第七章 産業文化の使命ぞ、担うぜ


        1

 煙水中と辻村は、静岡工業高校の工場棟の静まり返った製図室にいた。煙水中は、ベージュ色の作業着に着替えている。

 約四十畳は有る、矢鱈だだっ広い部屋には、ドラフターと呼ばれる製図板が付いた机と、椅子が部屋の端から端まで、軍隊のように等間隔で並んでいた。天井の蛍光灯は全て点灯し、窓は全て閉められ、陽に焼けて白茶けたカーテンが真新しいサッシの窓の両脇に几帳面にしっかりと留められているのは、製図室に入るなり、辻村が几帳面に全てセッティングした結果だった。

 煙水中は製図用のキャスターが付いた椅子に座りながら、ぐるりと製図室を見回す。

 図面を引くのは一人だというのに、なんだ、この部屋の無駄な明るさは。学費を納めているならまだしも、卒業生の俺たちは、いわば間借り状態だというのに、酷いもんだな。

 辻村は、高校時代と同様に、黒板から一番離れた窓側の場所のドラフターを陣取った。イヤホンを耳に掛けて音楽を聴いていても、技術講師の先生に見つかり難いからだ。

 煙水中は辻村の斜め後ろから、製図の様子を窺う。

 辻村の奥に並ぶ窓には、黒色に近い濃紺の闇が広がっている。

 煙水中は黒板の上に掛かっている丸時計に視線を投げた。時刻は六時半を回ったところで、辻村は大里西小学校に到着したミヤコから連絡を受けてから、かれこれ一時間半、製図板と睨み合っているわけだが、全くスピードは衰えない。

 理論武装して無能を気取るくせに、技術は現役だから、タチが悪い。

 そう思いつつも、煙水中は声を掛けない。

 声を掛けたところで、辻村は両耳にイヤホンを付けて音楽を聴いているので、声は届かない。ボリュームを絞ったところで、どの道、集中する辻村の耳には届かないことは、煙水中は長年の付き合いで分かっていた。

 辻村は黒板から製図板の立面を約四十五度に傾けて、目を見開き、視線を製図用紙に這わせる。左手でハンドルという、手首の関節の役割を担う部分を掴み、スケールと呼ばれる「L」字状に取り付けられた定規を、四肢のように自在に操る。

 正確に、迅速に、鉛筆が製図用紙の上を、軽やかに走る。

 一見すると無雑作に引かれた線に、骨に筋肉や血管が巻き付くようにして、いくつもの線が幾重にも重なり、瞬く間に部品の形が出来上がる。右手で線を引きながら、左手で工業用電卓を叩き、断面二次モーメントを求める。耳の裏に挟んだ短い定規で、熔接面に斜線を入れると、完成だ。

 最後に辻村は、ぐっと背中を反らせ、算盤を弾くようにして指を動かした。寸法の記入漏れがないか確認してから、スッと製図用紙をドラフターから外して床に置く。煙水中は床に置かれた図面を拾い上げ、事細かにチェックを入れる。胸ポケットから赤鉛筆を取り出して、地面の右下に数字を書き込む。

 普通旋盤で切削する部品には「普」の文字と切削する順番、ある程度の数を作る必要がある。そこで、コンピュータ制御にて作業を行うNC旋盤を用いる部品には「NC」の文字と切削する順番、スラッシュで区切って製作個数を書き込む。最後に、切削条件と呼ばれる旋盤の主軸の回転数、鉄を削る刃のバイトの移動量、バイトで材料を切り取る量――を頭の中で計算して、下線を引いて記入する。

「ほら、一枚追加だ。持っていけ」

 煙水中は扉の外で待機する機械科の一年生を呼ぶ。まだ中学生のあどけなさが残る一年生は、恐縮しながら製図室に入ってくる。一年生の作業着はまだ真新しく、余った肩幅には、購入時に畳んで入っていたキッチリした皺が少し残っている。煙水中は一年生に図面を差し出しながら、ぽつりと零す。

「一年の夏休みまでは真新しいのに、どうして夏休みを過ぎると、いきなり肘が破れたりするんだ」

 一年生は図面を受け取りながら「はい? 先輩、なにか?」と挙動不審に首を傾げた。

 煙水中は、首を横に振る。いや、こっちの話だ。きっと、この一年生も実習を繰り返すうちに機械油が染み付いたり、火花が飛んで生地に穴が開いたり、煤がこびり付いて取れなくなったりするんだろう。機械科の宿命だな。野生の猿の如く動き回る高木みたく、尻が破けるのは稀だろうが。

 一年生はぺこりと頭を下げ、静かに扉を閉めた。製図室を出て、パタパタと廊下を走る足音が段々と小さくなり、消えたところで今度は旋盤チームの阿鼻叫喚がわずかに響く。

 煙水中は肩を竦め、辻村の手によって新たに床に置かれた図面を拾い上げた。

 あいつらのことだ。人のことを鬼だとか悪魔だとか、地獄の無表情鉄火面だとか、お前の花火屋潰れろとか、散々に言っているんだろう。

 卒業して半年。中島は浜松市の消防士、高木は上京して写真家の助手、勝瀬は静岡料理専門学校在学、陽介は貿易会社勤務、大澤は近所の中原幼稚園の保育士、沖本はJRで在来線の運転手、と見事に誰も工業系に就職しなかった。腕が落ちてないか心配だったが、辻村の図面を読めるのだから、現役だろう。三十分ほど普通旋盤をぶん回せば、勘が戻ってくる。

 煙水中は図面を読み、辻村が一時間半前に引いた図面の部品よりだいぶ比重が軽くなっていることに気付いた。それで、製図作業の終わりが近いこと知る。

 辻村の図面を引く速度が変わった。スピードが落ちたのではない。鉛筆が製図用紙の上を走る音が、短距離走の全速力から、ハードル走のような全速力と伸びやかなストロークを足したリズムへと移行していく。

 煙水中は顔を上げ、目を細めて辻村の背中をジッと見詰めた。

 電卓を叩いていた辻村の左手が止まった。右手が引く複数の放射線状の線の先をなぞり始める。

 辻村がフリーハンドで曲線を引くときの癖だ。右手が円の中心から、大きく旋回する。

 子供が飛行機雲を指差すような、軽やかで、フリーハンドとは思えない美しい曲線。円と曲線と直線で構築される辻村の図面は、歯車の図面を引くためのただの下書きにしか過ぎないが、あまりの正確さに、ジミヘンが「製図の鬼!」と唸ったほどだ。

 辻村は、インボリュート・曲線を、引く。

 高校一年生のときと寸分も違わない、嫌味な曲線だ。

 煙水中は目で曲線をなぞりながら、高校一年生の夏休みをぼんやりと思い出す。

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 煙水中率いる旋盤チームが飛行機の部品の切削に見事に成功し、夏休みの宿題無しという理想的状況で高校一年生の夏休みを迎えたとき、変人で有名な先輩に掴まった。

 名前は鎌倉平良。鎌倉は情報システム科の三年生で、ロボコン部の幽霊部員。軽音楽部と吹奏楽部を掛け持ちしており、普段は理科室の標本保管庫でエロ本を読みながらアルコール・ランプで炙った裂きイカを食べて授業をサボっているという、謎の多い先輩だった。

 煙水中は、飛行機の部品の切削に成功した次の日の終業式の後、放課後の教室で帰り支度をしているときに、突如、後ろから暴漢に羽交い締めにされた。煙水中はとりあえず、暴漢の膝と鳩尾と顎に蹴りと肘打ちと頭突きを浴びせ、怯んだところに踵落としを食らわせた。それから、羽交い締めに襲ってきた暴漢が覆面を被った鎌倉だと知り、事情を聴くことにした。

