第八章 儲けが発生するなら、そいつは別格ってもんだ

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 鎌倉とアイロン・ワークスは、工場棟裏のサッカー部のグラウンドにいた。

 アイロン・ワークスはナイター用の照明の下で、工場棟から電源を引いて、持参したアンプに、接着剤が完全に乾くまではと、辻村が貸し与えたギターとベースを繋げ、ドラムをセッティングして明日のステージの練習をしている。

 鎌倉は蚊取り線香を焚いて、空気の抜けたサッカーボールを椅子代わりに座り、アイロン・ワークスの演奏に耳を傾けた。

 何度も繰り返し練習するたぁ、殊勝なこったな、外人。真面目に練習する奴ぁ、ロッカーになんぞ向かねえよ。それよりか、火を吐く練習でもしといたほうが、客寄せになるってもんだ。明日、舞殿の前で演奏しても、足を止める奴は、少ないと思うぜ。まあ、演奏は上手いし、メロディー・ラインだって悪くねえけどな。

 鎌倉の視線に気付いたロイドが、演奏を止めて英語で話しかけてきた。鎌倉を気遣っている様子で、ダニーやエリックも、演奏を止め、どうにか会話しようと試みる。

 おい、外人。日本人みたく、必要のねえ気を遣うんじゃねえよ。揃いも揃って、全員、愛嬌のある犬みてえな、超お人好しって感じの顔しやがって。俺はな、静工の中を走り回って、売れる鉄材を集めて疲れてんだ。話し掛けんな!

 鎌倉は眉間に皺を寄せ、肩を竦め、手を横に振る。

「ノーだ。俺、ノー、イングリッシュ。アイム、アー……眠い、うん、眠い。分かる? ね、む、い、の! エー、あっ、ハングリー、だから、ミュージック、レッスン、ゴー」

 アイロン・ワークスは深く頷き、にっこりと笑って、バッグの中からポテトチップを鎌倉に渡した。

 は? 俺、ポテトチップ食べたいなんて、一言も言ってねえけど。まあ、タダでくれるなら、貰っとくけどよ。礼は言わねえぞ。お前らが勝手に寄こしただけだからな。

 ポテトチップの袋を開け、ガサガサと食べ始める鎌倉を見て、アイロン・ワークスは満足そうに頷き、再び演奏を始めた。

 何度も何度も、グラウンドを何周、何十周もするように、練習は続いていた。夕暮れから夜中まで、きっとこの調子なら夜明けまで練習は続くだろう。

 最初は、渋滞中に車内のカーステレオで繰り返し流れるアルバムCDのような、気分を紛らわすものがないから、仕方なく耳を傾ける程度の音楽だと、鎌倉は思っていた。

 しかし、繰り返せば、繰り返しただけ、音楽の振り幅は広がって行く。ドラムとベースが基礎を築くリズムに、ギターの縦横無尽なメロディーが重なる。意味は分からないが、流れるような歌詞は、大きな川を見ているようで、漠然と心地良い。

 悪くねえ、いい、メロディーラインだ。

 鎌倉は背中でアイロン・ワークスの演奏を聞きながら、素直に思った。朝に聴けば、重いバスドラムが目覚まし代わりにガツンと脳ミソに刺激を与えるし、昼に聴けば、ベースが体や心を奮い立たせて、人が活動するための原動力になるだろう。夜に聴けば、ギターのトレモロが郷愁を誘い、涙を零す奴だっているかもしれない。

 ミュージック・チャンネルで特集されているプロ・ミュージシャンの音楽よりも、ずっと肉厚で、技術が伴っている。

 鎌倉はポテトチップを食べながら、上半身を捩じって振り返った。アイロン・ワークスが、笑いながら演奏していた。力一杯、ライドシンバルを叩くエリックに、指で弦を弾き続けるダニー、顔から汗を垂らし、夜の闇を発くように必死になって吠えるエリックを見て、鎌倉の頬も自然と緩んだ。

 お前ら、本当、ロックンロールが好きだな。見たことねえや、そんなに楽しそうに演奏するやつ。楽しそうでも、なにかに吠え散らかすっつうか、負けねえぞ! っつう演奏も、今まで聴いた音楽の中で、一番尖ってて、俺は好きだぜ。

 お前らの演奏でよ、歌ったら楽しそうだな。きっと、乾いた地面に水がスーッと入って行くようによ、馴染むんだろうな、音が。……ま、って言ってもよ、九十九点だ、お前らは。馬鹿にしてるわけじゃねえよ、でも九十九点だ。お前らのことを知らない人間を、たった一曲で観客に変えちまう、一点が、足りねえんだよ。俺には、その一点がなにか分かんねえんだけどよ、きっと明日の客は、一点が足りねえことにすぐさま気付いて、なぁんだってなっちまう。

 俺には分かるんだ。ある程度、ライブに関わってきたからな。

 まあ、いいぜ。俺が言うのもなんだが、お前らは若いからよ。下手の横好きなオッサンのロックンロール同好会じゃねえんだ。明日が駄目でも、未来っつうもんがあんだろ。オンボロ商店街の連中に励ましてもらって、イギリスに帰って、借金取りと戦って、ライブして有名になれ。お前らなら、禿げる前くらいには有名になるんじゃねえの? 

