27話 薄闇の信頼
がらんとした工房には何もなく、私が動くたびに足音が反響する。
工房は第七住宅地区の小高い丘の中腹にある。使われなくなって久しいこの空間は、リベルの片隅で冷気ばかりを蓄え、朽ち果てようとしていた。
ここはひとりでいるにはあまりに寒い。
換気用の窓に陽の光はなく、霜で真っ白に凍りついている。
私は身をすくませて外套の中へと手を入れた。
今頃、コサメ達はカバネとの戦いに備えて待機していることだろう。
カバネはいつ現れるか分からない。予定より早く現れた場合は、もうすでに戦闘が始まっているかもしれない。
「ここは寒いな」
白い息が漏れる。
はっきり言って、今この時間は憂鬱だ。
カバネのことを考えるだけでも憂鬱なのに、肌を刺す寒さがさらに憂鬱にさせる。
そのせいか、母のことが頭から離れない。
母が死んだあの日、外は雨が降り続いていた。
何日も降りやむことのない雨は、私の心身を狂わせ、耐えがたい倦怠感を生み出す。それはあらゆる感覚が歪められていくようだった。
母はそんな私に紅茶を淹れた。
優しくも華やかな匂いは薄暗い部屋に色彩をもたらし、雨音に混じる母の声は固まった身体を解きほぐしていった。
安らかに横たわる私を見て母は微笑む。
「すこし、出かけてくるから」
そう言って母は永遠にいなくなってしまった。
母の死は私には事故として伝えられた。
しかし、私はそうではないような気がしていた。
その時点では、それはあくまで私の憶測に過ぎなかった。だが、周りの大人の慌ただしさや軍の将校である父の様子から、何かが隠されているのだと感じた。
それは程なくして裏付けられる。
「殺したのは間違いなくカバネだろうな。刺し傷の後がそっくりだ」
壁越しに聴こえた声。それは、屋敷に出入りする父の部下のものだった。
だが、それが分かったところで私に何ができたというだろう。
私は葬儀の後、母との思い出から離れるように家を出た。
カバネという名前を胸に刻んで。
「因果なものだ」
リベルに来る途中、セーハからその名を聴いたときは心底驚いた。
カバネという名前は影のように私に付きまとい、今こうして決定的な時を迎えようとしている。
結局は、いずれこうなる運命だったのだろう。どれだけ時がたっても母の記憶とカバネの影は私から離れることはない。
これもひとつの正解だ。
終わらせよう。背負うことになれてしまう前に。
ふっ、と辺りに影が差す。
私が窓を見上げると、まさに人影が窓ガラスを蹴破るところだった。
ガラス片が散り散りになって降り注ぐ。
凍りついたガラスは飛び込んできた人影を細氷のように包み込み、その黒を纏った女に神秘性を与えていた。
「また会ったわね」
赤い唇が緩む。
その肌は病的なほど白く、唇だけが色彩をもって覗かせる。
手には刃物を、瞳には余裕を。黒ずくめの女は何事もなかったかのように立ち上がった。
「カバネ」
ぞくりと悪寒が背筋を這い上がる。
足元が揺らぐような不安感が押し寄せ、心臓を握られているような心地になる。
「あなたには興味がないわ」
カバネの冷たく生気のない瞳が私に向けられる。
その目は何人もの死を見てきたのだろう。
もがき、苦しみ、懸命に生きようとした人たちが、その手であまりにあっけなく死んでいく様を。
「これで終わりだ」
「何が?」
「私も、君も。これで終わる」
恐怖は今も私の肌に染み入り、鼓動と震えに変わる。
しかし、今日はあの時とは違っていた。
カバネの表情、殺風景な工房、割れた窓から吹き込む冷気、空気から伝わるカバネの意思。私を取り囲む様々なものがよく見える。
黒い靄が視界を埋め尽くしていたあの時とはまるで違っていた。
「可哀そうだこと」
カバネが足を踏み込む。
ナイフには力が込められ、戦闘態勢が瞬時に整えられる。
しかし、それ以上カバネが近づいてくることはなかった。
カバネが振り向きざまにナイフを振り下ろす。
石を砕いたような音が響き、透明な塊が飛び散る。
「そういうことね」
砕かれたのは氷柱だった。間違いなく、コサメの魔法によるものだろう。
カバネは鼻で笑うと、私に向き直った。