 鎌倉は煙水中を情報システム科のパソコン棟に在るロボコン部の部室へと招き、パソコンの画面とチラシを見せた。チラシには《全国ロボコン選手権! 空飛ぶロボット・コンテスト!》と、丸い文字と飛行機のイラストが描かれていた。パソコンのデスクトップには、鎌倉が描いたであろう前衛的で抽象的な、ハッキリ言うと、吐き気を催すほどド下手な空飛ぶライオンの絵が表示されていた。煙水中が聞けば、どうやらライオンではなく、飛行機らしい。

 なるほど、これは鬣ではなく、プロペラか。となると、美術史の無差別テロだな、と煙水中は思いながら、鎌倉の話に耳を傾けた。

 どうやら鎌倉はチラシの《空飛ぶロボット・コンテスト!》で優勝し、賞金の三十万円を手に入れたいらしい。コンテストまでは残すところ、あと五日。急ピッチでの飛行機製作のため、飛行機の部品を切削した煙水中の噂を聞き付け、スカウトに来たのだそうだ。

 だったら、どうして覆面をして後ろから羽交い締めにする必要があるのだ、という若干の不満を抱えながらも、飛行機製作に興味あった煙水中は、少しの拘束時間なら協力する、という条件の元、鎌倉の話に付き合うことにした。

 鎌倉は「設計主任を紹介するぜ」と煙水中をパソコン棟のロボコン部の部室から、工場棟二階の製図室へと案内した。正午過ぎだというのに、部屋の端から端まで蛍光灯が点灯していた。煙水中が黒板脇のスイッチを押し、蛍光灯を消した途端に「あにゃーっ」と、ゆるい悲鳴のような、猫の鳴き声のような声が聞こえた。

 煙水中は、悲鳴が上がった方向へ視線を投げた。

 すると、教壇から一番離れた部屋の奥の窓側で、男が一人、「手暗がりになると、鉛筆の軸がブレるんですよねえ」と、ぶつぶつと零しながらも製図を続けていた。それが辻村だった。

 鎌倉は「この辻村ってえのが設計主任で、全国製図コンクールで最優秀特別賞を取ったんだぜ」と、さも自分のことのように威張り散らした挙げ句、飛行機のプログラムを組むために煙水中を残して、パソコン棟へ戻って行ってしまった。

 結局コンテストまでの五日間、工場棟に丸々拘束される形となった煙水中は、辻村の引く図面の正確かつ迅速さ、インボリュート・曲線の美しさを嫌になるほど見せつけられた。辻村も、機械油で胸焼けするほどに、煙水中の職人技ともいえる巧みな旋盤作業に、感心することとなり、鎌倉は賞金三十万を燃料にプログラムを組み、見事に優勝を勝ち取ったのだった。

        3

 煙水中は人差し指の腹で眼鏡を押し上げ、頭を掻く。

 なるほど、歯車を作る話は一切していなかったはずだが、読まれていたか。ステージに全く関係の無い部品だから、記憶を頼りに削り出そうと思ったが、読まれていたとは思わなんだ。

 辻村はインボリュート・曲線から引いたインボリュート・歯車の図面をドラフターから外し、左手でそっと床に置く。右手で、すっかり先が丸くなった鉛筆を脇机に置き、先の尖った鉛筆に持ち替え、手首をブンブンと振って関節をほぐして、再び製図用紙の上へ。

 辻村は脳天から背骨を引っ張ったようにして背を伸ばし、キャスターに片足を引っ掛け、左手でイヤホンを外す。首を振って肩の凝りをほぐすような動作をしながら、日本語のカタカナの発音で、英語の曲を口ずさむ。

 煙水中はインボリュート・歯車の図面に視線を落としながら、上手くもなければ下手でもない声音に耳を傾ける。

 辻村が口ずさむ歌は《サイモン・アンド・ガーファンクル》の『ミセス・ロビンソン』だ。授業の終わりにチャイムが鳴るように、辻村は製図が一段落すると決まって『ミセス・ロビンソン』を口ずさむ。辻村いわく、製図で尖った心を鎮めてくれる歌なのだそうだ。

 また、その歌か。いい加減、聞き飽きたぜ。《サイモン・アンド・ガーファンクル》が歌うより、五十鈴が歌っている『ミセス・ロビンソン』を聴いた回数のほうが圧倒的に多い。

 他にレパートリーはねえものか。軽快で耳に馴染むメロディー・ラインは好きだが、歌詞はどうも好きになれない。

 薄気味が悪いだろ。薬物中毒のロビンソン夫人を宥め賺すだけの歌だぜ。歌というものは、ロックンロールのように、伝わりやすいほうがいい。煩いぐらいのドラムに、安定性の強いベース、超絶に上手いリードギター、ボーカルは常に頭のネジが三本ぐらい抜け落ちていて、ヒステリックな声が出れば、楽器は上手くても下手でもどちらでもいい。

 詰まるところ、ロックンロールは、機械設計でいうところの《仕事と動力》に等しい。

 バンドは《物体》と等しく、バンド活動は、いわば《斜面》だ。障害のない人生は存在しないように、摩擦のない斜面など、ほとんど存在しない。そこで、斜面を下る際には摩擦角と静摩擦係数が発生する。すると必然的にバンド活動は《摩擦と機械の効率》と繋がる。ついでに、英語の歌詞を日本語に訳すのは、ロッカーの墓を発くのと同じくらいの野暮だ。そもそも、ロックンロールにおいて歌詞ってえのは……。

「はい、最後の図面が、引けましたよ」

 辻村は椅子を一八〇度くるりと回転させ、煙水中に向いて、目を細くしてニッと笑った。目の下には濃いクマが滲み、鼻の頭は鉛筆で黒く汚れて、掻いた汗で髪の毛が額にべっとりと貼り付いている。

「羽と心臓を天秤に掛ける弥勒菩薩のような顔して。さては、また小難しいこと、考えてますねえ?」

 化け猫が、なにを偉そうに。ちなみに、羽と心臓のくだりは弥勒菩薩ではなく、冥界の神オシリスだ。間違えたから、地獄行きだな。

 辻村はドラフターから図面を外し、席を立って煙水中に渡す。手の側面は鉛筆の芯で黒く汚れ、指には鉛筆の痕が赤くくっきりと残っている。

 煙水中は、受け取った最後の図面を確認した。

 なるほど、確かに、高校一年生のときに作った飛行機の部品の図面だ。といっても、過去の図面より手が加えられ、切削条件がかなり複雑になっているようだがな。俺は、この複雑極まりない、インボリュート・歯車が、飛行機の尾翼の部分だけでも四丁も増加している図面を黙殺し、涙を呑んで、命を削るようにして切削すればいいわけだな、設計主任。

 煙水中は顔を上げ、無表情のまま辻村に睨み付けた。辻村はスッと目を逸らし、手の甲で鼻の汚れを拭うと、身の回りをそそくさと片付けて扉を開けて廊下に出ていく。背中に刺さる煙水中の視線を振り払うかのように、声にわざとらしい抑揚を付けて、大袈裟に手を叩いた。

「さあさ、時は金なり、宇治金時ですよ。時間は待ってくれないんですからね、東の空が明るくなる前に、なんとかケリをつけなくちゃあいけません。はい、旋盤の鬼の煙水中くん、今から出番ですよ、で、ば、ん」

 辻村は煙水中の手から図面を取り上げると、廊下で待機していた一年生に声を掛け、工場棟一階の旋盤室まで運ばせに懸かった。煙水中は製図室の蛍光灯を消し、扉を施錠して、廊下を歩きながら、前を歩く辻村の背中に、言葉のボールを剛速球で投げつけた。

