フェアリーテイルによく似た
木下瞳子
第1話 マロウブルーの効能
そろそろいらっしゃるんじゃないかと思っただけで、タオルを畳む指がわずかに震えた。来て欲しいのに、来て欲しくないとさえ思ってしまうほど緊張する。
開店より10分遅い時刻。
ガラスの自動ドアの向こうにその姿が見える。嬉しいはずなのに溜息とも深呼吸ともつかない息を、何度も畳み直したタオルの上に吐き出した。
「いらっしゃいませ」
満面の笑みで迎えても、やっぱり少しだけ声が上擦った。それを悟られないように、笑顔だけは崩さない。
「おはようございます」
軽く会釈しながら、ふっ、と微笑む。その優しい笑顔に、固まったような心臓が苦しく動き出した。
「おはようございます!お好きなお席にどうぞ」
ハーブを扱う店内には、充満する様々なハーブの香り以外に、掃除したての清浄な空気と、一日が動き出す騒々しさが混ざり合っている。
ハーブそのものはもちろん、ハーブを使った化粧品やグッズを扱いながら、ハーブティーを提供するカフェ。お茶以外にもハーブを使った焼き菓子や軽食も提供していて、まずまずの人気を博している。
狭いカフェなので案内なんて必要ない。彼はいつものように窓際に3つ並んだテーブルの真ん中の席に座った。そわそわした気持ちで、ミントとレモンの風味がつけられたお水を運ぶ。
「マロウブルーティーをお願いします」
数日に一度いらっしゃる私の特別なお客様は、メニューをチラッと見ただけで注文を済ませた。
背筋をスッと伸ばしているから背の高さが際立つのに、落ち着いた声とやわらかな態度で威圧感はない。色素の薄い絹糸のような髪が、朝の名残のやわらかい光を受けて
「お待たせ致しました」
ポット入りのお茶と一緒に、蜂蜜漬けのレモンを置く。マロウブルーティーは青い色のお茶で、淹れたてから少し時間が経つと紫色に変化し、レモンを入れるとピンク色に変わる、まるで夜明けのようなお茶。
「ありがとうございます」
ゆっくりハーブティーを飲んで、軽く読書をして帰る。ただそれだけ。挨拶以上の接触などない。
紫色のシャツにデニム姿。会社員ではないみたいだけど、何してる人なのかな?
永遠に近づくことのない距離が辛くなってだいぶ経つ。有紀さんにも、
『勇気を出して踏み出してみたらどうでしょう?私も勇気を出します』
と背中を押してもらった。たくさん相談に乗ってもらったのだからいい連絡をしたい。せめて『前に進めました』と。
古瀬有紀さんはハーブティーの生産者だ。
初めて有紀さんの字を見た時、その美しさにびっくりして、ただの納品伝票だったのに捨てられなかった。数字や商品名といったごく短い文字でさえ、とても美麗で惚れ惚れとする。柔らかく流れるようなのに、迷いも揺らぎもない芯の強さを感じるとてもきれいな字。
それ以来、彼女からの伝票は、処理が終わって破棄する分まですべてとってある。
『とてもきれいな字ですね。ちょっと感動しました』
発注書の余白にそう書いて送ったら、
『ありがとうございます。なんだか恥ずかしいです』
と納品伝票の余白に返事があった。
毎回必ずメッセージをつけるようになって、いつの間にか文通に発展してしまった。ついには恋の相談までするほど。
『好きな人がいます。何も知らないのに好きなんです。こんなの、やっぱりただの錯覚ですよね』
『一目惚れはあります。莉亜さんは、自分のことを何も知らない人から好かれたら、迷惑ですか?』
『好意を持ってくださることは嬉しいです。だけど私の場合、相手はお客様なので、好きになっても仕方ないのに。バカですよね』
『打算がない、ということだと思います』
『打算ではありませんが欲はあります。最初は見るだけで幸せだったのに、もうそれだけじゃ物足りなくて』
『愛しいと思うものに手を伸ばしたくなるのは自然なことです。簡単ではありませんが。よくわかります』
『有紀さんも好きな人がいるんですか?』
『はい。近づく勇気も出せませんが』
会ったこともないのに、もう友達のような気さえしてしまっている。いや、こんな恋の相談をしているのは有紀さんだけだから、ある意味友達より親密かもしれない。
有紀さんの短い返信には、深い想いを感じた。その彼女が勇気を出す、というのだから、私もそうしたいと思う。
「ご馳走さまでした」
「ありがとうございます。650円です」
お財布から千円札を取り出す手を、じっと見つめる。日に焼けてはいるものの、指が細くて長く、いつも見惚れてしまう。おつりを渡す時に少しでも触れようものなら、顔が赤くなってしまうから困る。そういう手だ。
掌に乗せた350円を渡せずにいる私に、彼は不思議な顔をして待っている。
