1-3:九条さん 1

 あの後、まだ用事があると言って明には先に帰ってもらった。

 いま文芸部の部室にいるのは文一人であり、他には誰もいない。

 文は手に持ったそれをじっと見ている。それは先ほどまで持っていた原稿用紙の束ではなく、一枚のプリント――入部届。


(……なんで、あの時……うんって言っちゃったんだろう)


 文が思い出すのは石上明が文を文芸部の部員だと確認した時の事だった。

 明は文を文芸部の部員だと思ったようだが、実のところ文は明と同じく文芸部を見学しに来ただけであり、まだ部員などではなかった。

 それになぜ「うん」などと言ってしまったのかは文と明の相性のせい、というよりもあまり人間関係を構築していなかったから文だから思わずそう返してしまっただけであり、その後も否定して訂正できなかっただけでしたかない。別にそれを訂正したところで咎められるわけでもないのに。

 そんなそれだけでも言うことの出来ない自分を文は嫌悪する、自分のこういうところが嫌で仕方なかった。


(……でも)


 このままなし崩し的に文芸部に入部して良いのだろうかと、文は悩む。

 明はそれを知っているのかそれとも気にしていないのかは分からないが、この文芸部にはひとつ大きな問題があることを文は理解している。

 それでも明がそう勘違いして、その約束を果たすためだけに文芸部に入部しても良いのだろうか、と。


(私が入らなかったら……あの人、石上くんも別の部活に入るだろうし……)


 話した時間は僅かだが、ああやって他人との距離を詰められるのなら無理に約束を守らなくても楽しくやっていけそうな気もする。それに自分なんかに無理に付き合わないほうが彼のためだとも文は考えていた。

 なので文は自分も無理してこの部に入らなくても良いのだろうと思い至り、それと同時に他にあてがないことも理解してしまっていた。

 なぜなら文自身、他に入りたい部活なんて特になかったからだ。

 この文芸部に足を伸ばしたのは思い入れがあったわけでもなく、それは自分が文章をそれなり書けるからそれで人と話せるのかもしれないと思って選んだだけだった。

 文はあまり他人と関わろうとしなかった自分を変えようとして、誰かと文章を通して関わってみよう、と。


 ――その試みはいきなり最初で躓いた、少なくとも文はそう思っている。


 この部室には文以外に誰もいない。

 彼女が来る前もそうだったし、こうして日が落ちてこようとしても来たのは石上明の一人だけだった。


(…………どうしようかな)


 文は途方にくれていた、自分だけしかいない文芸部で記入欄が空白の入部届を手にして。

 このまま小、中と同じようにどこにも部に入らずに、かといってそれで誰かと仲良く慣れるわけでもなく、一人で三年間を過ごすのかと考える。

 それが嫌だから文はこうして一歩踏み出してみた訳であり、それが分かっているのならどうするかは既に決まっているのだ。なのにこうしていまいち踏ん切りがついていない、思い切ることが出来ない自分自身が文は嫌だった。


 だから文は別の事を考えてみる。もし、このまま文芸部に入ったら顔を合わせることになるであろう人物のことを。

 石上明、同じ一年生である彼の事を文は考える。勝手に自分が書いた小説を読むような非常識な、そして文にとってはじめての読者のことを。


(あんなところに置いていた私も悪いけど……だからといって勝手に読むのはどうかと思う)


 思い出すと、その時に感じた羞恥心が蘇ってくる。明が部室を去ってから時が経ち、顔色は元に戻ったがまた赤くなりそうだった。

 だがそれに対して憤るかと思えばそういうわけでもなかった。全く怒ってないと言えば嘘にはなるが、それほどでもないという話である。

 怒る気力が中々湧いてこない理由については分かっている。言うまでもなく、考えるまでもない。

 だから文はそこからひとつ踏み込んで考えようとして、鞄にしまった原稿用紙の束をもう一度取り出した。


(あんなに、楽しそうに読んでくれて……そんなに良かったのかな)


 自分で読み直し、明がなにをそれほど評価しているのかはそれを書いた作者の文ではよく分からなかった。

 だが自分の小説のことを語る明のその表情は、あまりにも恥ずかしくてよく見ることはできなかったけれど、とても無邪気で楽しそうだったことは理解している。

 明のその時の表情を思い出すと胸の内が暖かくなる、そういった感覚を文ははっきりとはではないが感じていた。


(……うぅ……思い出すとなんだか、恥ずかしい)


 明の事を考えている内に元に戻ったはずの文の頬はまたほんのりと赤みがかっている。

 それは文の考えるとおりに羞恥かそれ以外のなにかは今の時点は分からないが、文にとって嫌なものではない。

 考えてくるともう少し石上明という男の子と話してみたい、関わってみたいという気になってくる。こんなことは文にとってはじめてのことだった。


(続き書いたら見せるって……約束もしちゃったし)


 思案の初めに気にしなくても良いと判断したものをわざわざ言い訳がましく文は持ち出した。完全に言い訳ではあるのだが文は認めはしないだろう。

 わざわざそんな言い訳を考えてしまうのは、文自身は寂しいのは嫌だと自覚はしているがそれで誰か個人と関わってみたいと思うようになるとは思っても見なかったからだ。それも同い年の男子相手に。

 だからこの場にそれを指摘する人間がいたとしても絶対にそれを認めはしないだろう。


(うん……決めた)


 だから結局のところ、答えは明と握手をした時と変わりはしなかったのだ。あれこれ考えてみたが、あの時にそうしようと思ったことに行き着いただけ。

 明がそうしたように勢いのまま書いても問題はなかったし、他に入りたい所もなかったからそのまま書いても良かった。

 勢いに任せられるほど強くもなく、かと言って他になにかあるわけでもない。どこまでも優柔不断で嫌いな自分。

 しかしそれでもそんな自分でも良いかなと少しだけ思えた。そんな自分を見つけて、少しでも認めてくれる人がいたのだから。

 もしかしたらこの決断は間違っていて後悔するのかもしれないけれど、いまの自分はそれでもいいと納得して決断することが出来た。

 そして文は空白の記入欄を埋めた。


 ――文芸部、九条文。

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