「それにしても、時は金なり、宇治金時とは酷いな。字面だけだ。いつ小豆と抹茶が、ことわざ業界に幅を利かせたかと思った」

 辻村は煙水中の放った言葉の剛速球が背中に命中、見事に前につんのめり、すっ転んだ。

 近所の爺さん連中のように、くだらないダジャレを言うからだ。

        4

 工場棟の手洗い場の壁に掛けられた時計の針が午後七時を差したのを見計らって、ミヤコと旋盤チームは二階に続く階段の前にしゃがんで円を作った状態で、マクドナルドの紙袋をガサゴソと弄る。旋盤チームは、一年生に買ってこさせたハンバーガーに齧り付きながら、ミヤコの話に耳を傾けた。ミヤコはポテトを口の中に流し込みながら、今日の昼から今までの出来事を事細かに説明していった。

 昼過ぎに《おおとりい》を出て、《ミセス・ロビンソン》で時間を潰した話や、浅間神社社務所に取り残されていたアイロン・ワークスの話。アイロン・ワークスが日本にやってくるまでの事情、それから最後に、明日の大祭の神楽奉納が終わった後、野外特設ステージを建設し、アイロン・ワークスに演奏させる計画。

「賛成! ミヤコ、お前は偉い! 浅間通り商店街は、もっと偉い!」

 旋盤チームはと拍手を送り、大きなリアクションで応える。旋盤チームの中で最も涙もろい大澤先輩が、下唇を噛んで涙を押さえながら深く頷く。

「外人を騙すなんて極悪非道だな、そのレコード会社の外人は。助けてやろうじゃないか」

 いや、大澤先輩。善も悪もみんな外人だって。外人、外人っていうけど、向こうからしてみれば、うちっちが外人だし。まぁ、騙すのは極悪非道だけどさ。

旋盤チーム一細く、チーム一大食いの陽介先輩が五個目のハンバーガーに齧り付き、左手で右腕を叩きながらミヤコに聞く。

「で、その外人……えーと、アイロンなんちゃらってバンドはさ、腕はあるのかよ」

 アイロン・ワークス、な。

 ミヤコはニッと笑い、深く何度も頷く。

「おうよ、あるともさ!」

 さっき、ロイドから販売用のCDを一つ借りて聴いたんだけど、めちゃめちゃカッコよかったぜ。ロイドの歌声は透き通ってて耳にすぐに馴染んだし、ギターはめちゃくそ上手い。ベースは、地面にどっしりと根を張って、数百年も生きてる巨木みたいな安定感そのもの。ドラムはとにかく鼓膜が破れるんじゃねえかってほど、うるさくて豪快でインパクトがある。とにかく、演奏が上手いんだ。メジャーに行っても、テレビに媚び売った曲を歌わなくても、食っていけるほどだ。アタシが保証するんだから、間違いないぜ!

 陽介先輩は「ふうん」と頷き、六個目のハンバーガーの包み紙をガサゴソと開ける。

「じゃあ、俺ら旋盤チームが、そのアイロンなんとかっていうバンドの背中を押してやらなきゃ、だなぁ」

 陽介先輩のハンバーガーを隣の沖本先輩がひょいと取り上げて「陽介くん、食べすぎぃ」と大きな口でガブリと齧りつき、ほぼ一口で食べる。さらにポテトも取り上げて、隣でシェイクをちびちびと啜る勝瀬先輩に勧める。勝瀬先輩は「俺、モス派なんだよねえ」と言いながらも、ポテトをちびちびと口に運び、笑う。

「ま、背中を押すにしても、鉄を削るにしても、煙水待ちってことだな。俺らに招集を懸けたのは煙水だし、作業工程はいっつも、リーダーが決めることになってるしさ」

 ミヤコはシェイクをジュルジュルと啜りながら、階段を見上げる。

「もう少しだと思うぜ。今、なにかがすっ転んだ音が聞こえたし」

 図面を引き終わるのはもっと後だと思ってたけどよ。辻村が超ハイスピードで作業してくれたお陰で、だいぶ時間短縮になった。普通の奴に製図やらせたら、こうはイカの金玉だぜ。きっと、ファミレス行って、飯ぃ食って帰ってきても、図面ができてないっつう、イライラする状態だったと思うぜ?

        5

 旋盤チームは、工場棟一階の階段前で、しゃがんで円を作った状態で、階段を下りてくる煙水中を待ち構えていた。

 すると、最後の図面を持った一年生が「わっ!」と短い悲鳴を上げ、足を止めた。

 ミヤコが隣を見ると、高木先輩が一年生にメンチを切りながら、狂犬のように「へ」の字に曲げた口の端から、ツーッと蜘蛛の糸のごとくに垂らしている。高木先輩は歌舞伎の口上のように声を唸らせて「その図面、渡しやがれえぃ」と一年生を脅かした。一年生は恐怖に怯えた顔で図面を置くと、再び階段を逆走して二階へ逃げ去った。行動を見兼ねた隣の中島先輩が、高木先輩の頭を小突く。

 ったくよぉ、くだらねえことやってやがるよ、高木先輩。なにかにつけて、一年生をビビらせようとするの、止めたほうがいいぜ。確か、新入生の実習を面倒を見るって特別授業のときも、美術部の赤い絵の具を頭から被って、頭に手作りの斧をブッ刺して来たもんな。ま、笑えるし、これがまさに旋盤チームって感じで、アタシは楽しいけどな!

 ミヤコは足音に気付き、しゃがんだまま視線を階段へ投げ上げた。

 ようやく煙水中が階段を下りてきた。駆け上がる一年生を追いかけた視線を、一階で待ち構えるミヤコと旋盤チームに向け、足を止める。抑揚ゼロの声音で、煙水中は聞いた。

「雁首ぃ揃えて、なんだ」

 ミヤコと旋盤チームは立ち上がった。両腕を広げて肩を組む。中島先輩と高木先輩の間を開け、高木先輩が目を輝かせ、舌を出して戯けた調子で、煙水中を呼ぶ。

「中っ! 円陣を組もうっ!」

 途端にミヤコは吹き出し、円盤チームにどっと笑いが巻き起こった。煙水中は無表情のまま、両腕を組んで首を横に振る。

「高木、お前な。そういうのは、純粋な心を持った高校生の特権だ。揃いも揃って、真っ先に職務質問されかねない風体の奴らがやることではない。もっと言うなら、冗談でも、恥ずかしい。さっさと作業に入るぞ」

 確かに! 体育会系ならまだしも、ウチら工業系だもんな! 心は純粋っていうか、工業バカだし。アタシも冗談にしても、かなぁり恥ずかしいぜ。ザ・青春って感じがしてよぉ! あ、でも中島先輩だけは元・野球部か。「円陣、組もうぜ」って冗談、最初に言ったのも、そういや、中島先輩だ。

「中島先輩もよぉ、冗談、かなり上手いよな。この煙水中がドン引きだぜ」

 ミヤコは中島先輩に視線を投げ掛けた。中島先輩は爽やかな笑みを浮かべながら、首を傾げ「え、なにが?」とミヤコと旋盤チームに聞く。

 は? 中島先輩、もしかして本気? うわぁ、止めようぜ、マジで! 夏の間は、円陣ってのは、甲子園で頑張ってる高校球児が使用権利を持ってるものなんだって! 火傷する、火傷! おい、先輩ども、中島先輩を止めろ!

