第3話 落ちない林檎

 幼い頃、酒好きの父親の部屋に忍び込み、さきいかだのキューブ状のマグロだのを盗み食いしていた私は、「将来大酒飲みになるねえ」と周囲を笑わせたものだけど、成人式を終えて何年経っても、いたってお酒は弱い。わかっているから自重しているのに、あのビールを注いで注がれてっていう社会人の儀式だけで、足元がふらつくのだからどうにもならない。

 かと言って、吐いて迷惑を掛けたり、絡んで泣いたり、記憶をなくして誰かにお持ち帰りされたりするわけでなく、楽しく飲んで……あとはひたすらに眠くなる。 

 好きなんだけどな、飲み会。仕事を離れてみんなと話すのだって楽しいし、眠くなる前なら酔うのも楽しいし。好きなんだけどな。

 『好きこそものの上手なれ』とはいうけれど、ただ好きなだけじゃ、どうにもならないことはたくさんある。


「おーい、平雪ひらゆきちゃーん」


 ペシペシとほっぺたを叩かれて、寝ていたことに気づく。背中に畳や薄い座布団の感触がして、「あ、居酒屋のお座敷だったっけ」と思い出した。だけど目は開かない。開けようとはしたけど、私の必死の努力なんてこの眠気の前では風の前の塵に同じ。

 やめておけばいいものを、メニューに『店長オススメ! 数量限定!』なんて書いてあったから、「今年一年お疲れ様、私!」と、うっかり飲んじゃった青森県産アップルアペタイザー。黄金色の液体にしゅわしゅわの炭酸がきれいで、“リンゴ味”じゃなくて“生リンゴ”の味がして、飲んでるだけでお姫さまにでもなれそうな可愛いお酒。

 可愛いお酒はアルコール度数だけ可愛くなくて、可愛くなく泥酔した。

 店長……責任取って今日はここに泊めて。という言葉も、頭の中で回るだけ。口を開くのも面倒臭い。正直な気持ちとしては、息をするもの面倒臭い。


「平雪ちゃーん。起きろー」


 国松くにまつさん、こんなところで何してるの? さっさと二次会行けばいいのに。という言葉も、当然頭の中だけだった。


「ねえ、平雪ちゃん」


 グッと近づいた声が、吐息混じりに変わる。


「起きないとキスするよ」


 クスリという笑いに危険な色気がしたたっていることは、酔った頭でもよくわかった。やっぱり目は開かないまま、背筋だけがゾクゾクッとした。あ、トキメキじゃなくて悪寒の方。

 非は私にあるってわかってるから「セクハラー!」なんて騒がないけど、あーめんどくさい、と頭の中でため息が出た。国松さんはモテるから、私のことなんて気にしないと思って、「国松さん、かっこいいー」「付き合いたーい」と言いふらしていたけど、まさか目に留まるなんて誤算。

 本当にキスなんてされたら堪らないから、少年漫画の主人公みたいに世界中のパワーを集めるつもりで目にエネルギーを集中させる。そうしてようやく瞼がわずかに持ち上がった瞬間、唇に冷たい感触がした。うーっすら開いた視界には「ライムサワー」や「巨峰サワー」の文字。どうやらラミネート加工された飲み放題メニューが私の顔に当てられているようだ。


「何だよ! 加賀かが……?」


 飲み放題メニューの向こうで国松さんの不機嫌な声がする。勢いよく噛みついたのに、名前を忘れて尻すぼみになり、しかも間違えた。

 必死に頭を動かしてメニューの陰から確認すると、その人物は今日も幹事、いつも幹事でおなじみ、一つ下の後輩・“加賀美かがみ”君。私と国松さんの間をメニューで遮ったらしい。いつも幹事やってるんだから、名前くらい覚えてあげてよ国松さん。

 加賀美君は無愛想でマイペースなくせに、クソ真面目なことを利用されて、いつも幹事とか委員とか面倒なものを押し付けられている。飲み会の間、黙々と飲み物の注文をまとめ、淡々と料理の追加をし、さりげなく他のお客さんに気を使って、テキパキとお会計を集めて、ぜーんぜん座っていないから、みんなと親睦を深める席で、彼との親睦は深まらない。


「部の忘年会なので困ります。そういうのは個人でやってもらえませんか?」


 アルコールが入っているとは思えないような硬質な声で加賀美君は言う。照明がメガネにキラリと反射して、いつも以上に表情もよくわからない。

 加賀美君、『個人でやれ』なんて、私の気持ち知ってるだろうにそれはないんじゃないの? 個人的に私が国松さんに誘われてもいいの? 幹事じゃなければ助けてくれなかったの?

