旧市街の魔法使い

1話 旅立ち

「あちらのヒソラ坊ちゃん、どうされるつもりかしら」


「なんでも、アクイア家に出されるんですってよ」


「まあ、可哀そうにねぇ」


「仕方ないわよ、あんなに病弱な子だもの、置いておくわけにもおかないでしょう」


「将校の家に生まれたばっかりにねぇ」


 私がクーロンの家を出たとき、屋敷の前から話し声が聞こえてきた。

 話しているのは隣家のバソバおばさんと家政婦のデデ。人の噂話をするならもう少し遠くでして欲しいところだが、言ったところで山ほど陰口を叩かれるだけだろう。

 今日で私は十四になる。私が生まれ育ったクーロンの家を出ることになったのは丁度半年前のことだ。

 私は父であるシド・クーロンに家を出たいかと尋ねられた。私は出たいと言った。即答だった。

 父は私に「養子に貰いたいと言っている家がある」とだけ告げた。どこの誰かも分からない。その家で何をすることになるかも分からない。家族が何人いるのかも分からない。

 何も分からなかったが、それでも私は家を出ると決めた。


 理由は単純で、あの家に居たくなかったからだ。

 別に居心地が悪いとかではない。こんなに身体が弱い私の世話をしてくれるところはそうないだろう。私にとっては居場所があるだけでもありがたいことだ。

 しかし、私は生家を離れることにした。

 クーロンの家に居たくない理由。それは母が死んだからだ。

 半年前、父が家を出たいかと私に尋ねたのは母の葬式が済んだ後のことだった。大好きな母が死に、心の支えを失った私はその提案に跳びついた。

 一時的な傷心で決めたと思われるかも知らないが、遅かれ早かれ私はあの家を出て行くことになったと思う。

 あの部屋は母との思い出が多すぎる。どこを向いても母のことを思い出してしまう。私は母が死んでから毎日泣いていた。母のいないあの家に居るくらいなら、いっそどこか遠くに行ってしまいたかった。


 父は十二の誕生日にアクイア家に行くように言った。私は今まさにクーロン家を出てアクイア家に行こうとしている。荷物は分厚いブリーフケース一つ。足取りは軽くもなく重くもない。

 父から渡された地図を頼りに私は道を進む。地図によると私の目的地はリベルという町にあるらしい。少し遠いため、馬車に乗った方が良さそうだ。

 大通りに出たら馭者に会えるだろう。私は住宅街の小道を進んだ。

 ずっと引きこもっていたとはいえ、生まれ育った町だ。塀の上で寝そべる猫、庭先に植えられた花々、太陽を遮るように建ち並ぶ大きな屋敷。もうここに暮らすことはないのかと思うと、どこか名残惜しい気もした。


 私が歩くたびに靴が石畳を鳴らす。

 静寂に包まれた道。静かだから儚げな気持ちになるのだろうか。ここにいると寂しさが景色に溶け出してしまいそうだ。

 早く大通りへ行こう。人の多くて音が溢れているところへ。喧騒は私の影を隠してくれるはずだ。


 歩くペースを速めると、なんだか騒がしい気持ちになった。石畳を踏み鳴らす足音や私の息遣いが絶えず耳を騒がせる。心拍数が上がり、冷え切った手足にも血がいきわたる。まるで時間に追われている人のようだ。不思議と心も慌ただしくなっていく。

 せかせかしている人はせかせか歩くからせかせかしているのかもしれない。では、私は薄暗い部屋にずっと居たから薄暗い気持ちになっているのだろうか。明るい場所に居たら明るい気持ちになるのだろうか。


 私がこれから暮らすところはどんな所なのだろう。昨日までの私は次に住む場所にあまり期待していなかった。無関心だったのかもしれない。でも、今は少しだけ期待している。

 どうか明るいところでありますように。


     *     *     *


 視界が開ける。馬車や人の声がまぶしいほどに私を包み込む。

 さあ、馭者を探そう。期待と不安を引き連れて。

 しかしながら大通りを行き交う人たちは皆慌ただしい。意気込んではみたものの、私のちっぽけな身体はみるみる人の濁流に飲まれてしまった。行きたい方にも行けず、行き交う人にぶつかっては舌打ちをされる有様だ。

 仕方ないから、私はふらふらとごみ箱の横へと退避する。道の片隅に立っているごみ箱。ここなら人にぶつかることもないだろう。

 しかしどうしたものだろう。私はぽつりと立ち尽くした。

 辺りを見渡すと、人も馬車も次々に私の前を通り過ぎていく。

 私も早く行かなくては。

 焦って足を踏み出そうとする。しかし、私はその足を止めた。私の前で立ち止まった人がいたからだ。


「どうした? 迷子か」


 その人は背の高い大柄な男性で、人の波をもろともせず人好きそうに笑って立っていた。


「馬車に乗りたいんですが、人が多くて」


「まあ、朝の人混みは子どもには厳しいわな。どっか行くのか?」


「リベルまで」


「おお! 俺も今からリベルに行くところなんだ。一緒に行こう」


 大柄の男は心底嬉しそうに笑った。


「俺、セーハって言うんだ。よろしくな」


 セーハは私に大きな手を差し出した。指が長く、綺麗な手だ。


「ヒソラと言います。道中よろしくお願いします」


「じゃ、行くか」


 私がセーハの手を握ると、セーハは強く握り返した。

 セーハは私を引っ張りながら力強く人をかき分けていく。それも決して乱暴にはせず、人の隙間を切り開くように。

 私はセーハの切り開いた隙間を進むだけで難なく道を通ることができた。

 こんな風に力強く引っ張ってもらった経験は記憶にない。不安定な自分を支えてもらう感覚は新鮮で心地よいものだ。私は出会ったばかりのこの大きな手を少しだけ信頼することにした。


 握った手が汗ばんできた頃、セーハが立ち止まった。私はずっとセーハの後ろに付いて背中ばかりを見ていたため、一体どこまで来たのか分からない。


「着いたぞ」


 セーハが私の手をほどく。セーハの後ろから顔を出すと、そこには馬がいた。


「ありがとうございました」


「気にすんな。子どもの世話をするのも大人の役目だよ」


 セーハは馭者にお代を渡すと馬車に乗り込んだ。長い脚を折り曲げて座る姿は窮屈そうに見える。


「ほら、突っ立ってないで早く乗れよ」


 馬車の中からセーハが手招きする。私はセーハとはここでお別れだと思っていたため、目を大きく開いてセーハを見る。


「ご一緒して良いんでしょうか」


「気にすんなって言っただろ? 子ども一人だと危ないし、せっかく目的地も一緒なんだ。二人で楽しく行こうぜ」


「ありがとうございます」


 おずおずと私が馬車に乗り込むと、馭者が出発の合図をした。馬車が動き出す。セーハは私の隣でご機嫌そうに笑った。

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