キャットファイト (後編)

 キャナの視界の中からビリアの姿が確認できなくなった。

 その瞬間、談話室の天井近くを浮いていたはずのキャナの目の前に何故かズタボロに引き裂かれた絨毯があった。否、絨毯がキャナの目の前にあったわけじゃない。キャナが絨毯の前まできただけだ。

 背中からの衝撃と、顔面を覆う打撃に遅れて気付く。どうやってかを考える前にキャナは理解した。いつの間にか飛んでいたキャナの背後にまで距離を詰めていたビリアによって叩き落とされたのだと。

 顔面を殴打し、キャナの鼻先から血がしたたる。腕を伸ばす。指を曲げる。何も起こらない。目の前の綿くず一つ、びくともしない。

 床を蹴る。キャナの身体が跳ねる。だが、宙には浮かばない。もう一度床にビタンと自らのたうち回るだけ。

 超能力が、機能しなくなっている。

 キャナは自分が二本足で立つ方法を忘れてしまったのだと思った。膝が折れたまま、力が入らない。手も震えて、足も震えて、視界の全部が歪んで見えた。

 ズズズと鼻をすすり、血を飲み込んで息を吐く。残ったものを振り絞るように。

 両膝をついたまま、両手を広げて、羽ばたくように後ろから前へと振り回し、自分の目の前でパシンと叩く。

 その挙動はなんだったのか、天井の方から腕も足もピンと伸びたままの姿勢のビリアが頭を先にして落下してくる。

 全く受け身のとれていない棒きれのような格好で、ソファもない、綿くずもない、狙ったかのように固い床の上、鈍い音を立てて衝突した。

 キャナがむせ返った。口から血が咳の代わりに出てくる。ゲホゲホと、血のかたまりが、吐き出される。手元を押さえたところで止まりはせず、手の甲ごしに指の隙間から血がもれてくる。

「なんやねん……もぅ……」

 キャナがよろめく。

 その真正面から、這うように四つ足でソレが迫ってくる。

 前のめりだったキャナは後ろに倒され、そのまま仰向けになる。その両肩を押さえつける獣の腕はもうあまり力が入っていない。

「グルルルゥゥ……」

 ビリアは唸り声を響かせるも、何処か打ち所が悪かったのか、焦点が定まらないようで朦朧としている。よく見れば額からも血が流れ出しており、手足の挙動も何かおかしい。

 キャナを下に、ビリアが覆い被さる、そんな体勢で、どちらも固まったように動かない。体力の消耗はお互いに限界なのかもしれない。

「妾だって、本当にすまぬと……思っておるのじゃ……」

 血ではない何かがしたたり落ちる。

「どう贖罪すればいいのじゃ……許されなくてもよい、ナモミを、助け……」

 目も虚ろに、言葉尻も弱く、呂律も崩れ、嗚咽混じりで途切れ途切れになって意味が繋がらなくなる。何を言いたいのかは言葉では分からない。しかし、その目を見れば分かる。

 繰り返し、繰り返し、繰り返し、ただ同じ言葉を壊れたように延々と訴えかけている。ごめんなさい、ごめんなさい、ごめんなさい、と。口では確かに言えていないのかもしれないが、そう明瞭に聞こえる。


「おいおい、こりゃあ一体何事だぁ!?」

「キャナ姉さん! ビリア姫様! ご無事ですか!」

 ようやくして、駆けつけてきたブロロとシルルの目に映るのは、豪華絢爛な談話室などではなく、荒れ果てた無残な部屋だった。台風でも巻き起こったのか、猛獣でも暴れ回ったのか、あるいはその両方か。

「とんでもねぇ喧嘩だなぁ、おい」

「ブロロ、余計なことはいいから早く二人を手当てして救護室へ運ぶのよ」

 その場で状況を把握する。事の発端も理解できている。その一部始終も分かっていた。それでも、ここまでの有様だったことはさしものマシーナリーでも予測できず、混乱さえする。

 この場にはいなかったが、何処ぞでエメラが顔に手を当てていた。

 同じく、この場にはいなかったが、何処ぞでネフラもおろおろとしていた。

 この場にいるブロロとシルルの二人は早急に部屋の中央で互いを抱き合うように倒れている二人を回収する。どちらも気を失っているようだった。

 大事には至っていない。ちょっと血まみれで意識不明になっている程度だ。驚くほどの外傷はない。命に別状もなく、現状ある技術や設備を用いれば容易に治療できる範疇だということに二人共安堵していた。

 著しく体力が消耗している程度で済まされているのは、元々施されていたプロテクトによるもののおかげだろう。逆を言えば、それがなかった場合、二人の肉体は原形を留めていたのかどうかも定かではない。

「よし、応急処置完了。血も止まったし、骨も大丈夫みたいだ」

「ポッド、セット」

 シルルが唱えると壁から大きなカプセル状の何かが二つ、突き出してくる。

 二つともパカリと開き、すぐさまそれぞれのポッドに二人を乗せる。すると弾丸のように発射され、元の壁へと呑み込まれていく。

「いやぁ、焦った焦った。女って怖いもんだなぁ」

「ブロロ、ソレ私に言ってますの?」

 事は迅速に済まされ、二人が部屋に入ってから数分と立たず、事態は収束した。

 そして、さらに数分も後には、散らかっていた談話室も、あたかもそこでは何もなかったかのように片付けられ、元の通り、小綺麗な部屋となっていた。


 ※ ※ ※


「おぬし、意外と強いのう」

 白い天井を眺めながらベッドの上でビリアがポツリと呟く。

「姫様に直々に褒められて光栄や」

 同じく天井を眺め、鼻をすすりながらキャナが返す。

「おぬしが雄であったならゼクラの次に子が欲しかったところじゃ」

「冗談でもそれは勘弁したってや。うちはただの女の子やで」

 ビリアがクスクスと笑う。普通の女の子と呼べる要素ははたしてあったのか。

「妾に手傷を負わせられる輩がどれだけおると思っておるのじゃ」

「……なぁ」

「なんじゃ?」

「他の連中はどうだか知らん。でもこれだけは言っとく。うちは姫様を許したるわ」

「……ありがとう」

 ほんの僅かな時間、二人の間で、はたしてどれくらいの心境の変化があったのかは、二人にしか分かりようもないことだ。

 少なくとも言えることは、大した喧嘩ではなかったということだ。

 そう、あえていうなら、仔猫同士のじゃれ合い程度の喧嘩だったのだろう。

 もうとっくに、二人の中では心配事はただ一つ。正体不明の連中にさらわれて、何処かへと消えていったナモミの行方のことばかりだ。

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