 苛立ちで目は冴えたけれど、反対に「起きなきゃ」という気持ちは霧散した。

 酔ってるフリしちゃえ! 幹事なんだから、酔っ払いの面倒は君がみなさい。


「加賀美君がいい」

「は?」


 国松さんの不機嫌さ倍増。でも知らなーい。私“酔ってます”から。


「加賀美君がキスしてくれたら起きるぅーーー」

「平雪ちゃん?」

「加賀美君がいい! 加賀美君じゃなきゃやだー! 加賀美君、加賀美君、加賀美くーん!」


 脚をバタバタさせて駄々をこねると、国松さんの気配が遠くなった。


「平雪ちゃん、酒癖悪いの、直した方がいいよ」


 国松さんは女癖悪いの、直した方がいいですよ。王子はさっさと舞踏会にでも行ってしまえ。

 畳をドスドス言わせて国松さんがいなくなると、目の前のメニューがようやくはずされた。瞼越しに居酒屋の照明が刺さってくる。


中根なかね!」


 加賀美君が同期の中根君を呼び止めて、何か相談して、


「あははは! 了解、了解。頑張れ、加賀美」


 その中根君の声も遠ざかると、もう人の気配はしない━━━━━


 ん?


 んんんんんん?


 んんんんんーーーーーっ!!


 再び明かりが遮られたと思ったら、口の中、すごいことになってる! 口の中だけじゃなくて身体の内側全部、すごいことになってる……。

 目は閉じたままでも、顔に当たるメガネの感触と、わずかに鼻から漏れる声だけで、相手が誰かわかる。夢を見ているようで、それでいてどこまでも現実的なビール味。だけどこれは、どんなアルコールより、ずっとずっと強力……。

 おとぎ話でよくある、キスされて目覚めるってやつ、あれ、本当は相手が嫌だったんじゃないかな? だって全然起きたくない。というより、力が抜けて起きられない。これは呪いを解くというよりは、深みに引きずり込むような━━━━━。

 「これでおしまい」とでも言うように、ちゅっという音がして呪いは解かれた。


「何飲んだんですか? これ……甘い?」

「青森県産アップルアペタイザー」

「起きるんじゃなかったんですか?」

「ええー。もっと!」

「もうしません」

「ケチー」


 しぶしぶ開いた視界には、相変わらず冷静なメガネの君。いつも磨き抜かれているそのメガネに、私のファンデーションがベタッとついてしまったようで、ポケットから取り出したハンカチで名残惜しさの欠片もなくキュッキュッと拭き取ってしまう。


「送りますから立ってください」

「幹事は?」

「中根に頼みました」

「じゃあお姫様抱っこして」

「重いから無理です」


 ……ああ、加賀美よ、加賀美。なんてデリカシーのないヤツ。

 加賀美君がさっさと立ち上がるので、仕方なくよろよろ立ち上がった。眠いだけだから思ったよりは歩けたけれど、加賀美君は私の腕を取って支えるように店を出る。


「タクシー呼びますか?」


 酔いも吹き飛ぶような冷気にも、加賀美君は動じない。私は首筋から入り込む風に身を固くして、どさくさ紛れに抱きついたけれど、それにも反応はない。


「ここからだとワンメーターにも満たないから歩く」


 いつもなら店からタクシーまでの数m歩くのも面倒臭いのに、本当は徒歩で三十分以上かかる距離を、加賀美君にくっついたまま歩き始めた。

 歩けるってバレているはずなのに、ぎゅっと支える腕を離さずいてくれるから、少しでも長くこのままでいたくて。空がきれいに見えるのは、空気が澄んでいるせいだけじゃない。


