第5話 ⑤
それはまさしく人外同士の戦いであった。
縦横無尽に駆けるは【否定姫】。牛若丸を彷彿とさせる、獣めいた機動。しかしそれは本来彼女には必要のない動きだった。何故なら【否定姫】としての特性である【一期一会】により、相手は感知することもできずになぶり倒されるはずなのだ。
――――だが、その理すらも踏み潰してこその【言霊王】。
彼は肉眼で正確に彼女の姿を捉えながら、
「無駄なことを。“貴様が人間である以上”、私にあらゆる誤魔化しは意味を為さない。長年共にいて、そんなことにも気付かなかったのかね?」
【不可抗力】の前では、あらゆる防御あらゆる攻撃、あらゆる偽装は看破される。彼女はこれまでの間、一度も【言霊王】に近付けもしていない。
だったら、と彼女は【一期一会】の出力を最大限にまで引き上げる。――――瞬間、正真正銘世界が彼女を忘却する。空気も、光も、摩擦も。全てが彼女を擦り抜ける。潜水時のように呼吸ができず、像を結ぶための光が入らないため視力は失せて、摩擦を失ったことで滑るような移動で瞬時に男の背後へと回り込む。散々動き回っていたのは正確に空間把握を行うため。視界が封じられても、頭の中に描いた空間を頼りに動くため――――!
次いで【否定姫】はミクロ単位で出力を落とす。そうすることで摩擦力を取り戻し、不可認の拳を後頭部目掛けて振り抜いた。
ガンッ! と鈍い音が鳴った。――――【否定姫】の攻撃が、命中する皮一枚のところで弾き返された。ビリビリと、コンクリを思い切り殴打したような衝撃が感覚を痺れさせる。
「くっ……!」
「素晴らしい。一瞬とはいえ、私を欺いてみせるとは。即ちそれは人間を超越したということだ。うむ、それでこそ【十二使徒】だ」
素直に称賛し、一転して【言霊王】は攻勢に移った。
彼の攻撃方法は極めてシンプル。ただ腕を振るうだけ。動く必要も、ましてや狙いを定める必要性は存在しない。それだけで【不可抗力】は人間を世界の果てまで追いかけ、殺すに足るだけの威力を自動で生み出す。【修羅王】は自動で追いかけるだけだったが、【言霊王】の能力はその遥か上を行く。
ゴオッ!!!!!! と目視できない絶大な殺意が、形を為して射出された。
【否定姫】は視覚ではなく直感を頼りに横へと飛ぶも、ルートを捻じ曲げて彼女の後を追う。炸裂するまでその一撃は追尾を続ける。
観念したのか彼女はコキ、と指を鳴らして――――
「――――【否定】する!」
それと真正面から右手を激突させた。すると無色の一撃は突風へと性質を変え彼女の両脇を通り過ぎていった。
ずっとこれの繰り返しだった。【言霊王】が必殺の攻撃を放ち、【否定姫】がそれを無効化する。一見すると千日手にも見える戦局。
男の性質上、一撃さえも耐え得る者は有り得ない。しかし彼女はその有り得ないことを既に三十分以上も維持し続けている。
「重ね重ね驚嘆に値する。これほどの戦い、そうは経験できないだろう」
しかし男は、フッと失笑するように息を吐いた。
「――――だがその身体、既に限界に達していると見えるが?」
「ッ!?」
その指摘に彼女が思わず息を呑む。【言霊王】の攻撃がさらに苛烈さを増していく。
【一期一会】は通常、【言霊王】と同じようにオートで発動する。たとえばヤケクソに振り回した刀が彼女に当たったとしても、瞬時に無効化してなかったことにできる。だが男の強烈な一撃には適用されず、全力以上の霊力を振り絞って打ち消しているに過ぎないのだ。【言霊王】にとっては通常攻撃なので、【否定姫】の方が一方的に疲弊していくのは当然であった。
果てしない地獄の防戦が続く。今まで苦戦という概念さえなかった彼女にとって、始めての苦難が襲い掛かる。
――――そして。
立て続けの連撃のうち一つを打ち消し損ねた彼女の全身を、交通事故のような衝撃が炸裂した。小柄な身体が砲弾のように吹き飛ばされた。
「が、あ」
息ができない。細胞が一斉に破裂したのではないか、と誤認してしまうほど身動きが取れない。それでもまだ減衰した方である。男が手心を加えたのでなければ、直撃した身体はもれなく爆散して臓物を撒き散らすからだ。
「やっと止まったか」
遠目で地面に這いつくばる様子を見ながら、【言霊王】が優雅に近寄ってくる。
「存外手間取ったな。そうだな……あと貴様が五〇人ほどいれば、私も霊力切れで倒れていたかもしれん。こうして直に獲物を狩るというのは、なかなかどうして楽しいではないか」
