とある若者の戯れ言。(小説コラム集)

朝乃雨音

第1話 戯れ言。

 皆さんは純文学と大衆文学の違いが何か知っているだろうか。おそらく、殆どの人がその境界線がどこにあるかを答える事は出来ないだろう。幼少の頃より本を読み続けている私も、その境界線を明確に答える事は出来ない。

 では純文学と大衆文学の間に境界線などは存在しないのではないだろうかと思う人もいるだろう。だがそれは間違いだ。境界線は確かにそこに存在する。

 例えば、純文学作家と言われる村上春樹とライトノベル作家と言われる川原礫を比較すると、そこに明確な違いがある事は分かるだろう。文章力の違いであったり、構成の癖であったり、表現の違いであったり、両者には様々な違いが存在する。それには個人の癖による違いだけではなく、純文学とライトノベルというジャンルの違いから来る物も含まれるのだ。その中でも最も分かりやすいのが村上春樹の持つ表現力だろう。彼の小説を読んだ事がある人ならばその比喩のバリエーションに度肝を抜かれた事があるのではないのだろうか。多彩な表現を使いながらもテンポを保ったまま話を進めるその技術はまさしく一流であり、天才だ。

 しかし、もし村上春樹がライトノベルを書いたとしたらどうだろうか。おそらく、テンポが悪く妙に現実味のあるファンタジー小説となるだろう。それはもはやライトノベルではなく、村上春樹が書いたライトノベル風純文学であるのだ。

 では何故そうなってしまうのか。答えは至極単純だ。読者がライトノベルに村上春樹の味を求めていないからだ。ライトノベルの良さはテンポと独創性であり、純文学のように自分の糧にする物のではなく、現実を逃避する物であるのだ。そのため村上春樹の才能はライトノベルでは活きて来ないのである。

 そして、そこが純文学と大衆文学の境界線であると言われている。

 純文学が絵画であり、ライトノベルは漫画イラストと言えば分かりやすいだろうか。芸術性を求める硬い文章の純文学とは違い、ライトノベルは流行に合わせた読みやすい小説であるのだ。

 そうは言っても、大体の人はその境界線を曖昧に捉えているだけであり、きっちりとその線が見ている人などは殆どいないだろう。前述した通り、私も明確には見えていない。

 しかし、近頃そうは言っていられない状況になってきてしまっているのだ。


 知らない人もいるかもしれないが、元々小説とは戯作と呼ばれ、大衆向けの時代劇のような物語が主流であった。その流れに待ったをかけたのが一八八五年に坪内逍遙の書いた「小説神髄」である。結果生まれたのが写実主義を含んだ文学作品であるのだが、逆にその思想に反発を持った尾崎紅葉が娯楽性を高めた作品「金色夜叉」を一八九七年に発表し、それが後に純文学と大衆文学の土台となったのである。

 その後一八九三年に「文学会」で純文学が美的形成に重点を置いた文学作品として定義され、一九二四年には「講談雑誌」にて大衆文学と言う言葉が初出することとなった。

 これが純文学と大衆文学の成り立ちなのである。

 閑話休題、ここからが本題だ。

 そもそも、純文学が現在の芸術的な文学と言う意味になったのは、今から百年ほど前に芥川龍之介と谷崎潤一郎が小説に置ける話の筋の芸術性について対立し、そこで文学は文の芸術性を重視するべきだと主張する芥川側が、大衆文学と自らの文学を区別するために純文学と言う言葉を用いたのが起源である。即ち、純文学には話の筋の面白さはあまり重要ではないと言う事になるのだ。

 しかし、二千年前後から純文学の売れ行き不振と大衆文学の爆発的人気により純文学作家が大衆文学の物語性を取り入れだし、それと同時に大衆文学作家が芸術性を意識した物語を書き出したため、それまで芸術性に対する価値観の違いにより対立する事で線引きされていた境界線が急速に曖昧になってしまったのである。

 問題となるのはこれからどうしていくのが正しいのかだ。

 本来ならば、純文学作家の中から芥川龍之介や谷崎潤一郎のような人物が現れ、再び論争を繰り広げる筈であったのだが、悲しい事に現在の純文学界隈にはそれほどの体力が無いのである。

 そのため私たち若者の世代が、物語性の含んだ純文学と、文や心情変化が主であり物語性などおまけでしかないと考える純文学、どちらが純文学的であるのかを考え決めて行かなければならないのだ。

 私個人の考えを言えば、私は若者の一人としてはっきりとした境界線を作り、物語性を削ぎ落として文と心情のみで構成された物こそが純文学であると定義付けたいと思っている。

 言文一致の二葉亭四迷、自然主義を掲げた島崎藤村、写生文を広めた正岡子規、反自然主義の谷崎潤一郎と新現実主義の芥川龍之介、そしてその後現れた川端康成や横光利一、その全員が異なった純文学論を唱えていたのであるのだから純文学に正解などは存在しない。

 それを分かった上で私は断言する。純文学とは大衆文学とは相容れない物であり、物語性を必要としない物であるのだ。

 私は大衆文学と手を取り合って磨いて行く芸術性よりも、エゴイズムを含んだ譲れない物を磨いて行った先にある物こそが本物の芸術性だと思っているのである。


 結論付けると、私は若者達に選択をして欲しいのだ。

 芸術に終わりが無いように純文学にも正解は無い。だからこそ私たちは今の純文学の現状をしかと受け止め、どちらの道が正しいのかを選択していかなければならないのだ。

 そうすれば分かれた意見は衝突し合い、また新たな境界線が引かれる事となるだろう。

 それこそが純文学のあるべき姿だと私は思い、願っているのだ。

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