 鎌倉はポテトチップを頬張りながら、人気のないグラウンドを、ぼんやりと眺める。

 校舎がクソボロいところと、グラウンドが無駄に広いところは、俺が卒業したときと全然、ちーっとも変わってねえなあ。野球部のネットが破けて裏の弁当屋に四六時中ワープできるのもそのまんまだし、陸上部の砲丸が平気で転がってやがるし、テニス部の壁のチンコの落書きもそのままかよ。直ったのは、サッカー部がボールぶつけて倒した水子の供養碑だけか。そういや、夜中に頻繁に子供が啜り泣く声が聞こえるって、井川のセンコーが訴えてたっけか。そいつはテメエが粛清した生徒の生霊だよ、って脅したら、殴られたんだった。そうだった、思い出した。

「ファックだな、静岡工業高校、我らが母校」

 鎌倉はポテトチップ片手に、スーパーのビニール袋に入れて地面に置いた鉄材を引き寄せた。

 ファックつっても、まあ、金になりそうなジャンクは結構あったから良しとするか。そんでもって、あとはもう少し経って、大バカ鳥居どもが疲れて大人しくなったら、工場棟に入って、ジャンクを探すとするか。

 鎌倉は座ったまま、上半身を捻って煌々と明かりが灯る工場棟に視線を向けた。

 午後七時を過ぎて、二階の製図室の明かりが消えたくらいから、工場棟から歓声が響くようになった。

 沸き起こった歓声を打ち消すように、新たに起こる歓声に、鎌倉は鼻白む。膝の上に肘を置き、頬杖を突く。

「はいはい、お前らの技術は、金玉袋が縮み上がるくれえ、凄えよ」

 高校三年生のとき、煙水と旋盤チーム、辻村の腕で、かなりの金額を稼がせてもらったからな。大鳥居の熔接技術だって、目を見張るもんがあることぐらい、大学の噂で知ってらぁ。教授どもが「是非、我が学科に」って、手薬煉を引くどころか、綱引き合戦だ。

 優秀なんだよ、お前らは。優秀で、人生ってやつに脳天から爪先まで一直線に軸が通ってる。そんでもって、お前ら全員、お人好しの大馬鹿だ。その優秀なヤツらが、金が稼げるほどレベルが高いその技術を、なんの惜しげもなく、無料で、見返りもなんもゼロの状態で、将来性もゼロのロックバンドに、貧乏商店街総出で、一点集中型で注ぎ込むなんて、何度じっくり考えても、狂気の沙汰さ。一度ばったり死んで、灰になって、生まれ変わったって狂気の沙汰だと思うぜ、俺は。

 そこに儲けが存在するなら、話は別だけどな。

 鎌倉はポテトチップの袋を傾け、残りカスをザカザカと口の中に流し込む。脚に力を入れて、勢いよく立ち上がる。両手でポテトチップの袋をぐしゃぐしゃと丸め、振り被って、歌いながら前方へ放り投げた。

「正直もーんが、バッカを見るーっ」

 ポテトチップの袋は、放物線を描いて短距離を飛んだものの、夜風に押し戻される。袋は球形を崩し、袋にへばりついたカスを散らしながらカサカサと地面を転がっていた。ところが、突如として巻き起こった起こった突風に舞い上がり、鎌倉の顔にバサッと覆い被さった。鎌倉は顔にへばり付くポテトチップの袋を剥ぎ取ろうとした。だが、向かい風を受けて、覆面のようにピッタリと顔に密着している。おまけに指が袋の表面の食品油で滑って、上手く掴めない。段々と苦しくなる呼吸に、鎌倉はその場にしゃがみ込んだ。

 背中を丸くして、向かい風を遮りながら、ジーンズの膝で油塗れの掌を拭いて、ポテトチップの袋をべりべりと顔から剥がす。鎌倉が袋を投げ捨て、大きく息を吸い込んだと同時に、示し合わせたように突風は治まった。

