8話 転生少女の記念日

 コサメは一人の少女の話をした。眼鏡屋にはその少女がいるのだろう。

 私は眼鏡屋に行くのが少し怖くなった。少女が今も心に傷を負ったまま暗い顔をしていたら、私はどんな顔をしたら良いのだろう。


「後の詳しいことは中に入ってから話すよ」


 目線を上げると、そこはすでに眼鏡屋の前だった。

 余程コサメの話に没頭していたのだろう。家からここまでの道のりはとても短いものだった。

 私はまだ心の整理がつけられずにいる。未完成のパズルを放置しているような気分だ。

 そんな私を置いて、コサメは眼鏡屋の扉に手をかける。

 ここで悩んでも仕方がない。私はコサメの後に続いた。

 店内は眼鏡で埋め尽くされ、右を向いても左を向いても眼鏡が並んでいる。

 上を見上げれば眼鏡型のランタンが私を見つめ、床に視線を落とせば眼鏡の模様が入ったマットが敷いてある。

 私が店の中を見回していると、店の奥からぱたぱたと足音が聴こえてきた。


「こんにちは、ペローナ」


「いらっしゃいませ」


 現れたのは丸眼鏡をかけた小柄な女性だ。大きな目と小さな身体はリスを思わせる。そして、なぜかは分からないが彼女はメイド服を着ていた。


「ん?」


 ペローナと呼ばれた女性は突然動きを止めた。ペローナは固まったまま神妙な顔をしている。

 ペローナは首と目を機敏に動かして辺りを見回す。

 一体どうしたのだろう。私が不思議に思っていると、ペローナは私を見つめたまま、ぴたりと動きを止めた。

 ペローナが力強く足を踏み出す。次の瞬間、私はペローナに押し倒されていた。

 しっかりと両腕を抑えられて身動きが取れない。ペローナはゆっくりと私の首筋に顔を近づける。

 もしかして危ない人なのだろうか。私は恐怖で血の気が引いていくのを感じた。


「嗅いだことが無い匂いがする」


「ちょっ、なにを」


 ペローネは私の首筋に顔を当てて匂いを嗅いでいた。


 すんすんすんすん。


 私の首筋を鼻は這っていく。息が当たってくすぐったい。


 すんすんすんすん。


 ペローネの髪が私の頬を撫でる。私はくすぐったくて堪らないが、終わる気配は一向にない。


「心配しないでください。危ないことはしませんから」


 私の耳元でペローネが囁く。

 やめてくれ、とは言えない。くすぐったくてそれどころじゃないのだ。

 今度は耳元で匂いを嗅がれる。息が当たってさっきよりもくすぐったい。


「ペローナ、そろそろ放してあげて」


 ようやくコサメが助け船を出してくれた。放っておかれたら一日中匂いを嗅がれそうだ。


「コサメさん、この人何者ですか?」


「その人は私のお兄ちゃんだよ」


「えっ、この人がそうなんですか?」


 驚いたペローナは私から顔を離した。ようやくくすぐったさが治まる。危うく気がおかしくなるところだった。


「そうだよ。さっき家に来たんだ」


「へぇ」


 ペローナが私の顔をまじまじと見る。どうやら、まだ匂いを嗅いでいるようだ。


「その、良かったら退いてもらえませんか」


「わっ、ごめんなさい! とんだ失礼を!」


 ペローナが慌てて私から飛び退く。正気に戻ったのだろうか。ようやく解放された私は身体を起こして埃を払った。


「その、そんなに変な匂いですか? 一応、清潔にはしているつもりなんですが」


「本当にごめんなさい。変な匂いとかじゃなくて」


「ヒソラ、許してあげて。この子の癖みたいなものだから」


「癖?」


「うん。この子は人の気配が匂いで分かるの」


 人の気配が分かる。コサメの話に出てきた少女もそんな能力を持っていた。この子がその少女ということなのだろうか。


「はい。なので人匂いを嗅ぐのが癖になってしまっていて」


「それで妙な匂いがした私に跳びかかったわけですか」


「ごめんなさい」


 ペローナは心底申し訳なさそうな顔をして頭を下げる。なんだか私が悪いことをしているみたいだ。


「でも、なんで跳びかかったりしたの? 普段はそんなことしないよね」


「いつもはこんなことないんですけど、気が付いたら跳びかかってました」


「つまり、普段ならあり得ないような行動を思わず起こしてしまったと」


「はい。誰にでも跳びかかったりはしません」


 良かった、被害に遭ったのは私だけだったようだ。てっきり、この店に初めて来る客は皆同じように洗礼を受けているのかと思ってしまった。


「でも、お兄さんからは嗅いだことのない匂いがしたんです。きっとそのせいで跳びかかってしまったんだと思います」


「それってどんな匂い?」


「甘くて優しい匂いです。ふわふわしてて思わず嗅ぎたくなるような」


「なるほど。いい匂いみたいだよ、よかったね」


「嫌な臭いだったらどうしようかと思ったよ」


 私はほっと安堵する。悪臭や変な臭いがすると言われたら、二度とここには来れなくなってしまう。


「それで、この子がコサメの会わせたかった人?」


「うん。この子の名前はペローナ。可愛いでしょ?」


「はじめまして。ヒソラと言います」


「先ほどは粗相をしてしまいすいませんでした」


「気にしないでください。この通り、私は大丈夫ですから」


 ペローナが例の少女だったのは予想通りだ。でも、ペローナは私が想像していた少女の姿とは幾らか違っていた。

 その表情には悲惨な過去の傷跡は見当たらず、その可愛らしい見た目はどこにでもいる女の子だ。

 メイド服なのはともかく、私はペローナの穏やかな笑顔に安心した。

 私はここに来るまで、少女が今でも悲しげな影を纏っていたらどうしようかと考えていた。私は救いの言葉の一つも持ち合わせていない。あるのは出まかせの慰めだけだ。