 ミヤコは次々に視線を送った。だが、中島先輩の爽やかな笑顔に押し切られる形で、頭を垂れてぐっと押し黙る。なかなか円陣に加わろうとしない煙水中の背中を、後から階段を下りてきた辻村がドンと押して、円陣が出来上がった。一年生が円陣の周りに集まり、工場棟玄関で煙草を喫っていたジミヘンや、目を回していたワタセンまでも、様子を伺いにやって来た。辻村は階段の踊り場まで避難して、ニヤニヤと笑いながら拍手を送っている。ミヤコは恥ずかしさで両足をバタバタと動かしながら、辻村を睨みつけた。

 辻村の野郎、覚えてろ、あとで必ず、シバく!

 中島先輩は愚痴を零す隣の煙水中の頭をぐっと抑え込んで、咳払いをして口を開く。

「えー、リーダーの煙水は相変わらず冷めているので、副リーダーから、一言」

 高木先輩が「ちょっとぉ、あたしたちぃ、副リーダーって認めてませんけどぉ」と、なぜかオカマ口調で呟く。続いて勝瀬先輩が「公務員だからって、人の上に立ったような気になって仕切るの、止めてくださいーっ」とふざけた口調でヤジを飛ばし、沖本先輩が「そうだ、そうだ、ナカジの仕切り魔!」と同調する。

 中島先輩は「いいから、聞けぇい! 円陣用意!」と腰を落とし、膝を曲げ、爽やかに笑った。中島先輩はまるで応援団のように声を張る。

「俺の言葉を復唱せよ!」

 かっこわりぃい! 復唱したくねええ! 

「いくぞぉー、安・全・第・一!」

 よりによって、安全第一かよ! 激烈にカッコ悪ぃい! 

 ミヤコと煙水中、旋盤チームは、仕方なくボソボソと復唱する。

「あ、安全……だ、第一ぃーっ……」

「声を張れと言っただろぉ、静工ナイン! そんなことじゃあ、甲子園には行けないぞ!」

 中島先輩が額に青筋を浮かべ、目を血走らせて激しい口調で檄を飛ばす。どうやら元・野球部魂に火がついたらしい。

 消防士なのに、てめえのハートに火を付けてどうすんだ、このセルフ放火魔! そもそもナインじゃねえし、甲子園も目指してねえよ! 静工が、静高や静商や常葉に勝てるかってんだ!

 ミヤコは中島先輩の暴走をどうにか止めようと煙水中に視線を送る。だが、煙水中は既に諦めたらしく、両腕を掴まれ捕獲された宇宙人のように、だらーんと力無く、首を横に振る。辻村は階段の踊り場で腹を抱えて大爆笑、ジミヘンは「青春はロックだ」って呟きながら感動して泣きべそ掻いてるし、ワタセンは論外。

 一年生だって、なにやってんだ、先輩たち? って表情で、ぽかーんとしてんじゃねえかよぉ!

 ミヤコは両足で地面をしっかりと捉え、ぐっと腰を落とし、吠える。

「しゃぁあっ、こうなりゃ、ヤケだぁっ!」

 旋盤チームも腹を括り、一ヶ月間も駿河湾を漂流した水死体のような煙水中を除いて、皆一様に気合を入れた。中島先輩が再び吠える。

「いくぞ、安全第一!」

 安全第一!

「オイルゲージに気を付けろ! 指差し点検、忘れるな!」

 オイルゲージに気を付けろ! 指差し点検、忘れるな!

「ハンドル操作を怠るな! 油断大敵、火の用心!」

 ハンドル操作を怠るな! 油断大敵、火の用心! 火の用心? うん、火の用心か?

「俺たちは、産業文化の、使命ぞ担う!」

 そうだ、アタシたちは、産業文化の、使命ぞ担う!

 旋盤チームはさらに低くしゃがみ、中島先輩が煙水中の背中を強く叩き、声を張る。

「静岡工業高校、機械科の実力を見せてやれ! 行くぞっ!」

「オーッ!」

 ミヤコと旋盤チームは一斉に拳を振り上げ、円陣を解散する。

 一年生が、訳が分からないといった表情でとりあえず拍手を送る中、興奮冷めやらぬ旋盤チームは、試合開始のサイレンでグラウンドに駆け出していく高校球児のように、右拳を左の掌に打ち付けながら、旋盤室へ。

 へえ、なんだかんだ言っても、相変わらずバカでカッコイイじゃねえか。作業着の肘や尻が破けてても、ステージに繰り込むロッカーみたく見えるぜ。

 ミヤコは熔接の準備に取り掛かるべく、階段東側のアセチレン・ボンベの保管庫へと足を向けた。煙水中が中島先輩に叩かれた背中を擦りながら、旋盤チームに淡泊な口調で呼び掛ける。

「おい、お前ら。持ち場を決めていないのに、どこに行く気だ。甲子園か?」

 旋盤チームは煙水の呼びかけにピタッと足を止めた。バツの悪そうな顔で踵を返し、再び煙水中の元へ集合する。

 そういや、図面だけチェックして、持ち場も作業工程も全然、決めてなかったな。

 前言撤回、やっぱ、ちったぁカッコ悪ぃわ。

        6

 煙水中は旋盤室の黒板の前に立ってチョークを持ち、旋盤チームの名前を書き出して、タイムテーブルを作った。それぞれの作業時間を表記し、休憩時間は必ず二時間の作業に対して、必ず十五分は確保する。集中力が切れて起こる事故を回避するためだ。

 ミヤコは褐色のアセチレン・ボンベと黒色の酸素ボンベを手押し車に載せながら、旋盤室の様子を窺った。

煙水中は黒板に磁石で図面を固定し、旋盤チームが各々の切削条件を確認する。図面から読み取れない部分や疑問点、切削に使用する刃バイトの種類などは、このときに全て解消しておく。

 ミヤコは黒板に書かれた作業手順から、自分の作業手順を組み立てていった。

 なるほど、手順は普通旋盤で部品切削後、NC旋盤の作業に取り掛かるといった流れ。旋盤チーム全員で普通旋盤をぶん回して、勘を取り戻そうってことか。出来上がった部品の点検は一年生にやらせて、比較的作業が簡単なNC旋盤は、その後ってぇわけだな。となると、アタシの熔接作業開始まで、あと、三十分弱ってところか。時間は余裕たっぷりだし、ちったぁ、旋盤の鬼の率いる旋盤チームの技を見学できそうだぜ。

 旋盤チーム全員が頭の中に完成形を描けるようになったところで、煙水中は目配せし、中島先輩が音頭を取る。

「よし、それじゃあ、改めて締まって行こう!」

 旋盤チームは挨拶程度に拳を掲げて、四基ずつ、二列で置かれた合計八基の普通旋盤の前に立った。帽子を深く被り、削った鉄片キリコや機械油が目に入らないよう、保護眼鏡を掛ける。ジミヘンが見学する一年生の間に割って入り「来るぞぉ」と胸の前で腕を組んで、ワクワクと肩を上下させた。とりあえず連れてこられたワタセンは、なにが起こるか分からないといった表情で、申し訳なさそうに背中を丸めている。

 ミヤコも、階段を下りる辻村の背中に蹴りを一発お見舞いしながら、見学集団の中へ足を踏み入れた。芋虫のように背中を丸めているワタセンの背中を拳でブッ叩き、頭を両手で掴んで、グイッと正面を向かせた。

「ちゃんと観て、頭ん中に焼き付けとけって!」

 最後に旋盤チームが動いたのは、卒業式の前日の美術部と合同の卒業式のゲート建設だから、約半年前か。久しぶりすぎて、実感はあんましねぇけど、なんか心臓がムズムズしてきやがったぜ!