踏み出そう。
「350円とレシートのお返しです。それから、あの」
せめて、一歩だけでも。
「お名前を伺ってもよろしいでしょうか?」
彼は驚いたりせず、緊張を孕んだ静かな声で聞いた。
「理由を教えてください。もう少し、わかりやすく」
ああ、大体のことは伝わってしまったんだな。そうだよね、お互いに大人だから。
だけど、なんとなくの告白をなんとなく遠ざけることをしない。真正面から向き合うことを求められた。
「もっと親しくお話したいんです。あなたのことを何も知らないただの店員に好かれても、迷惑でしょうけど」
じわっと涙が浮かんだ目を細めて、精一杯の笑顔を向けた。すると、秋の陽光を背に受けて、ほとんどシルエットに見える彼の表情が突然くだけた。
「はあー、よかったー」
彼はカウンターに手をついて、崩れそうな身体を支えている。深く頭を下げたせいで、今まで彼によって遮られていた日差しが急にぶつかってきた。
「え?あの……。え?」
「莉亜さんは、自分のことを何も知らない人から好かれても、嫌ではないんでしょう?」
彼はポケットからペンを取り出し、レシートの裏側にサラサラと何か書き付けた。
「俺の名前です。ちなみに『ゆうき』と読みます」
「……嘘!」
やわらかく芯のある美麗な字で書かれたそれは『古瀬有紀』。
「なんとなく、女性に間違われてるのかなー、とは思ってました。ずっと名乗り出る勇気が出せなくて」
勝手な思い込みで、字がきれいなのは女の人だと思っていた。確かにハッキリ性別を確認したことはない。
カクン、と脚の力が抜けて床にへたりこんでしまった。
「莉亜さん!」
有紀さんはカウンターを回り込んで、私を支えるように掴んだ。至近距離で覗き込む目は、身体も心も逃げることを許さない。
「俺の名前は教えました。それで、莉亜さんの気持ちは?」
「全部わかってるくせに」
「ちゃんと聞きたいんです」
ズルい。私にばっかりズルい。
「有紀さんが好きです」
初めて声に出した名前は『ゆうき』と発音した。
「最初から全部知ってたんでしょう?」
「いや、莉亜さんが誰を好きなのか、なんてわかりませんでした。だから俺も勇気が必要だった。莉亜さんの背中を押して、相手が自分じゃない危険性もあったから」
私を包み込む身体からは、たくさんのハーブの香りがする。けれど店の香りとは違う。もっと濃厚で香ばしい、有紀さんの匂い。
「今度からは筆談じゃなくて、何でも俺に直接聞いてください」
有紀さんの作るハーブの中に、危険な効能を持ったものでもあるのだろうか。脳に響く言葉と有紀さんの香りは、私を完全に狂わせる。
「何でも直接聞いて」というから、その通り唇に直接聞くと一瞬だけ驚いて、けれど驚くほど強い想いを返してくれた。
まだ辛うじて残っていた朝の空気を打ち消すほどの、明けない夜のような深いキス。マロウブルーティーは気管支にも効くはずなのに、呼吸も心臓もずっと苦しい。何も知らない、空っぽだった私の両手は、すぐに全身有紀さんでいっぱいになった。
けれど、明けない夜なんてやはりないらしい。フィーンという自動ドアの音で反射的に離れ、私は慌てて立ち上がる。
「いいい、いらっしゃいませ!おおお好きなお席にどうぞ!」
来店された女性2人はお互いの話に夢中で、私の方は見ていない。
「平雪さん、素敵なお店知ってるんですね」
「ハーブは詳しくないけど、味はどれもおいしいよ。今度は灰川さんのおすすめのお店も教えてね」
「いいですけど、
ホッとしながらお水を注ぐ私の足元で、有紀さんは声を殺し、肩を震わせて笑っている。その表情は文字からは想像できなかったほど艶っぽく、『有紀さん』はやはり男の人なんだと感じられた。その目で見つめられていると思うと、トレイを持つ手も覚束なくなる。
「私はアップルミントティー。灰川さんは?」
「じゃあ、私はなつめ茶にします」
「ではアップルミントティーとなつめ茶、それぞれハーブチキンサンドのセットでございますね?かしこまりました」
注文を受けてカウンターに戻ると、もう有紀さんの姿はなかった。代わりに、さっき名前を書いてもらったレシートが残されている。
「おはようございまーす?」
出勤してきたアルバイトの子が怪訝な表情をするので、「おはようございます」と早口で答えて、急いで厨房の方に顔を向ける。
きっと今の私は、レモンを落としたマロウブルーティーのように、ピンク色になっているに違いない。
『仕事が終わったら迎えに来ます』
やっぱり惚れ惚れするのは、もう文字の美しさのせいだけじゃない。
fin.
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます