。今日は天気も良いし、いい気持ちだなぁ」


 俺は、ようやく悪臭から解放され、爽やかな風を浴びながら、畳に寝転んでいると、インターフォンが鳴った。送った荷物が届いたのだ。運送屋さんから荷物を受けとり、梱包を解いて、片付け開始である。


「それにしても、よくよく見ると、この部屋、黄色くなっていないか?ああ、あのアパートを見て回った日は確か、雨が降ってて暗かったからなぁ。くっそっ!気づかなかった!」


 その壁はタバコのヤニの色なのだろう。薄く黄色がかっている。しかも、こげ茶色になったコンセントカバーとその上に固定電話用のモジュラージャックが付いていた。無論、Wi-fiなんて近代的なものがある訳がない。


 それにテレビを置こうにもスペースが限られているため、仕方なく、スマートな横長の机の上に十三インチのノートパソコンを載せることにした。当面、スマートフォンのテザリング機能を活用すれば、インターネット接続には事欠かないだろう。


「はあ~。さて、買い出しに行くか」


 俺は、腰を上げて、近所の家電屋量販店とディスカウントストアを巡る。調理器具は、もちろん、洗濯機と冷蔵庫、電子レンジを家電量販店で予約購入してきた。ようやく、新生活を行う準備が整ったわけだ。


「よしっ!とりあえず布団を押入れに収納だ!」


部屋を掃除して、一段落した、俺はタバコのヤニで黄色くなった襖を開けた。中から染みついたヤニの尖った悪臭が俺の鼻孔びこうを詰まらせる。


「うぉっ!こりゃまた、強烈だ!」


 だが、ここまで来て、今更、引き返せない。もう、敷金礼金と一月分の家賃 計三カ月分が家主の口座に振り込まれてしまったのだ。


 押入れの中は、俺の腰ほどの高さで仕切が入っており、上下二段に分かれていた。正直、嫌な気持ちを抑え、ところ構わず、スプレータイプの消臭剤を噴霧ふんむし、押入れの臭気と除菌を繰り返した。ようやく臭いが中和したところへ、上の段に新聞紙をいっぱいに広げて、そこへ布団を押し込んだ。


 と、そこで俺の目に飛び込んできたものがある。それは、下段の奥の壁だった。何かの絵が描いてあるのを発見したのだ。


「んっ?何だ?これは?」


 薄暗い押入れの奥を俺はスマホのライトで照らしてみた。そこには壁一面に、金色の長い髪をカールし、若干、垂れ目気味の美しい女性がギリシャ人が身に纏うような白くフワフワとした衣服を身に纏い、木製の椅子に座わり、女性が昔の大きなハタ織り機で何かを織っているかのような絵が彩色豊かに描かれていたのである。


「なんだ、これ?でも、どっかで見たことある絵だな。なんだったかなぁ?」


 俺は記憶の片隅を突きながら、首を傾げた。不可思議な気持ちに捕らわれ、軽く、その絵の上をなぞってみる。特に塗料が剥がれることも無く、コンクリートの壁に何を使って、この絵が描かれているのか、全く見当がつかなかった。ただ、隣の壁が、やたらと綺麗な白色なっているのが気になった。


「なんだろう?これ?こっちは絵があって、こっちは白?それにしても、こんな押入れの奥に何で描いてあるんだろう?」


と、俺は疑問に思いながら、襖を閉めて、部屋の片付けを終えた。


 それから、電気、水道、ガスが開通し、ようやく生活できるレベルへと到達する。取り急ぎ、中古の軽自動車を購入し、空の駐車場も確保した。


 そして、両隣の部屋にも引っ越しの挨拶を済ませて、心は弾む。さあ、あと四日で大学生としての学生生活が始まるのだ。そう、期待に胸が膨らむような季節。俺は華々しく大学生デビューを果たすはずだった。だが、それは、その夜に訪れた。

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