 辻村は背中を擦りながら、振り返る一年生に向かって深く頷き、前方を指差した。ミヤコもニッと笑って肩を竦め、後方で遠慮がちに見学している一年生の背中を押す。

 旋盤チームが各自、高校時代と同じ旋盤に就いたところで、旋盤の、向かって左側の主軸台の起動スイッチを押す。主軸台とは内部に、工作物に回転運動を与える主軸を備えており、主軸を回転させるためのモーターや、回転数を変えるための歯車が内蔵されている箱型の機械だ。一般的に、普通旋盤の左側に設置されている。

 起動スイッチを押した。ブンと普通旋盤が一斉に起動した音が、工場棟に響き始める。起動ランプが緑色に点滅していることを確認し、陽介先輩が右手を上げた。

「煙水、回転数!」

 黒板の一番手前の旋盤に就いた煙水中が、指示を出す。

「一〇二RPMで五分間。オイルゲージ確認及び、各自工具及びバイト、工作物確認」

「了解」

 旋盤チームは、返事と共にほぼ同時に動き出す。

 RPMとは、回転毎分(revolution per minute)の略。回転などの周期的現象が一分間に繰り返される回数を示す単位で「回毎分」「回転/分」などとも表記される。

 主軸台の主軸回転数変換レバーを回して、一〇二と書かれた目盛りに合わせる。続いて、流れるように主軸高速・低速ギア変換レバーを低速ギアに設定、旋盤右側に手を伸ばして主軸起動レバーを握り、正回転の方向、上へと動かす。

 まるでスポーツカーのギア・チェンジのように、華麗だ。

 旋盤が稼働し始める。旋盤七基のモーターの回転音が重なり、ビリビリ空気を震わせる。

 一年生同士が顔を見合わせて首を傾げ、縋るような目でミヤコを見た。

 なんだ、もしかして、とっくに一学期が終わったってぇのに、旋盤の授業、やってねえのか?

 ミヤコはジミヘンを、じっと睨んだ。ジミヘンは豪胆に笑い、アフロ頭をフサフサ掻く。

「いやあ、一学期はとりあえず、工業とロックンロールについて、熱く語りすぎた。旋盤は教科書で、触りだけやった程度だな。まあ、でも、夏休みにこんな素晴らしい実習ができたんだから、結果オーライ!」

 なぁにが、結果オーライだよ。授業がベタ遅れて、学年主任の井川に怒られても知らねえぞ。ま、いいや、ちょうどいい機会だ。

 ミヤコは前に立つ坊主頭の一年生の肩を叩き、旋盤に向かって顎をしゃくった。

「RPMっつうのは一分間あたりの回転速度だ。本当はレボリューションなんちゃらっつう英語の略なんだけど、クソ長えから、RPM。つまり、黒板に一番近い旋盤の、ほら、寺や神社で祀られてそうな眼鏡の煙水中が言ってた、一〇二RPMつうのは、一分間に一〇二回転させろってこと。それを旋盤に沢山付いてるレバーを動かして設定するんだ。五分間ってえのは旋盤の準備運動だ。人間でもいきなりプールに入ってバタフライじゃ、心臓ばったり止まっちまうかもしれねえだろ? それと同じ」

 一年生は深く頷き「先輩、それで?」とミヤコに聞く。ミヤコはニッと笑って、旋盤を指差した。

「そんだけだ。あとは見てれば分かる。旋盤の大体の仕組みが分かれば、技術は目で盗むしかねえ。ほれ、準備運動がもうすぐ終わるぞ。よぉく見ろ!」

 一年生はミヤコに言われた通り、前傾姿勢になり、目を大きく開けて、旋盤作業に集中し始めた。ミヤコの隣に立つ辻村が、蹴られた背中を擦りながら、意地の悪い猫のように、口元をヒクヒクさせて囁く。

「レボリューション・パー・ミニッツ、ですよ。あしからず、先輩」

 ミヤコは舌打ちしながら、一年生に聞こえないように小声で返す。

「うるせえな、黙りやがれ、英語二め! 第一、意味が分かって言ってんのかよ!」

 辻村はビクッと肩を動かして、口をモゴモゴさせながら、細い目をぱちぱちと動かして、狼狽する。

「……ほら、心出し作業ですよ。目で盗まなきゃ、ねえ」

 ほれ、やっぱ、分かってねえじゃねえか! バーカ、知ったような口して、レボル……レボリュ……、レトリー・バー・ラビット? とか新種の大型ウサギみたいなこと言うからだ、バーカ!

 ミヤコは辻村の足をギュッと踏み付け、旋盤チームの作業に視線を向ける。

 旋盤チームは旋盤を停止させ、それぞれ切削準備に移った。主軸に、チャックと呼ばれる工作物を掴むための爪が付いた道具を六角棒スパナを使って、対角線上に固定していく。

 煙水中が旋盤チームに呼び掛ける。

「工作物の直径は、あらかじめ測定しておいたろ。心出しだ」

「はいはい、分かってるって、常識! 忘れてねえってえの!」

 高木先輩が返事をし、旋盤チームにどっと笑いが巻き起こった。

 心出しとは、チャックの四本の爪で工作物を挟む際に、工作物の中心を測定することだ。旋盤は材料を回転させて切削行うため、旋盤作業おいて心出しは非常に重要な作業になる。

 ミヤコ、辻村、ジミヘンは深く頷く。

 なるほど、的確な指示だ。直径をあらかじめ測定しておけば、工作物を挟み込むための四つの爪を半径だけ開ければ、工作物の取り付けが早くできて、作業の効率化に繋がるからな。

 旋盤の電源が一度ここで切られ、主軸高速・低速ギア変換レバーは下げられて中立の位置へ。

 旋盤チームは心出し作業へ。工作物をチャックの四つの爪で挟み、トースカンという、長い針が付いた置き物のようなものを、旋盤の刃物台が渡るためのレール部分のベッドに敷板を渡し、その上に置く。チャックを手動で回し、トースカンと工作物の隙間が均一かを、目で計測し、工作物をしっかりと固定する。

 作業は心出しから切削用の刃バイトの取り付けへ。

 今回の作業で主に使用するバイトは、高速度工具鋼や超硬合金などのチップを熔接した、付刃バイトと呼ばれるものだ。旋盤チームは敷板を選んで刃物台へ敷き、付刃バイトを、がっちり締め付けボルトで固定する。

 刃物台を右へ滑らせて、旋盤右に設置されている心押台のセンタへ合わせる。センタは左側のチャックに取り付けた工作物の中心と一致する。つまりバイトがセンタにぴったりと一致すれば取り付け完了というわけだ。

 沖本先輩が笑う。

「おっ、ピッタリ、僕、天才!」

 旋盤チームが順々に沖本先輩に向き「俺もだ」「僕も」「陽介先輩のほうが、もっと天才」と、ほぼ同時に宣言する。案の定、高木先輩が旋盤から離れ、中央に躍り出て「俺、敷板二枚でピッタリ、だから、俺が一番、カッコよくて天才!」とモデルのようなポーズを決める。

 はいはい、カッコイイ、カッコイイ。高木先輩、尻、破けてんぞ。

 煙水中が無表情のまま、感情の通っていない平べったい口調で旋盤チームの我こそが天才宣言を一蹴する。

「天才が多くて、俺は非常に幸せだ。お前ら全員、三年の三学期に赤点取って、誰が一番バカかで揉めてた頃が懐かしいな」

 一年生がぷっと吹き出し、ミヤコと辻村は大笑いして旋盤チームに拍手を送った。

 授業がほとんどねえ三年の三学期に赤点って、見事じゃねえか! そりゃあ、天才じゃなくて、体と手、目がに染み付いて、覚えてんだよ! 天才じゃなくて、職人だ。現役バリバリだな、安心したぜ!