 ちっくしょうめ、風! ふざけやがって! ああ、ったく、危なかったぜ。ポテトチップスの袋で窒息死だなんて、最強にカッコ悪ぃじゃねえか! あーもう……顔中が油でギットギト、コンソメパンチの香ばしい匂いがしてらあ。

「ゴミ、飛んでいますよ~」

 鎌倉の背中に、空気の抜けたゴムボールのような、弾力のない声が当たった。

 鎌倉は、ぎょぎょっと背筋を凍らせる。

 え、まさか、水子? 水子の霊? うっそぉ、止めろよ……。ボールぶつけたの俺じゃないモン。当てたら千円やるって、サッカー部に嗾けたのは俺だけど。ちょっと待て、呪文を唱えるから……アーメン、ラーメン、南無阿弥陀仏、アブラカタブラ、えーと……ビビデバビデ、ドーマンセーマン……。

「っしゃあ、水子の霊、さあ、来いっ」

 鎌倉が勢いよく振り返ると、そこには作業着姿の煙水中が立っていた。

 なんだよ……やっぱりかよ。紛らわしいんだよ。

 煙水中の背景には工場棟の明かりと、ナイター用の照明が煌々と輝いており、怯えていたせいで作業着の風体でも、弥勒菩薩のように神々しく見える。煙水中は、夜風を受けてカサカサと地面を走るポテトチップスの袋を拾い上げ、鎌倉に差し出した。

「どうぞ。捨てるなら、近くにコンビニが在りますよ」

 はあ、そりゃあ、ご丁寧にどうも。すいやせんでしたねえ。お手数をお掛けしましたぁ。

 鎌倉は煙水中の手からポテトチップの袋をふんだくると、ジーンズの尻ポケットに捻じ込んで、煙水中を睨み付けた。

「なんだ。ゴミ捨てた俺に説教垂れに、わざわざ作業を中断して来たのか」

 煙水中は無表情でさらりと返す。

「まさか、そんな無駄なこと、しませんよ」

 ふうん……ってお前、今、凄く、俺を傷付けること、さらりと言わなかった、ねえ?

 煙水中は、発言に少しばかり狼狽する鎌倉をよそに、上着の胸ポケットから掌の大きさほどのビニール袋を取り出した。ビニール袋の口はジッパーで留められ、中には銀色に輝くものが入っているようだ。鎌倉は仄暗い中で目を凝らし、煙水中に聞く。

「おい、それ、なんだ?」

「どうぞ。無料で差し上げます」

 鎌倉は「無料で」に、つい反射的に両手を出してしまった。ビニール袋を右手の人差指と親指で摘み上げ、繁々と見る。

 銀色に輝いてるけど……もしかして、銀……なわけ、ぜーってぇ、ねぇよな。軽さと色からして、どう考えてもアルミだ。ああ、なんだ、人差し指の爪くらいの大きさのアルミの歯車やら細かいネジやらが、ビニール袋の中にギッチギチに詰まって入ってやがるのか。

「こんなもん、欲しかねえよ。こんな歯車やネジが、なんの役に立つってんだ。せいぜい、ミニ四駆の改造ぐらいじゃねえか、よっ!」

 鎌倉は右手にビニール袋を握り、左足で一歩前に踏み込んで煙水中に豪速で投げ付けた。煙水中は颯爽と後方に二歩、タタッと下がり、左手を翻して素早くビニール袋を受け止めた。次の瞬間、右手に渡し、鞭のように腕を撓らせて投げ返す。ビニール袋は直線に軌道を描いて、鎌倉の鳩尾へ命中。鎌倉は「ハフンッ」と短い悲鳴を上げた。

 煙水、てめえ、こんにゃろうっ。十代の体力を存分に発揮して、大学生相手に全力投球しやがって。大人げねえとは思わねえのか。

 鎌倉は鳩尾の衝撃に体を「く」の字に曲げ、必死に呼吸をするべく、大きく息を吐く。顔を上げ、煙水中を睨み付け、痰が混じった唾を飛ばす。だが、見事に避けられた。煙水中は地面に落ちた唾に、足で砂を掛けながら、淡泊な口調で鎌倉に提案する。

「鎌倉さん。飛行機、飛ばしてくれませんか?」

 鎌倉は大きく首を傾げる。

 飛行機? 飛行機って、あの、空飛ぶ飛行機? 飛行機飛ばすって、は? 煙水、なに言ってんの? 俺、パイロットじゃねえって。ハイジャックもしたことねえし。するにしたって、それ相応の金額ってもんが……。

