第三十三章

延命処置

 豊満な胸がそこにあった。

 いや、違う。正確に言えば、キャナが俺の部屋の入口の前でふわふわしていた。目の前のそれとふわふわしていたのだが。

「どうしたんだ、急に」

 そう問いかけるも、ニヤニヤと微笑むばかりで返答がない。尋常じゃなく喉が乾いているかのように口をぱくぱくとさせている。

 なんだ、何が言いたいんだ。興奮気味にわたわたとしていたと思ったら、突然抱きついてきた。何か言葉で言ってくれ。

「……できた」

 熱の入った吐息のような囁きで、耳元近く、短く、確かにそう告げた。

「ぁ、か、ちゃん」

 蒸発しかけた言葉尻で、ようやく用件の全てが整った。

「なに、それは本当か?」

 嬉々として返事をしたつもりだったが、沈黙。その代わり、身体全てを震わす勢いで首を上下された。言葉にもならないらしい。そんなにも嬉しかったのか。いや、俺にとっても嬉しいことだ。

 これでようやくして、人類の残された僅かな女性陣は皆、懐妊することができたのだから。

 よくよく見れば、キャナはじとりと汗ばんでいる。

 よほど慌てて飛び出してきたようだ。それこそその情報を知って、いち早く伝えるべく感情が高ぶっていたと見える。キャナの喜びようがよく分かった。

 ナモミは大はしゃぎだった。プニカに至っては踊り狂っていた。それに比べるとかなり大人しいように思える。三者三様、喜び方がここまで異なるのか。

「おめでとう」

 そう、言葉を添えて、キャナの身体をギュッと支える。

 これから無事に出産できるかどうかの問題も抱えているが、それよりも何よりも、今はただ、この言葉を贈りたかった。

「ふぇへ……ふぇへへへへぇ……」

 顔面を真っ赤に紅潮させながらも、ふにゃふにゃの顔でとろけた笑い方をする。

 幸せの絶頂で感無量という感情が表情にそのまま出ている。

 心なしか、涙も浮かんでいるようにも見えたくらい。

 会話のない時間がしばらく続き、ようやくして心が落ち着いてきたのか、キャナがふわふわと距離を空ける。

「もう心残りないなんて思わんでよ? ゼックンの話も進めんと」

 仕切り直したつもりなのだろうが、顔はまだ微かにニヤついている。

「ああ、そうだな」

 俺の問題。それは延命処置に関することだ。

 残りの寿命はもう短い。しかし、それを少しでも延ばせる、そんな手段があるのだという。自然の摂理に反した倫理観のない考え方ではあるが、これには逆の観点からの考え方もある。

 そもそも俺という存在は人工的に生み出された存在であり、生命としてはある種、自然の摂理だの倫理観だのに対する冒涜の領域だとも言える。

 この計画は、そんなねじ曲がっている俺の命を正常化する、という見方をすれば整合性がとれるということだ。

 信仰している宗教は今のところはないが、生きるということはそれだけで罪深く、こうして生きているということは罪滅ぼしなのだ、という教えもあるらしい。

 苦行を積み重ね、徳を積み、その命を全うしたとき、極楽浄土へと行ける、などといったそういう思想もあったとか。

 ならば、破壊者としての名を馳せた命の冒涜者たる俺は、世を去る前に少しでも生き長らえて、その罪を償っていかなければならない。

 それでも決して生きているうちに全てが贖えるとは到底思えないが、これが今の俺の導き出した答えだ。

「なんか、ゼックン壮大なこと真面目に考えとるかもしれんけど、うちはただゼックンともっと末永く付き合いたいからこの提案をしたんやからな?」

 何か、心の中を見透かしたかのように渋そうな顔で睨まれた。

「ああ、分かってる。進捗はどうなっている? 秘密裏に事は運んでいるのか?」

「うちもあんま隠し事とか好きやないんやけど、まあ大丈夫なはず」

 お前のその言葉は何かの冗談じゃないんだろうか。多分、今現在『ノア』で一番隠し事を抱え込んでいるのはお前だと思うのだが。

「そうか、それなら何よりだ」

 この計画を大々的に公表するのは些かリスクが高い。

 人類の延命処置というもの自体の確立も生命に対する倫理観を破壊しかねない。

 ひょっとすれば機械民族マシーナリーからの目が入り、現状の絶滅危惧種保護観察員が解体される恐れすらある。

 それに、ナモミやプニカにこれ以上の心配を掛けさせたくないというのが一番の理由だ。せめてあの二人には何も知らないままでいてほしい。

 なかなか無茶な話ではあるのだが。

 そもそも延命が確実に成功すると決まっているわけではない。

 余計な心配を煽って、そして失敗したときの落胆は計り知れないものだろう。悲しみに打ちひしがれる二人にこれからの人生を歩んでもらうなんて酷な話だ。

 今のところ、この計画は俺とキャナ、そして一部の機械民族で動いている。

 いずれ管理者として強い権限を持つプニカにも手を借りることになるのだが、それをどの程度まで誤魔化せるか。

 もうすぐ俺は死ぬから、などという爆弾発言を吹聴するわけにもいかない。

 現状俺たちには人類の繁栄のためという強い名目がある。延命処置の申請についてはこの話で何とか押し通すことはできるだろう。

 聞くところによれば、機械民族の面々でも特に身の回り、すぐそばで日頃世話になっているエメラ、ジェダ、ネフラの三人はとっくの前に俺の寿命についてを把握していたらしく、そちらもそちらで秘密裏に計画を立てていたらしい。

 ひょっとすると、あまりのんびりしていればプニカにも俺の余命の情報がバレてしまう、あるいは既にバレてしまっている可能性も否めないのだが。

 今のところは健康診断でも状態は良好を示している。

 何も俺も奇怪な病気を抱えているわけじゃない。そこから疑い始めていかないことには俺の寿命が明確に数値化されることはないだろう。

「寿命延びたら、ゼックンももっと今より笑うてくれんかな」

「ん? なんだ、何か言ったか」

「別に何も」

 何をふれくされた顔をしているのだろう。

 やはりキャナには水面下で物事を動かしているこの状況があまり気にくわないのかもしれない。誰かのためを思って、誰にも心配を掛けないために、などという名目は結局のところはエゴでしかなく、しばしば余計なお世話にしかならない。

「ゼックンもあんま根詰めんといてや」

 早速こうして一人分の心労を抱え込んでいるのだから世話ない。

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