        7

 旋盤チームが「誰が一番天才で、高校三年生のときバカだったか」と小競り合いしている間に、煙水中は一人で作業を進めていた。

 旋盤の電源を入れ、先程計算した図面通りの切削条件でレバーを動かし、指差し点検後、工作物を回転させる。刃物台を主軸に近づけバイトの先端を刃物台横方向送りハンドルで細やかに動かして、近付けていく。

 煙水中の動きがピタリと止まった。

「ゼロセット。切削作業が始まるぞ」

 ミヤコが静かに呟き、一年生が煙水中に視線を向ける。

 切り込み量の基準点を決めるため、バイトの先端を回転する工作物の外径にほんの少し近付け、刃物台横方向送りハンドルの目盛りをゼロに合わせる作業だ。

 煙水中は先端と工作物の間合いを熟知しているかのように、微調整なしでゼロセットを行った。

 一度バイトを工作物から離して刃物台横方向送りハンドルを操作し、切り込み量を与える。次いで、往復台縦送りハンドルを回して、再び工作物へと近付ける。

 煙水中は旋盤チームに右手を翳して宣言した。

「切削作業開始だ。言っておくが、バカも天才も、そう変わらんぜ。黙って額に汗して働く奴が、一番偉いよ」

 旋盤チームは口を噤み、煙水中は右手で《往復台・刃物台自動送りハンドル》を操作し、バイトを一定の速度で横に流す。

 シュルルルと鉄が軽快に削れる音が、工場棟に響き渡った。

 撫でるような外径加工。工作物の側面は銀色に輝いている。

 速い。瞬きをしてる間にすぐ削れちまってるぐらいだ。

 煙水中は削れる鉄の音を聞き、工作物に注視しながら、バイトの送りを止めた。《刃物台横方向送りハンドル》を右手の掌で触り、切り込み量をさらに深く設定する。

 ミヤコは目を細め、煙水中の手元に注視した。

 とんでもねえ、中の野郎、掌で目盛りを読んでやがる。熟練工のジジイかってんだ。

 煙水中は、目で工作物を捉え、掌で目盛りを読んでいる。

 手首の角度と力の加減で、正確な切り込み量を調整し、目で切削状態を確認する。

 瞬く間に、工作物に美しい括れが出来上がった。煙水中はバイトを工作物から逃がし、旋盤の稼働を止める。

 尻ポケットに差していたノギスを取り出し、ノギスの外径測定用ジョウで外径を挟み、目盛りを確認する。

 ミヤコは呟いた。

「ピッタリだ、間違いねえ」

 煙水中のあの顔は、完璧な作品ができたときの顔だぜい。無表情だけど、アタシには分かる。切削開始からまだ一分も経過してねえのに、なんだってんだ、この作業の速さは。これで、本業じゃねえっつうんだから、信じらんねえ。西中原の工場のオッサンが正規社員にしたくて、花火屋がさっさと潰れますようにって、神棚に祈るわけも分かるぜ。あー、もう、カッコイイじゃねえか、バカ野郎っ!

よっしゃあ、カッコイイ煙水中の野郎を見て、俄然やる気が出てきたぜ! 

てめえの作った工作物を見事に熔接してやろうじゃねえか! ミヤコ様の熔接技術、とくと、その目に焼き付けろぃ!

        8

 ミヤコはアセチレン・ボンベと酸素ボンベを載せた手押し車を立てた状態で置き、熔接室の全ての窓を開けた。熔接中に発生する有害物を吸うと、中毒になる恐れがある。狭い室内で長時間の熔接作業を行うと、酸素不足による不完全燃焼で一酸化炭素中毒になる危険性が考えられる。

 ミヤコは窓を全開にしながら、辻村を呼びつけた。

「おい、辻村。巨大な招き猫みてえにつっ立ってねえで、適当な一年を見繕って、手伝え」

 辻村は目を細くして笑い、鷹揚に頷く。

 はいはい、猫の手も使えってね。そんなに目を三角にしなくても、すぐに参りますよ、熔接・熔断の鬼さん。熔接作業は個人作業がほとんどですからねえ。今のうちに一年生に、換気と可燃物を退かす作業、消火器の用意、あとは移動できない大きな可燃物を防炎シートで覆う作業を手伝わせるつもりなんでしょうねえ。

 辻村は見学者の壁から作業着の色で判断し、機械科と電子機械科の一年生から目が合った生徒、合計六人に声を掛けた。

「あなたたちね、ちょっと手伝ってくださいな。機械科と電子機械科は、熔接作業の実習は必修科目ですからねえ。電子機械科は二年生からですけど、習っておいて損はありませんよ」

 選出された一年生は、どぎまぎしながらも、どこか誇らしげな表情で、熔接室に踏み入る辻村のあとを追ってきた。辻村は振り返り、並んでついてくる一年生に気付かれないように、小さく笑う。

 おやま、行儀良く一列になって、まぁ。ヒヨコかカルガモのようですねえ。

 辻村は用具棚から防炎シートを取り出して二名に渡し、移動できない鉄庫や切断機などに覆い被せるように指示を出した。残りの四名には換気、移動可能な可燃物の退避、消火器の用意の指示を出す。一年生は「はい」と返事をし、さっそく作業に取り掛かった。

 辻村は熔接用の作業ズボンに片足を通しているミヤコに訊いた。

「こんな感じの指示出しで、よろしかったでしょうかねえ」

 ミヤコはスカートの下から熔接用の作業ズボンを穿き、ぐっと持ち上げて、ジイーッとチャックを上げた。捲れ上がったスカートのホックを外し、ズボンを穿くと同時に脱いで、辻村に放り投げる。

「おう、あんがとな。辻村、パスッ」

 パスって、ねえ、ミヤコくん。スカートをフリスビーみたく投げないでくださいよ。一応、口が矢鱈に悪くても、あなた、女の子なんですから、もうちょっと着替えに気を使ったらどうなんですかねえ。銭湯の常連客のオジサンじゃないんですから、屈伸運動するみたく、作業ズボン穿くのは、止しましょうよ。

 辻村は回転するスカートを受け取って、右腕に掛けて丁寧に畳み、ワタセンに預ける。

 ミヤコはしゃがみ、熔接用安全靴のマジックテープをギュッと手前に引いて締めた。更にその上から熔接用脚》で被い、飛び散る火花から足を守るための装備を整えている。

 ミヤコはしゃがんだ状態から、跳ねるようにして立ち上がった。用具棚の抽斗から熔接エプロンを取り出し、作業着の上に重ねて着用する。

 ミヤコは、爪先から胸までの完全装備になると、早足に階段横の手洗い場へ。辻村も後を追いかけた。

 熔接作業前に、手に付着した機械油を完全に落とすため、工業用の粉石鹸で手を研磨するように擦り合わせ、水道水で綺麗に洗い流す。ミヤコは大きな目で両手を注視し、真剣な面持ちで、爪の間まで洗えているかを神経質に確認した。

 この繊細さが、日常の部分に少しでも表れるといいんですけど、実習のときにしか姿を現さないから、謎ですよねえ。UFOから出現するエイリアンみたい。

 ミヤコは手洗いが終わると、パイプを上に捻り、蛇口を全開まで回した。

「水分補給、開始!」

 大きく口を開けてガボガボと水を飲み、水を飲みながら、顔と頭を洗う。熔接の準備作業を終え、辻村に報告しにやってきた一年生が、水分補給をするミヤコを見た途端に、溌剌とした笑みと言葉を失った。