 鎌倉が口を開きかけたところを、煙水中が先回りして続けた。

「ちなみに、俺が言っているのは、鎌倉さんが高校三年生のときに作った、空飛ぶロボット・コンテスト! で優勝したときの飛行機です」

 鎌倉は傾げた首を戻し、深く頷く。

 ああ、あの賞金三十万円の大会で飛ばした飛行機な。確か、辻村がダッセエ図面を引いて、煙水がチンタラとアルミを旋盤で削って、俺が回路やらプログラムやらをスババババっと華麗に組んだやつだ。

「ああ、思い出した。飛行機のデザイン、飛行距離と滞空時間を競う大会で、とりあえずバカでかい飛行機、作ったんだよな。羽の長さが三十メートルくらいの!」

 両手をグーンと広げる鎌倉に、煙水中は淡々と口を挟む。

「約三・五メートルです。それでも当時エントリーした参加校の中では最大級でしたがね」

 そうそう。そうだった。ちっとばかし、大袈裟だった。

 鎌倉は再び両手をぐーんと広げ、工場棟の遙か遠くを指差す。

「そんでもって、飛行距離が三十キロメートルで……」

 煙水中が冷静に否定する。

「いえ、約三キロメートルで、優勝しました」

 そう、それだ。その飛行機だ。するってぇと、この部品は、飛行機の部品か? なんでまた、このタイミングで飛行機を飛ばすんだよ。つうか、どこからどこまで飛ばすんだ?

 鎌倉は問いかけるべく口を開いたところで、気付く。

 煙水中が、ナイター用の照明の下で懸命になって演奏するアイロン・ワークスに、視線を投げ掛けていたからだ。

 鎌倉は確信した上で、煙水中に聞く。

「飛行機は、どこだ? 飛行距離は? 報酬は?」

 煙水中は質問の一つ一つを丁寧に畳むような口調で返す。

「飛行機は、八幡山の、うちの工場に保管してあります。飛行距離は八幡山から目的地まで。直線距離で約四キロメートルです。報酬は……」

 煙水中は尻ポケットから茶色の長封筒を取り出し、鎌倉に渡した。鎌倉は封を開け、指を突っ込み、中身を引き出す。

 中身は、白色の厚紙に、ワープロ文字で《浅間神社大祭記念花火・関係者特別席》と印刷されたチケットが三十枚。

 なるほど、関係者特別席、全席だ。

 鎌倉が聞く前に、煙水中が口を開く。

「ここに来る前に、協賛企業と役所に頭を下げて、回収して調達しました。これで、燃料になりますか?」

 鎌倉は封筒を丁寧に尻ポケットにしまい、深く頷く。

「ああ、充分すぎて、お釣りが来くらぁ。任せとけよ」

 煙水、お前はやっぱり、賢い奴だ。俺が文句一つ垂れずに動く手札を、よーっく分かっていやがる。そんでもって、てめえは結局、大馬鹿だ。切った手札のツケが全部ごっそり自分に跳ね返ってくると分かっていても、勝負をしやがる大馬鹿だ。クソの甘ちゃんの、大馬鹿野郎のコンコンチキだ。潔過ぎて、吐き気がするくらいのな。

 鎌倉は携帯電話を取り出すと、空気の抜けたサッカーボールを蹴り飛ばして動き出した。

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 工場棟の向かいに建つ授業棟のガラス窓が朝焼けを反射し、ぼんやりとした朱色と水色の幾何学模様が、熔接室の床へと映り込み始めた。ミヤコは短くなって床に散乱した熔接棒を右手で摘み上げて左掌に集めた。一斗缶を繰り抜いて作った鉄屑入れに捨て、熔接室をぐるーっと見回す。

 よし、熔接に必要な道具は全部すっかり片付けたし、防塵マスクのような使い捨ての道具は、きちんと捨てた。防炎シートや脚絆に熔接用帽子などの布製品は、手洗い場の水にしっかりと浸けてから干した。酸素ボンベとアセチレン・ボンベは、中身が空になったもんには、誰が見たって分かるように「中身ねえから、使うんじゃねえぞ!」って書いた。

 ミヤコは全開にした窓の外からぐっと背を反らし、長時間の作業と緊張から解放されて震えが止まらない両手で、天を掴んだ。

 よっしゃあ。熔接作業及び片付け、完璧に完了っ。アタシたちってば、すげえ!

