第一話『はじめまして、清子さん』

1-1『おはよう、羽村さん』

 水曜日とは平日である。

 日本に住んでいる人間なら、みんなが知っている当たり前のこと。

 しかし、俺がダラダラと歩いているこの道に広がる商店街は、まるで年がら年中日曜祭日が訪れているみたいだ。

 つまるところ、ここはシャッター商店街というやつだ。異様に静かなのは、肌寒い春先の早朝だからというのもあるだろうが、そうは言っても商店街の時計を見れば、出勤や登校のピークは過ぎている。こういうラッシュ人口を相手にする店がろくに開いてないというのは、商店街としては崩壊しているように見える。

 唯一、魚屋の前で老婆がこの寒いのに打ち水をしていた。しかしこの店は確か三年前に店仕舞いをしていたはずだ。あの人も癖でやっているんだろう、もうこの店の前に土煙が立つことはないのに。



 最寄りの繁華街から電車で七駅も離れたこの町は、俺が住み着き始めた八年程前からこんな感じだった。それでも昔はまだ、生活に不自由する程に錆びきった町ではなかったはずだけど。

 ふと、打ち捨てられたスタンドミラーが目に入って、俺は自分の姿を映してみる。

 ボサボサに伸びた髪の毛は、我ながらむさ苦しい。肩は越えてないのがまだ救いといったところか。しかし、よれたワイシャツと黒のチノパンという組み合わせも相まって、客観的に見るとリストラされたサラリーマンのように見える。まあ、ある意味この商店街を歩くにはお似合いの格好なのかもしれないが。

 そのうち髪くらいは整えたいと思うものの、先立つ物がないと難しいところである……。

『お、辛気臭い奴がいると思ったらお前か』

 ふいに声がしたかと思ったら、肩に何か重いものが伸し掛かってきた。鏡には、冴えない男の左肩に三毛猫が乗っかっているのが見えた。

「ゴジュ……重い」

『文句を言うより先にもっと身軽に動けるようになっておくんだな。いやぁ、人間の肩ってなんか知らないけど居心地がいいや』

 ゴジュのことは、この町で暮らし始めた頃から知っている。町で生まれ育った野良猫で、残飯を人間から分け与えられながら生きている、逞しい猫だ。

『ん、ネズ公の匂いがするな。その中か?』

『うわぁ! や、やめろアホ猫ぉ! ひぃっ、引っ掻くなぁ! は、羽村はむらぁ、助けろぉ!』

 流石は猫、ゴジュは肥え太ったハムスターの存在を、自慢の鼻で即座に察知した。しかし朝っぱらからスプラッター劇場を嗜む趣味はないので、程々で止めておいてやる。

「俺の数少ない服を赤く染めてくれるな」

『こっちも腹ペコでね、ちょっと厄介なことになってさ、最近なかなか残飯漁りも辛いんだよ』

 そう言って、ゴジュは俺の肩から飛び降りた。そして、名残惜しそうに俺の胸ポケットを見ながら続きを話す。

『最近、他所から野良犬が来た。そいつがまた凶暴で、この間も仲間が噛まれたし、人間も怖がってんのか、ここの所は残飯を手渡しでくれなくなってな。ゴミ捨て場は今や戦場だよ』

「そんな荒くれなのか?」

『ああ、仲間全員で襲いかかってなかったら、下手すると死んでたかも』

「……」

 この町は閑散としている分、人間も動物も長閑な感じの土地柄だ。その犬は余所者だという話だが、そう遠くないところから来たはずだ。例え隣であろうと町が違えば土地柄も変わってくるということか。

『お前、もし野良犬を見かけたら、さっさと追い出してくれよ』

「そういうのは役所の……えーっと、もっと偉い人間のお仕事だから。俺個人で何かするっていうのは難しいよ」

『アイツ、人間をすごい警戒してるんだ。せめてちょっと脅かすだけでもいいからさ。参ってるんだよ、俺達も』

 ゴジュは軽く話しているが、見た目よりも疲弊しているのが口調から感じ取れた。昔から荒事には関わっていなかったし、こういうピリピリしたのは初めてなんだろう。

 しかしそう言われても、うちは野良犬処理に関しては原則対象外だ。何故なら、人の生活に危険を及ぼす野良犬ともなれば、役所が動くからである。要するにわざわざ金を払ってどうこうしてもらう必要が本来ないということだ。

 さりとて、いざやろうと思ってやれるかというとまた別の話である。普段俺が相手をしているネズミとは訳が違う。

「……約束は出来ないけど、機会があれば何かしら手段は講じる」

 だというのに、俺はうっかりと安請け合いしてしまった。どこかヘトヘトなゴジュを見ていたら、なんだか放っておけなくなった。こんなんだから俺は金運の神が微笑んでくれないのかもしれない。

『そうかそうか。じゃあ感謝の印にそこのネズ公の命は預けておこう』

『何ぃ! おい羽村ぁ! いつの間にかオイラの命が賭けられてるぞぉ! 絶対なんとかしろよぉ!』

「へいへい……」

 我ながら考えが甘すぎるし、無責任だと思う。しかし、口に出したからには、俺という泥舟にも出来ることくらいは、しないといけない。

 帰り際に見廻りくらいはしておくか。そう思いながら、俺達はゴジュと別れた。

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