「……、…………っ」
声にならない恨み言を口にする。目算では動ける状態に戻るまで残り十数秒はかかる。トドメを刺すには充分過ぎる猶予だ。
――――こういう時、人は走馬灯を見るのだろう。そうして自分の生涯を振り返り、案外悪くなかったと開き直るのだ。
だが綴町京子にはそれがまるでなかった。走馬灯により浮かび上がる思い出など、一つたりとも映らない。誰もが彼女を忘れたように、彼女もまた思い出せなくなっていたのだ。
その中であの少年の姿だけが、鮮明に浮かび上がってきた。綴町京子としての彼女も、【否定姫】としての彼女も知る、唯一無二の人間。何も恋焦がれていたわけではない。恩人ではあると同時に、自分が狂わせてしまった人間としての側面の方が根強く残っている。
もしも彼女がもっと強ければ、彼が忌避されるような事態にならなかったかもしれない。
もしも彼女がもっと強ければ、彼の道を誤らせずに済んだのかもしれない。
綴町にとって、あの少年は特別だった。今も昔も、それだけは変わらない。願わくば――――最期にもう一度、名前を呼んでもらいたかった。
全てを諦め、受け入れ、目を閉じようとした。
その刹那――――
「――――【一刀両断】!」
幾重にも折り重なった斬撃音とともに、凛とした声が轟いた。その声の主に目をやった【言霊王】の足場が切り刻まれ、崩壊によって崩れ落ちる。
突然のことに驚愕して固まる綴町。男への攻撃はそれだけに終わらなかった。
「【侵略すること火の如く】――――!」
炎の息吹が、崩落した先にいる【言霊王】を瞬く間に呑み込んだ。
逆ドーム状の穴に吹き込まれた火炎は地上に這い出ることができず沈殿している。あたかも灼熱風呂のように。
割って入ってきた二人組のうち、一人が綴町の傍まで駆けつけてきた。
「大丈夫か、綴町っ!?」
ボロボロな状態で倒れ伏す彼女の姿を見て、いっそ馬鹿みたいに慌てる少年。ハハ、と綴町は力なく苦笑した。その表情が、在りし日の記憶をフィードバックさせる。
そうだ、確か小学校四年生の時分。あの時も彼はそんな顔をして、上級生に苛められていた綴町を助けに入ったのだ。――――ただあの頃は「京子」と、下の名前で呼んでくれていたが。
「随分待たせて悪かったな。……もう大丈夫だ、ここからは俺が引き受ける」
見え見えの虚勢を張る姿も、いつぞやのそれと重なる。微笑ましく思えてくるのも、無意識的に余裕が生じたからであろう。
そうこうしているうちに、火の海から跳躍で脱した【言霊王】には煤一つ付着していなかった。恐らく熱いとさえ感じていなかっただろう。火そのものは自然ものだが、それを放ったのは他ならぬ護国寺(にんげん)なのだ。
【言霊王】は横槍を入れてきた二人を交互に見やり、
「健在ということは【修羅王】が落ちたか。それも柳生武蔵が元通りとなると、どれだけの醜態を晒したことか……。やれやれ。強さを求めるのも良いが、【十二使徒】としての矜持を持って行動してもらいたいものだ」
数の上では三対一ではあるものの、この場で未だ不利なのは護国寺たちである。たった三度、腕を振るうだけでともすれば【言霊王】は勝利を収めることが可能なのだから。
故に、これは純粋な勝負に非ず。
「――――残り十分少々。今日が終わりさえすれば俺たちの勝ちだ」
【十二使徒】が日本を粛清すると予告したのはまさに今日だ。つまり、今日さえ凌いでしまえば【言霊王】は人間に手出しできないのである。
要するに今から繰り広げられる戦いは、命がけの時間稼ぎ。
時間にして十分程度に過ぎないが、護国寺たちにとっては永遠とも感じる時間。
【言霊王】もそれに対し頷いて肯定した。
「その通り――――だが、軽んじるな。貴様らの前に立つは、全言霊師の頂点であることを義務付けられた【言霊王】。腕を軽く一薙ぎするだけで、万の命を奪う者」
言って、男は初めて戦闘態勢と呼べる構えを取った。
ス……と片手を力感なく掲げた。それだけの所作であるにも拘わらず、対面する彼らにはギロチンを想像させた。
【言霊王】は括目し、厳かな口調を以て告げる。
「我が神名、【言霊王】! 地球より賜りし言霊、【不可抗力】! 我が言霊を前にして、何人も抗うこと能わず――――っ!」
地球の僅か一点において。
もはや戦争と比べても次元の異なる死闘が、静かに――――されど確かに幕を上げた。
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