 ミヤコは両手を突き上げたまま、膝から崩れ、背中から床に倒れ込む。再び立ち上がる力も残っていないので、そのままゴロゴロと横に転がって、喜びを噛み締める。

 熔接室と旋盤室の間を隔てる廊下には、特設ステージの要となる主柱二本を、十に分割して熔接したパーツが置かれている。ミヤコが夜通し熔接し続けて、完成したパーツだ。

 どのパーツも部品が複雑に噛み合った状態で熔接されており、熔着金属の跡であり、熔接の善し悪しが一目で分かる金属ラインの《ビート》には一か所のダボつきも見られない。

 一時間前にパーツの強度確認を終えた辻村は、確認用にコピーした無数の図面の中で、猫のように丸くなって寝息を立てている。

 おう、辻村、お疲れさん。やっぱ、お前は凄えな。お前が引いた図面の熔接記号、全部的確だったぜ。

 ミヤコは辻村に向かって、腹這いに寝転がったまま震える右手で敬礼する。視線を辻村の眠る奥の部屋、旋盤室へと向ける。

 旋盤チームは、辻村が「完璧です。美しい」と、出来上がったパーツに太鼓判を押すと同時に、煙水中を除く全員が喜びの余り、作業着を脱いでパンツ一丁になった。奇声を上げた半狂乱の状態で、アフリカのアマゾンの奥地に住む人食い民族の踊りのような謎の動きで、工場棟中を走り回った。挙句の果て、電池が切れたオモチャのようにパタッと眠りに就いたので、旋盤室の前には、六つの尻の山が築かれていた。

 まあ、先輩らの仕事っぷりも見事だったけどよ、その汚えケツで全部が吹っ飛んだぜ。ケツだけならまだしもよぉ、チリチリした小せぇのが、寝返り打つたびにふるふるっ、ちらちらって見えんのは勘弁しろって。ああ、もう、高木先輩、寝返り打つな。

 ミヤコは仰向けになりながら、腹に力を入れて、煙水中を呼ぶ。

「おーい、中っ。お前がリーダーだろっ。こいつら裸族を、なんとかしてくれよぉ。ついでにアタシも助けてくれぃ、疲れて腹が減って喉が渇いて、手足に力が入んねえんだっ」

 ミヤコの声が工場棟に響き渡るが、返事はない。

 あんにゃろうめ……ガン無視かよ。腹が減って、ついでにケツ山がウゴウゴしてて、気持ち悪ぃんだよぉ……助けろって。

 ミヤコは空腹で今にも背中にくっついてしまいそうな腹に力を入れ、再度、煙水中を呼んだ。

「おいっ、煙水中! 返事くれぇしたらどうだ! 腹ぁ減ったって言ってんだろ! 餓死したら、てめえの責任だからな、この玉ナシ野郎め! おいっ!」

 ミヤコが天井に向かって叫び散らすと、すぐにパタパタと工場棟の廊下を走る音が近づいてきた。ミヤコは足音の振動を背中で感じ取りながら、首を傾げた。

 あれ? この慌てた感じ足音は、中じゃねえな。そもそも、中の野郎は脅しても、おちょくっても、無言で怒ることはあっても、慌てて走るってこたぁ、まず絶対ねぇし。

 足音が仰向けに横たわるミヤコの頭の上で、つんのめるようにして止まった。

 息を切らしたワタセンが、ミヤコの顔を覗き込む。ワタセンは、怯えた小型犬のように目を潤ませ、体をプルプル震わせながら口を開いた。

「え、煙水くんなら、花火の準備があるからって、そ、その、一時間前ぐらいに、浅間神社の近くの賤機山へ向かった、よぉ」

 あ、そっか。中の野郎は、旋盤作業に加えて大祭の花火の準備もあったんだった。花火師で飯ぃ食ってんだもんな、当然か。でも、こんな早朝から準備があるって分かってんなら、早めに特設ステージの作業から抜けて、旋盤チームに後は任せてよぉ、少し休めばよかったじゃねえか。全く、呆れるくらいに律儀な野郎だぜ。ま、そういうところは、あいつらしいけどな。

 ワタセンは、深く頷くミヤコの動作に肩をビクつかせ、恐る恐る話し掛けてきた。

「あ、あのさぁ、ミヤコくんたちって、凄いんだね。その、あの、じ、実習を見学してさぁ、僕はさ、驚いたよ、本当にぃ。作ろうと思えば、なんでも作れるんだねえ」

 ミヤコはワタセンの顔をジッと見返した。ワタセンの笑顔は相変わらず引き攣ってはいるが、視線は真っ直ぐで、狼狽する様子もない。

 ふうん、ご機嫌取りで思ってもいねえこと並べやがったら、即行、首の骨折ってやるって思ったけど、どうやら生徒のご機嫌取りのためのお世辞じゃねえみたいだな。それにしても、ワタセンの野郎、工業って、その気になりゃあなんでも作れるって、ようやく分かってきやがったか。周回遅れ級で、気付くの遅えよ。野良犬だって気付いてるし、オギャアって生まれたときに習ったろ。まあ、一歩だけ前進だな、ワタセン。