 辻村は床に飛び散る水滴を、雑巾で丁寧に拭き取っていく。

 まあ、唖然とするのも無理はありませんよね。なんたって豪快ですから。人は自分の予想を遙かに上回る豪快な生き物を見たとき、誰しも理解に苦しみ、絶句するものです。

 辻村は手洗い場の隅で雑巾を固く絞って干してから、ミヤコを手で指して、一年生に状況を説明した。

「熔接作業は水分を失いますからね。水分補給をしておかないと、脱水症状になります。ザトウクジラが一回の餌を食べるとき、五十五トンもの大量の海水を一度に口に含むのと同じように、ミヤコくんも一度の熔接作業に五十五リットルもの水を吸収するわけです。ミヤコくんとは、熔接作業のために、人知を遥かに凌ぐ進化を遂げた生き物なのです」

「誰がじゃ!」

 ミヤコは口に含んだ水を、水鉄砲のようにして、べしゃっと辻村の背中に飛ばした。水道の蛇口を固く締め、再び熔接室へと足早に向かう。旋盤室から、切削が終わって磨き上げられた部品が、種類別に分けられて次々と旋盤室に運び込まれていた。

 ミヤコは黒色の酸素ボンベを専用の台に載せた。

圧力調整器取付け口を体に対して左横方向に向けて、しっかりと固定する。ボンベ上部の尖っている、スピンドルと呼ばれる部分にコック・ハンドルを取り付けて、左手でスピンドルとコック・ハンドルの中心部を被う。

右手の甲でコック・ハンドルを反時計回りに軽く押し込み、シュッと酸素が吹き出した瞬間に、今度は指を引っ掛けて時計回りに締める。

 揃って首を傾げている一年生より約一メートル前に出た、辻村が説明を始めた。

「弁を開いて酸素を出し、圧力調整器取付け口付近の埃を飛ばしているんです」

 速くて鮮やかですねえ。よく目を凝らしていないと、動作が早くて分かりませんよ。

 ミヤコは右手を器用に翻し、押して戻すを三回、ぱっぱと繰り返す。

 コック・ハンドルを右手で外し、左手で用具棚の圧力調整器を手に取って圧力調整器取付け口へ、水平に差し込む。ナットを人差し指と親指で摘み、くるくると捻じ込む。

 ミヤコは右手のコック・ハンドルを作業台へ静かに置き、目で圧力調整器を捉えたまま、短刀を鞘から引き抜くようにして、素早くレンチに持ち替えた。

 旋盤室に戻る足を止め、辻村の横で熔接作業を見学する煙水中が呟く。

「あいつの右の掌には、もう一つ目玉が有る」

 辻村は目を細くして肩を竦める。

 他人のこと、言えないでしょうが。左の掌で目盛りを読むくせして。

 ミヤコはレンチを掴んだ右手にぐっと力を入れ、ナットを締める。ナットがしっかり締まったことを目で確認しながら、今度は左手を用具棚に走らせてリーク・チェックを掴み取る。リーク・チェックとは、スプレー缶に入ったガス漏れをチェックするための液だ。石鹸水を刷毛で塗り付けるよりも確実で、作業効率が良い。ミヤコはリーク・チェックをスピンドルと圧力調整器接続部周辺に拭き付け、大きな目を皿のようにして、気泡が無いか探す。

 旋盤室から熔接室へやってきたジミヘンが辻村と煙水の間から、モサッと顔を出した。ヒゲをピクピクと動かして満面の笑みを浮かべながら、自慢する。

「ここまでの作業、約一分。速いだろ、まるで魔法だ」

 煙水が淡泊な口調で返す。

「ジミヘン、俺は魔法という言葉は、全てが具体性を失うから、嫌いだぜ。速いのは、技術力に頭の回転が備わっているからだ。魔法じゃない」

 ジミヘンは髪の毛をフサフサと揺らし「それも一理あるな」と頷く。

 辻村は、ミヤコの作業に視線を向けながら、煙水中とジミヘンの会話に耳を傾ける。

「僕は、魔法でも、技術力と頭の回転、どちらでも構いませんけどねえ」

 速いことは明らかですし、なにより見ていて爽快ですからね。自分より技術力の高い職人を見るのは、眼福の一言ですよ。ほら、僕たちが議論を交わしている間に、褐色のアセチレン・ボンベ用の圧力調整器まで取り付けが終わって、ゴムホースの取り付けに入ってるところなんざ、まるで、燻し銀の殺陣を見ているようじゃありませんか。ゴチャゴチャと混み入ってる熔接作業のあれこれを、女の子が一人で立ち回り、ばっさばっさと斬り倒す。残るのは、キチンと準備された熔接器具と、爽快感のみ。

 まさに、快刀乱麻を断つとは、このことです。

 ミヤコは酸素ボンベ、アセチレン・ボンベに乾式安全器とゴムホースを接続し終わると、ふう、と大きく息を吐き出した。ついでに首を、コキコキと鳴らす。用具棚から防塵マスク、熔接帽子、遮光眼鏡を取り出して、順番に装備して顔をすっぽりと覆い隠す。

 最後にホルスターから熔接トーチのボンゾを抜き出した。西部劇の抜き撃ち拳銃のように右手で構え、一年生より前で見学する煙水中、辻村、ジミヘンを、ピシャリと叱る。

「さっきから、ゴチャゴチャうるせえな、そこの眼鏡と、アフロと、猫男! 作業に集中できやしねえ! ただでさえ暑いのに、勝手に喋って温度ばっかし上げんじゃねえよ! 働かねえ外野は黙ってろ!」

 おお、怖っ。これは、失礼しました。

 眼鏡とアフロと猫男こと、煙水中、ジミヘン、辻村はバツが悪く口を噤み、肩身を狭くして、一歩後ろへ下がった。

        9

 ミヤコは酸素ボンベのスピンドルにコック・ハンドルを取り付け、弁を二分の一回転ほど開け、圧力調整器の二つの目盛りを確認した。一次側圧力計で酸素の残圧が充分にあることを確認し、二次側圧力計を見ながら圧力調整ハンドルを捻って、使用圧力を調整する。

 使用圧力は酸素一〇に対して、アセチレン一の割合。一回の調整で、酸素を〇・二MPa(メガ・パスカル)ちょうどを捻り出し、続けてアセチレン・ボンベも同様に目盛りの確認及び使用圧力を調整した。

 ミヤコは熔接トーチと酸素のホースを、クイック・チェンジ・アダプタで、カチッと音がするまで繋げた。酸素ボンベに取り付けた酸素圧力調整器の通気弁を回して開き、熔接トーチに酸素を送り込むと、熔接トーチのアセチレンガス・バルブ、酸素バルブを順番に開き、指の腹に熔接トーチのインジェクタを当てて、正常に機能しているか吸い込みの確認を行う。

 まるで名うてのガンマンが装填する拳銃のごとく素早い動作に、一年生から「カッコいい」と歓声が上がる。無表情で肩を竦める煙水中の肩を辻村が軽く叩く。

「そりゃあ、旋盤より熔接のほうが派手で、分かりやすいですからねえ」

「工業に、派手も地味もねえ。ただ、火を使う作業の恐ろしさを、実習で嫌というほど思い知ることだろうよ」

 煙水中は呟き、辻村は笑って鷹揚に頷く。

 まあ、花火屋の煙水中が言うんだから、間違いないでしょうね。いくら完全防備しているからといっても、火花が当たって火傷はしますし、髪は焦げますし、身形を気にしていたら、まず絶対できませんしね。ミヤコくんが髪型をショートカットにしている理由が、熔接作業のためと知ったら、何人の一年生が熔接作業を嫌いになることやら。

 ミヤコはアセチレンガス・バルブと酸素バルブを締め、熔接トーチにアセチレンのホースを接続した。酸素ボンベとアセチレン・ボンベのスピンドルを締め、ガス漏れチェックを行う。リーク・チェックを全体に吹き付け、ボンベと圧力調整器、ホース、トーチの連結部を入念に確認する。