「用事があるって聴いたけど、どうかしたの?」


「そうなんですよ。ちょっと、相談したいことがありまして」


 ペローナはどことなく落ち着かない様子でコサメに近づいた。あまり人には聴かれたくないことらしい。


「席を外しましょうか」


「いえ、ヒソラさんも居てください」


 どうやら私には聴かれても問題ないようだ。呼び止めたことを考えると、私も関係しているのかもしれない。


「その、相談というのはライラのことなんです」


 ペローナの口から私の知らない名前が飛び出す。私はコサメを見て、説明を促した。


「ライラは、ここでペローナと一緒に住んでる魔法使いのことだよ」


「なるほど。例の魔法使いか」


 話の通り、ペローナを救った魔法使いは今でも一緒に暮らしているようだ。ペローナがこうして働いていることを考えると、ライラは相当の時間をかけて浄化をしたのだろう。


「ごめん、続けて」


「はい。もうすぐ記念日なので、私からライラにプレゼントをしようと思うんです。でも、何を贈ったらいいのか分からなくて」


「ああ、もうそろそろで一年だっけ」


「そうなんです。私の霧が晴れてから、もう少しで一年なんです」


「その記念としてライラに贈り物をしたいと」


「でも、ライラが喜ぶものが分からなくて」


 贈り物というのは本当に難しい。得てして相手への想いが強いほど空回りして選ぶに選べなくなってしまう。そしてその時になって後悔するのだ。その人の好きなものを書き留めておけばよかったと。


「この場合、何記念日と呼べば良いのだろう」


「まあ、私たちの業界では転生日って呼ぶことが多いかな。新しく生まれ変わるって意味で」


「転生日か」


「その日を誕生日にする人も多いみたいだよ。まさに生まれ変わったって意味で」


 霧から解放され罪を償う人たちにとって、その日は特別な意味を持つ日なのだろう。霧から救われ、かつての罪を背負いながらも生まれ変わるに等しい道を歩き始めたのだから。


「単に祝う、というわけでもないのか」


「どんな日にするかは人それぞれかな。仲間と美味しいものを食べに行く人もいれば、社会貢献活動をする人もいるって感じ」


「ペローナはライラにどんなことを伝えたいんだい?」


「私はライラにお礼をしたいんです。私はライラに助けられているから」


 私はペローナのその姿が美しいと思った。今のペローナを切り取ってライラに見せれば、それだけで素晴らしい贈り物だろう。


「ありきたりでけど、花は?」


「喜んでくれるでしょうか」


「私もよく貰うけど、嬉しいよ。花の種類からその人の人柄も見れるし」


 そういえば、セーハは花の形をした銀細工を大事に持っていた。たしか花の名はカモミールで、セーハは逆境に耐えるという意味があると言っていた。


「花が持つ意味で想いを伝えるというのもいいかもしれない」


「この場合は、感謝でしょうか」


「永久の愛、とかでもいいんじゃない?」


「えっと、それは、恥ずかしいのでまた今度にします」


 言葉に出さずとも想いを伝えられる、というのは繊細な人間には都合がよさそうだ。花言葉を作った人もそういう人間だったのかもしれない。ただ、そのせいで適当に花を贈ることは許されなくなってしまったのだろうけど。


「コサメはどんな花をもらっているんだ」


「ピンクのバラとかはよく貰うかな。感謝って意味らしいよ」


「なるほど。転生日に贈るには良さそうだ」


「ピンクっていうのが大事らしいよ。色が違うと意味も変わってくるらしくて」


「赤いバラだと愛していますって意味になってしまうんですよね」


「そうそう。私は金髪なのもあって黄色のバラもたまにもらうんだけど、これも全然違う意味なんだよね」


「そうなのか」


「黄色のバラには友情って意味があるんですけど、同時に嫉妬という意味もあるんですよ」


 花で想いを伝えるというのは思ったより難しいらしい。友情と嫉妬では随分な違いだ。まあ、直接言葉で伝えたとしても想いが伝わるかは受け手次第といったところだろう。


「私は綺麗ならなんでも良いんだけどね」


「もらう側としてはそれが正解かもしれないな」


 コサメなら何を渡しても笑ってくれる気がする。きっと、コサメに贈り物をする人たちはそれがわかっているから贈りたいと思うのだろう。


「他にはペローナらしい物も喜ぶと思うよ」


「私らしい物、ですか」


「ペローネなりの想いが伝わる物なら、きっとライラも嬉しいと思うな」


 自分らしさなんてものは不確かで曖昧だ。誰だって自分らしさを言い表せなんて言われたら戸惑うだろう。

 そう考えると、カモミールの銀細工を自分のように大切にしていたセーハはすごい。まるで自分の生き方をそこに見出しているかのようだった。

 私には私を表す言葉も物もない。ましてや、自分らしい贈り物なんて到底できそうにない。


「その、私らしいかは分からないんですけど」


 そう前置きをして、何かを言い表そうとしているペローネに私はどきりとした。


「お守り、なんかどうかなと」


「お守り? どうして?」


「その、ライラは戦うことが多いので。無事に帰ってくることができるように」


 ああ、この子は大切な人に何をしてあげたいのかを知っている。純粋で、切実な、途方もなく彼女らしい願いだ。


「そっか。それならいい案があるよ」


 コサメは自信ありげに胸を張る。素晴らしい結末を知っているかのように。

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