その表情は先ほどと変わらない。白い肌には薄っすらと笑みが色づき、瞳は闇を飲み込んだような色をしている。
しかし、彼女が纏う空気は変わっていた。
先ほどまでの人をもてあそぶようなものとは違う、刺すような空気。
それは氷柱を叩き落とすだけではなく、その先にいるコサメさえも捕らえようとしているように見えた。
二発目の氷柱が壁から生え、カバネを襲う。
カバネは容易く破壊すると、その場から跳び退いた。
すると、さっきまでカバネが立っていた場所に氷柱が現れ、天井に向かって放たれる。
「あの子もしぶといわね」
間髪を入れずに次々と氷柱が放たれる。
カバネは自在に工房を動き回り、次々と氷柱を砕いた。
氷柱は破片となって床に転がり、冷気を放つ。カバネは破片を蹴ると、心底楽しそうに顔を歪めた。
「もう終わりかしら?」
「さあ」
「あなたは何もできないの?」
「生憎、私は魔法使いじゃない」
「ふうん」
カバネはつまらなそうな顔をすると、再び氷を蹴り上げた。
高く上がった氷が薄っすらとした光を浴びながら落ちていく。
氷は床に叩きつけられ、鈍い音を工房に反響させる。
音が響いて広がるように、氷は工房全体に広がり、みるみる床や壁、天井を覆いつくしていった。
「いいの? これで」
氷は工房のあちこちで氷柱を作り出し、完全に出口を塞いだ。
カバネは私が閉じ込められたと思っているのだろう。同情的に笑うと、ナイフをひらひらとかざして見せた。
「残念ね」
「いや、そんなことはない」
「強がるのね」
「じゃあ、せっかくだから一つ訊いてもいいか」
「なに?」
「あの雨の日の夜、なぜ私の母を殺したんだ」
カバネのくすんだ目が揺れる。
そして、ゆっくりとまばたきをすると、カバネは小さく息を吐いた。
「あなたのお母さんだったのね」
今、私の目の前に居るのはカバネなのだろうか。
それほどに、カバネは悲し気な目をしていた。
まるで何も知らない少女のように。
「でも、理由なんてないわ。殺し屋が人を殺すのなんて、そんなものよ」
「誰かを救うためじゃなくて?」
「そうね。そう思っていた時もあったかもしれないわね」
「今は違うのか」
「分からなくなったの。あなたのお母さんを殺した時から」
「何があったんだ」
「私はね、復讐のために殺し屋を始めたの」
そうして、カバネは自分の過去について話し始めた。
幼いころに受けた監禁や虐待、マフィアに売られてからの過酷な生活、人を殺す道具として扱われる日常。そのどれもが凄惨で耳を塞ぎたくなるものだった。
「それから、内部抗争の隙を突いて私はマフィアを脱出した。その時に決めたの、私と同じような子どもを助けようって。結局は復讐よ。私は復讐のために大人たちを殺してる。ただそれだけ」
「でも、ある時無実の人を殺してしまった。それがあなたのお母さん。別の男を仕留めて逃げる途中、血まみれの姿を見られて仕方なく殺した」
「そのとき、私は心のどこかで喜びが湧いてくるのを感じたの。それからよ、復讐のために殺しているのか快楽のために殺しているのかが分からなくなったのは」
それまで抱いていた疑問が解消された気がした。
快楽殺人犯としてのカバネと、繊細な女性としてのカバネ。
そのどちらもが彼女そのもので、カバネはその狭間で揺らいでいる。
「怒らないのね」
「むしろ安心してる」
「どうして? 無実の母親を殺されたのに」
「母さんが母さんのままだった、それだけで十分だ」
信じていたが、恐怖もあった。
それだけ、母にだけは裏切られたくないと思っていたから。
母だけは、誰かを虐げるようなことはしないと信じていたいから。
「私のことも殺すのかい?」
「そうね、殺すわ」
「でも、それはできない」
カバネがナイフを握りしめて殺気を向ける。
くすんだ目は私をとらえ、今にも闇へと引きずり込もうとしている。
「君には私は殺せない」
からん、と乾いた音が響く。
カバネから滑り落ちたナイフは、冷たくなった床の上に転がっていた。
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