 ミヤコが圧力調整器の二次側圧力計を睨み付け、針に振れがないことを確認すると、再びスピンドルを開け、一年生に声を掛けた。

「熔接、点火を始めるぞ。手順を説明するから、一年、耳かっぽじって、よぉく聞け!」

 ミヤコは熔接用手袋を装着し、右手に熔接トーチを持った。左手で粉塵マスクを下げてから、アセチレンガス・バルブを手前に回し、床に置いた柄の長い熔接用ライターを握る。

 ミヤコは、熔接用ライターを持った左手を高々と、一年生に見えるように掲げた。

「親指を、このライターの柄の輪っかの部分に引っ掛けて、一気に内側へ回す。熔接用のライターは火花しか出ねえけど、煙草に火ぃ点けるライターの要領と同じだ。中学んときから煙草を喫ってる奴のほうが、アタシよりも上手だと思うぜ!」

 一年生の中にどっと笑いが起こる状況に、辻村は肩を竦めた。

 なるほど、掴みは上々のようですね。一年前に、今の二年生に同じように説明したときは、過半数がマズイって顔をして黙りましたからねえ。今年の一年生は純朴そうで、なによりです。

 ミヤコはニッと笑いながら左手を下げ、右手に持った熔接トーチの火口を熔接用ライターに近づけた。熔接用ライターに掛けた親指にぐっと力を入れ、ホイールを回す。

 ボッと短い音が響き、熔接トーチがオレンジ色の炎を吐く。

 一年生は「おおっ」と、揃って肩をビクつかせた。

 ミヤコはライターを床に置き、左手で酸素バルブを左回転させる。

「序の口だぜ! この火って感じの色が炭化炎だ。炭化炎じゃ鉄は熔かせねえ。だから、中性炎ってやつにするため、慌てず酸素バルブを左手で捻る。慣れるまで徐々に回せ、いいな?」

 酸素バルブで酸素の量を調整し、火口から噴き出すオレンジ色の炭化炎が青白い中性炎に変わっていく。炎の形も、鋭い刃のように真っ直ぐになった。

 ミヤコは左手で中性炎を指差す。

「中性炎ってえのは、この火口に一番近い、ピカーッて明るい部分を白心と呼ぶ。最高温度はこの白心のちょっと先の部分だ。中性炎が大きすぎると感じた場合は、まず酸素バルブ、次いでアセチレン・バルブの順に絞って調節する。消火するときは、その逆だからな!」

 一年生は深く頷き、熔接トーチの火口から噴き出す中性炎をじっと見詰めた。

        10

「ミヤコくん、図面は?」

 辻村がミヤコに聞く。ミヤコはニッと笑い、左手指で蟀谷をトントンと叩いた。

 図面はさっき、頭の中に全部入れたぜ。任せろ。

 ミヤコは頭の中の図面を広げ、熔接部分の確認して、作業を組み立てる。視線を部品に走らせて、作業手順を組み立てる。

 よし、最初は部品同士を「T」の字に熔接する《下向水平、隅肉熔接》だな。使用する軟鋼棒は部品の大きさからして、ざっと三・〇φ(ファイ)ってところか。

 ミヤコは軟鋼棒を左手に持ち、熔接トーチを握った右手の力を抜いた。首を左右に一回Dけ動かして頭を振り、目にぐっと力を入れて部品を捉え、仮付けする位置を描く。

 仮付けとは、熔接作業の前に、ズレが生じないよう、あらかじめ熔接する母材同士の数カ所を熔接しておくことだ。

 辻村が一年生に説明する。

「本来なら、罫描き針などで印を付けます」

 そう、本来なら。印を付けるのが正しいやり方だ。いわば、教科書どおりってやつだ。

 だけど、そいつは、また時間があるときにでも見せてやらぁ。熔接ってえのはな、旋盤みたく、百分の一ミリがどうとかっていう、正確な図面はねえ。決められた熔接方法を、いかに効率よく、安全に、熔接する奴が熔接しやすいようにやるかだ。ライブでいうところの、ドラムソロなんだよ、熔接は。んでもって、熔接は、アドリブ!

 アタシの、熔接の好きなところは、決められた幅の中で、自由にやれるってところだ!

 ミヤコは、熔接トーチで部品を熔かし、等間隔に四カ所、仮止めをする。鉄が熔けて紅蓮色に歪んでぷっくりと盛り上がる《プール》が、ジリジリと熱い。

 ミヤコは熔接トーチを斜め四十五度に倒し、熱の逃げ場を作りながら、耳に神経を集中させた。

 異常な音は聞こえない。聞こえるのは、シューシューと熔接トーチが唸る音だ。熔接トーチが唸る音は、火と鉄の声だ。

 誰かに教えてもらったんじゃない。火傷を繰り返して、ミヤコ自身が身につけた技術。

 ミヤコは再び熔接用のプールを作った。鉄が赫々と輝き、頃合いを見計らう。水で冷やした皮膚があっという間に焦げるように熱を持つ。

 毛穴が開いて汗がぶわっと吹き出し、頬から流れた汗が首を伝って作業着の襟に染み込むまでが細やかに分かる。体の全てが四肢になって、熔接作業を行っているような感覚だ。

 ミヤコは大きく息を吸い、火と鉄の声に耳を澄ました。

 声に重なり、捲し立てるようなコール&レスポンスが繰り返される。尖ったギター、地面を叩いて均すようなベース、分厚い壁も粉々に粉砕するようなボーカルの声の衝撃。

 足りないのは、いつもドラムだ。「お前が叩け」と、「誰か」から、背中を押されている感覚がする。

 毎回、ボンゾかな、って思う。だけど、ボンゾはホームシックで飛行機恐怖症だから、イギリスには戻ってきても、きっと日本には来ない。

 だから、きっと押している「誰か」は、アタシの中のロックンロールの魂だ。もしかしたら天国の祖父ちゃんかもな。

 ミヤコの耳の奥で、作業開始を告げるボーカルのシャウトが響く。

 ミヤコはフッと笑い、歌うように呟く。

「モビー……ディック」

 熔接棒をプールの中へ。同時に熔接トーチを右から左へと流す。速過ぎれば熔接が不充分になる。かといって遅過ぎれば不必要な歪みが生じ、鉄材に穴が空く。

 体が覚えたリズムと手首の加減だ。ミヤコは熔接トーチを、楕円を描くようにして揺らし、大きな熔着金属ビートを作り上げていった。

 ミヤコの耳に歓声が響く。それが、耳の奥で響いているロックンロールの観客の声なのか、見学している一年生の声なのかは、分からない。

 どっちでもいい。最高のアドリブができて、最高の作品ができて、アイロン・ワークスが最高のステージで最高の演奏できれば、アタシはそれで満足だ。

 ついでに、熔接のことをハイパー好きになってくれる熔接バカが増えれば幸せだ。ロックンロールが好きだと、もっと幸せだ。

 鉄は、誰かの夢と希望で形を変える。

 ステージだったり、新幹線だったり、宇宙衛星だったり、病気と闘う人の点滴の針だったり。

 その誰かのために命がけで作業するのが、工業に関わる奴らだ。

 だから似てるんだ。音と鉄は。

 ミヤコは熔接棒を作業台に起き、熔接の終わった部品を熔接用トングで挟んで、作業台から退かせた。

「いっちょ上がり。さて、熔接は続くぜ」

 ミヤコの耳に奥のずっと奥では、数百万の軍隊を追い払う地上掃射のような、ドラミングが繰り返されている。


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