 ミヤコは右手の親指をグッと立てて胸の上で掲げる。

「おう、あたぼうよ」

 筋肉疲労で腕がプルプルと震え、腹からググググッーッと地割れのような空腹音が起こるミヤコの状況を見たワタセンは、工場棟の扉を指差した。

「あ、あのさ、浅間神社まで出来上がったパーツを運ぶのには、もう少し時間に余裕があるからさ、ご飯、た、食べてきなよ」

 ミヤコはゴロンと体を反転させて床に腹這いになると、腕を枕代わりにして目を閉じた。

 ワタセンよぉ、分かってねえなぁ。時間に余裕があるんじゃなくて、アタシらが余裕を持たせたんだっつうの。搬入の準備が予想以上に手間取った場合とか、出来上がったパーツに不具合があった場合に修正する作業時間とか、作業には「もしも」の時間を含まなきゃいけねえんだっつうの。あー、もう……がっかりだぜ、これじゃあ、せっかく一歩進んだのに、二歩下がる、じゃねえかよぉ。田圃の中のウシガエルを生でガッツリ食えそうなほど腹ペコだったのに、ワタセンが馬鹿なことほざくから、食欲減退だぜ。ちきしょうめ。もうなんも食う気しねえよ。あーもう、餓死だ、完璧に餓死だ。マジ、餓死だ。

 ワタセンは、ミヤコが床に突っ伏す意味が全く分からないといった表情で首を傾げ、呼び掛ける。

「ねえ、一年生が、家庭科室でカレー作ってくれたよ。実習のお礼だって、ねえ、聞いてる?」

 聞いてるよ。家庭科室で、カレーが一年生の甘口だろ。インド人じゃねえんだから、カレーぐらいで「やっほうぃ、今朝はカレーだぜっ!」って、テンションが一気に最上階まで上がるかってんだ。アタシは、エレベーターじゃねえんだぞ。たかがカレー、え……えっ? カレー? カレーって、あの、カレーだよな?

「それを早く言えよ! っしゃぁ、今朝は、カレーだああぁっ! テンション、上がったぁ!」

 ミヤコは目を開き、両腕を床に突き立てた。渾身の力を漲らせた両掌で床を押し、体を一気に起こす。突然の咆哮に、背中を丸めて頭を抱えて怯えるワタセンを突き飛ばし、ミヤコは辻村と旋盤室の尻山に声を掛けながら、工場棟の外へと駆け出した。

        3

 煙水中は浅間通り商店街の自宅に到着した。携帯電話の液晶画面のデジタル時計は、午前六時ちょうどを表示していた。

 あと二〇分で、西海さんが到着か。

 西海さんとは、昔から、煙水花火商会が浅間大祭の当日だけ、花火の設置から打ち上げ、片付けまでの手伝いをお願いする建設業者で、先々代からの付き合いがある。

 煙水中は引き戸に手を掛けて、速やかに三和土へ足を踏み入れた。上半身裸のビール塗れで眠っている煙水長太郎を視認してから、靴を脱いで居間へ上がる。

 まるで蜂蜜塗れの、どこぞの熊のキャラクターだな、兄貴は。

「ただいま」

 煙水家の居間は、こざっぱりとしていた。日に焼けた畳に昔から使い続けている茶箪笥と卓袱台、最近ようやく新しくなったテレビ、仏壇以外には余分な物は何一つ存在しない。卓袱台の上には、三人分の茶碗と箸、大皿に盛られた野菜炒めが置かれ、その内の一つは食べた形跡が残っていた。

 煙水中は仏壇に視線を投げる。仏壇の香炉には線香が四本供えられ、細い煙が立ち上っていた。花立には鮮やかな色の切り花が、高坏には瑞々しい梨が発泡スチロール製の網に覆われた状態で供えられている。

 この、あと一歩のところの雑な加減は、終治郎か。親父とご先祖様に線香を上げるのは忘れなかったから褒めてやるとして、さすがに、この梨は食うに困るだろ。

 煙水中は、梨を手に取り、発泡スチロール製の網を外して、元に戻した。仏壇を離れ、居間を抜けて、台所と洗面所、風呂場、トイレに続く廊下へ。風呂場とトイレの間に在る階段から、二階に向かって呼び掛ける。