「平雪さんは、国松さんが好きなんじゃなかったんですか?」


 単純な疑問なのか、もっと別の感情が含まれているのか、淡々とした声からは読みとれない。

 落ちそうで落ちてくれない。届きそうで届かない。私の赤い果実。だけど「あの実は酸っぱい」なんて諦められない。絶対に甘いって知ってるから。


「なかなか進展しないから、強力なライバルでも現れたら落ちてくれないかなーって思ってね」


 引力が足りないなら、自分で引っ張っちゃおうかなって。アサハカな企みは一応届いていたらしい。


「落ちるっていうより、思いっ切り毒矢で射られた気分です」

「そのまま全身骨の髄まで毒されろ」


 白く吐き出されたその溜息に恋心は含まれているのか。その硬質な目に私だけが映ってるのか。知りたくて背伸びして手を伸ばすのも、もうそろそろ限界。


「ねえ、私のこと好き?」

「…………」

「『好きだ』って言え!」

「言いません。今は酔ってるから」

「なにそれ? こういうことは酔いに任せた方が言いやすいよ?」

「だからですよ」


 この人だって多少は酔ってるはずなのに、普段以上に真剣な目が、車のライトを反射するメガネ越しに見える。


「あとで『あれは酔った勢いだった』なんて言われたくないですから」


 言わないのに。酔った勢いだろうが一夜の過ちだろうが、結果的に君が手に入るなら、私は何でもいいのに。


「加賀美君は毒でも盛られない限り、『君の瞳に吸い込まれそうだ』とか『世界で一番きれいだよ』とか、言ってくれそうもないね」

「そんなこと言う男なんて国松さんくらいでしょう」


 どこまでも真面目で慎重で、確実に私の心を射抜いて、私の目にはもう君しか映らない。

 三十分は、溜息に溶けるようにあっけなく消えた。



 自宅玄関前でコートの袖を握って離さない私に、加賀美君は、


「帰りたいんですけど」


 とつれなく言う。


「帰らないでよ」

「困ります」

「困ってないで襲っちゃえばいいじゃない」


 朝起きたら全部夢で、隣に国松さんが寝てたらどうしよう。あのキスも、国松さんのものだったらどうしよう。このままじゃ怖くて眠れない。


「だから酒の勢いは嫌なんです」


 こんなに膳を据えているのに! なぜ王子・国松が狼で、地味なお前が紳士なのだ!


「もう入ってください。ほら、おやすみなさい」


 かなり強引に押し込められるから、さすがに諦めてドアに手をかけた。


「ありがとう。おやすみなさい」


 性懲りもなくノロノロとドアを閉める。10cm、5cmと狭まっていくドアの隙間から、怨みを込めてヤツを睨む。これで終わり。あと少しで終わり。君はやっぱり落ちてはくれない。

 ところが、ドアが完全に閉まる直前、加賀美君の手がそれを止めた。「夢じゃない」と安心させるようでいて、同時に「忘れさせない」と強烈に叩き込むような猛毒が、口移しで流し込まれる。


「……なによ、これ」

「俺もやっぱり酔ってますから」


 「じゃあ」と、今度こそ帰ろうとするコートの裾を、再びギュッと握って引き留める。


「これで終わり!?」


 加賀美君の指が私の髪の毛をスルリと撫で、隠れていた耳をピッと引っ張った。その冷たさで、自分の体温の高さがわかる。


「明日、聞き間違えないくらいはっきりと俺の気持ちは聞かせますから」

「期待していいの?」

「平雪さんこそ酔っ払いの戯れ言じゃなくて、真剣に応えてくださいね」


 呪いのように強い言葉と指の感触が、耳を通って身体の芯を熱くする。溶け落ちるように手の力が抜けて、その隙に本体は名残惜しさも見せずに帰ってしまった。

 もう、もう死んじゃう……。いや、まだ生きる! 少なくとも明日までは!

 玄関先で崩れ落ちたまま動けない。明日が早く来てほしいのに、やっぱり今夜は眠れる気がしない。


「あのヤロー……」


 このまま永遠に、君に墜ちていたい。






 fin.

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