「終治郎、いるか?」

 少し間を置いて、煙水終治郎から返ってくる。

「おう、いるよ。おかえり、兄ちゃん」

 二階から、パチンパチンと洗濯バサミから洗濯物を外す音や、ステンレス製の物干し竿の先が、ベランダの床にコンと当たる振動が小さく聞こえる。

 なるほど、今日の花火の打ち上げで着る法被を干して、取り込んでいるのか。指示を出していないのに、大した心がけじゃないか。大雨洪水警報が発令されてないか、確認する必要がありそうだ。

 煙水終治郎が、前髪をヘアゴムで括った状態で、プラスティック製の洗濯カゴを両手で抱えながら、ダダダダと猛スピードで階段を下りてきた。洗濯カゴの中には、藍染の法被がキッチリと畳まれて入っていた。煙水終治郎は洗濯カゴごと、煙水中に渡す。

「はい、これ、西海のおいちゃんたちの法被も合わせて、ジャスト三十個な。で、長兄ちゃんが着る、代々受け継がれてるっつう、よく分かんねえけど、ユーズド感たっぷりな法被は、一番上に置いてあっから」

 煙水中は洗濯カゴを受け取り、廊下を戻り、居間へと運び込んだ。三和土で幸せそうな笑みを浮かべながら大鼾を掻いている煙水長太郎を指差す。

「おい、終治郎。兄貴が酷い有り様だ。風呂に水を張って、兄貴を叩き起こして、ぶん投げてくれ。それでも目を覚まさなかったら、多少は沈めてくれても構わないぞ」

 煙水終治郎は肩を竦めるや「おいーっす、了解」と頷き、居間から再び風呂場へ。風呂場の戸がカラカラと開く音が聞こえ、少しして蛇口から放出された水が、滝のように落ちてドドドドドとバスタブを叩く振動が響く。煙水中は、洗濯カゴから法被を取り出し、解れや破けがないか確認し、茶箪笥の前に置いた。

 風呂場から戻ってきた煙水終治郎が、台所から持って来た麦茶ポットとコップ二個を、卓袱台の上に置く。

「母ちゃんは、太公望釣具店の会長さんのところに、石を借りに行ったよ。ほら、カチカチッって火花が出る石みたいな、なんつうの、カチカチ石?」

 煙水終治郎はコップ二個を両手に持ち、擦り合わせる動作を取って、卓袱台に置いた。

 ああ、火打石のことで、終治郎の動作は火打鎌と火打石を擦るところか。

 煙水終治郎はそわそわしながら、扉の外を見やった。

「母ちゃん、マジでまだかなぁ。風呂の水だって、うち、ガチでボロいから、なかなか溜まんねえし。西海のおいちゃん、来ちゃうぜ?」

 煙水中は、コップ二個に麦茶を注ぎ、淡々とした口調で諭す。

「落ち着けよ。西海さんたちが来るまで、あと十五分もある。西海さんは時間ピッタリに来る人だからな。それに、あと五分もすれば風呂に水が溜まる。兄貴は寝起きは良いし、烏の行水だから、時間は充分だ。水回りが悪いのは、そうだな、今日の花火が終わって、纏まった金が入ったら、考えるとしよう」

 煙水終治郎が両手を挙げ、足をバタバタ動かしながら聞く。

「じゃあさ、その間、なにか手伝うことない?」

 手伝うこと? どういう風の吹き回しだ。下手なジョークか? ああ、もしかして、世界の終わりが近いのか?

 煙水中は肩を竦めて立ち上がり、茶碗を持って台所へと向かった。

「兄貴を起こして、風呂にぶん投げてくれるだけで充分だ」

 台所の水道の蛇口を少しだけ捻って、水を細く出す。置かれた炊飯器の蓋を開けて、しゃもじを蛇口の水に晒し、窯の中で湯気を立てる白飯を掬う。白飯を茶碗の八分目まで盛り付け、炊飯器の蓋を締め、再び居間へ。

 煙水終治郎が両手を挙げたまま風を煽ぐようにしてパタパタと動かし、待ち構えていた。

 茶碗を卓袱台の上に置いて腰を下ろす煙水中に、煙水終治郎は聞く。

「なんでもいいよ、手伝うこと!」

 お前、なかなかしつこいな。

 煙水中は聞き返した。

「終治郎、お前、随分と働くじゃねえか。いいことあったのか? それとも小遣いか?」

「え、別にぃ。全然、そんなことねえし。小遣いも要らねえし」

 煙水終治郎は、にやける顔を隠そうと、唇をキュッと潰し、大きな目をクリクリさせた表情で、煙水中の隣に座った。

「なんつうの、こう、花火屋の心意気っていうかさ、うーん。なんつったら、いいんだろ……兄ちゃんがその、クッソポリ……警察さんとか、税金ドロ……市役所の人とかと調整してたりさ、油塗れの汚ねぇ格好で、夜通し鉄を削ったりさ、まあ色々と頑張ってんなぁと思ったら、俺もマジ、頑張らねえとっ、って思ったっつうか。なんつうの、マジな力を感じたっつうか、俺の」

 油塗れの汚い格好とは、失礼な奴め。作業着は工業高校の制服だ。その生意気な口を、普通旋盤で削ってやろうか。そもそも、俺はお前に、夜通しで切削作業をしたことを話していないぞ。まあ、終治郎が言いたいことと、誰に聞いたかは、予想がつくが。

 煙水終治郎は繋がらない言葉に苛立ちながらも、続ける。

「なんつうかさ、なに、その、鎌倉さん……そう、鎌倉さんが今朝、今朝っつっても、なにゆえ、この時間帯っすか? ってなぐらい朝早くに、うちに来たんだあ。で、なんか、いっぱい、本とかパソコンとか持って、ハァハァ言って、変な生き物っぽかったんだけど、工場の鍵、貸せっつうもんだから、貸したんだけど」

 煙水中は鷹揚に頷いて耳を傾ける。

「それで?」

「え、ああ、そんで、鎌倉さんが、お前の兄ちゃん……ああ、これ、長兄ちゃんじゃなくて、中兄ちゃんのことな。で、鎌倉さんが、トチ狂ったみてえなハイテンションで、お前の兄ちゃんは頭が良いって言うもんだから、そんなわけねえべさ、勉強できるけど、やることはリミッター外れてて、身内でも若干ドン引きっすわ! って反論したら、まあ、事情? うーん、事情っつうのかな、経緯? 経緯っつうのを、教えてくれて。静工で旋盤ぶん回してる話とか、関係者席のこととか、関係者席を鎌倉さんにくれてやるために、兄ちゃんが頭ぁ下げたこととか」

 そういえば、鎌倉さんは金が絡むと、無駄に饒舌になるんだった。どこまで喋ったんだ、あの人は。

 煙水終治郎は背中を丸くして、下唇を出し、頭をボリボリと掻く。照れ隠しに、わざと声音を低くして、拳で煙水中の背中を軽く叩く。

「まあ、だから俺も、兄ちゃんの手伝いで、マジなにか、できることねえかな――と、そういうわけっす」

 なるほど、予想通りだ。リミッター外れていて身内でも若干ドン引きということ以外はな。名誉棄損だ、腹立たしい。

 煙水中は煙水終治郎の頭に手を伸ばし、わしゃわしゃと雑に撫でてから、パッシーンと掌で払った。反射的に繰り出した煙水終治郎の拳をヒラリと躱し、颯爽と立ち上がる。

「お前が今、手伝えることは、席のことを母さんと兄貴には黙っていることだ。余計な横槍が入ると困る。今日のライブの成功も失敗も、全て鎌倉さんの飛行機が飛ぶか飛ばないかだ。俺は鎌倉さんの技術に賭けた」

 煙水終治郎は何度も頷きながら立ち上がり、人差し指と親指を口に前に掲げて。見えないチャックを左から右へと閉めた。

「分かった。余裕で、お口にチャック!」

 お口にチャックとは、また懐かしいな。人間の口に金属製のチャックを縫い付ける手間を考えると、チャックの表現は、極めて非効率で、俺は嫌いだ。作業効率も去ることながら、なにより腐食に対する強度に欠ける。ここは、瞬間強力接着剤か、ホチキスの針を用いるのがな難な線だ。まあ、とにかく、お前のその口のチャックが開かないことを信じるぞ、俺は。

 煙水終治郎は口を固く結んで、鼻をぴくぴく動かして呼吸をしながら、裸足のまま三和土に下りていった。爆睡中の煙水長太郎の両脚を両腕で抱え、背中を反らして、軽自動車がダンプカーを牽引するかのように、ズルズルと力尽くで引っ張り始める。煙水中は腕時計で時刻を確認しながら、必死に顔を赤くして引っ張る煙水終治郎に声を掛けた。

「終治郎。兄貴を風呂にぶち込んで沈めたら、お前も法被を着て、西海さんに頭を下げろ。手伝うんだろ? だったら、今年から、現場で俺の補佐だ」

 煙水終治郎がピタッと動きを止め、煙水中を見返った。煙水中は無表情で頷き、腕時計を指差した。

「時間がないぞ。頑張れ、現場副監督、補佐」

 煙水終治郎は大きな目を潤ませ、満面の笑みを浮かべた。煙水長太郎の尻の下と膝の下に手を回して、一気に抱え上げる。

 そのまま居間を駆け抜け、歓声を上げて風呂場に消えて行った。


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