羽村さん、また明日

灯宮義流

本編

開店『羽村さん、こんにちは』

 腕の良い探偵ほど、事務所は流行らないものだ。

 何故かと言えば答えは簡単。本当の名探偵というものは、自分の功績をやたらと誇示したりはしないからだ。

 自分をもっと売りだそうとして、血眼になるような奴は、結局自分の腕の無さを認められず、知名度のせいにしているに過ぎない

 腕利きの名探偵は、ただ事務所の椅子に座って、どっしり構えて、タバコを咥えながら、日々を退屈に過ごすのだ。

 事件なんて天の采配が全てである。退屈そうな探偵を見かねて、神が事件の種を放り込んでくるまで、探偵は口を開けて待っているしかない。

 無様に餌を探し回るような輩は、いずれ事件の渦中に放り込まれ、自らが種になってしまうことだろう。

『なあなあ』

 助手が声をかけてくる。随分と馴れ馴れしいが、これも信頼の証といったところだ。

『飯はまだか羽村はむらぁ、オイラ死にそうだよぉ』

「……」

 全く、食いしん坊な相棒だ。俺に話しかけてくると二言目にはそれだ。

 ちょっと間が抜けているが、名探偵を引き立てる相棒としてはこれ以上ない相手かもしれない。

『おい、無視すんなよぉ! ったくぅ、またコイツ馬鹿なこと考えてんなぁ』

「……」

『オイラはなぁ、繊細なんだよぉ、腹減るとストレスって奴でオイラ死んじまうよぉ。なあ羽村ぁ!』

「うるさいなもう! いいか、この俺が気持ちの良い朝を満喫しているというのに邪魔をするんじゃない!」

『よくわかんねーけどさぁ、とりあえず飯くれぇ』

 なおも飯をねだる居候に、俺は怒鳴り散らすしかなかった。

「うちの経済状況は常に逼迫しているんだよ。昨日の夜にあげたのに、もう全部食ったの?」

『ああ、もう全部食ったぞぉ。ゲンザイなんとかがって、よくわかんねーけどさぁ、飯くれぇ』

「窓から吊るしてやる」

 腹が立った俺がケツを摘んでやると、ジタバタしながら居候は命乞いを始めた。

『うわぁ! そういうの虐待って言うらしいぞぉ! 悪いことなんだぞぉ! やめろぉ!』

 確かにこういうやり方はどうかと思うが、理解出来ないなら身体に教え込むしかない。

 あれ、でもハムスターって、しつけ出来るものなんだっけ……?

 もし無意味だったら、俺はただコイツを虐めてるだけってことになる。なんだか居心地が悪くなってきた。

『てめぇ羽村ぁ! 泣く子も黙るぽんすけ様の恐ろしさを知らねぇなぁ! まだやるってんなら……オイラが泣くぞぉ!』

「知るかっ」

 呆れた俺は、脱力してぽんすけを寝床に戻してやる。古びたケージの中に戻ったぽんすけは、身の危険が去ったとわかると一転して強気に出る。

『お前よくもやったなぁ! 今度寝てる間にテメェの耳を噛み千切ってやるからなぁ!』

「良い度胸ですな、じゃあその寝床ごと窓から吊るしてみようか」

『生意気言ってすいやせんでしたぁ!』

 ぽんすけの反乱は、一言で鎮圧された。なんて底の浅い反逆心だろうか。

 うっかりオッサン臭い溜め息が出てしまう。こんなやりとりを毎日のように続けている。学習しないのは俺もぽんすけも同じだということだ。

 俺は棚に仕舞っておいたパックから固形餌を何個か摘むと、ケージの中に放ってやった。

 それを見たぽんすけは、俺を潤んだ瞳で見つめながら礼を言う。

『さっすが羽村ぁ、わかってんじゃねーかぁ! あんがとよぉ!』

「こんなペースで食わせてたら一ヶ月保たないし、そもそもお前の健康にも関わるんだからさ……少しは我慢してよ、ね?」

『おう、わかってるってぇ!』

 ぽんすけ、お前さんはこの間も同じことを言っていたのを覚えているぞ。

「普通のハムスターは一日一回、適量を与えれば十分って聞いたんだけどな……」

 そろそろ買い足さないとなぁと思っていると、今度は俺の腹が鳴り始めた。こっちは心頭滅却するしかない。



 ぽんすけの満足そうな声が聞こえてきた頃、俺の耳にカンカンという音が入ってきた。ここは小さなビルの二階で、古い鉄製階段なために、足音がよく響いてくるのだ。

 かれこれ五年もここで住んでいると、どんな相手が来るかは音で判断出来る。

 足音の間隔が非常に短い。ということは、相手は明らかに苛立っているということがわかる。するとそんな勢いでやってくる相手は限られている。

「ぽんすけ、食い終わったか?」

『んあぁ? どっか行くのかぁ?』

「逃避行だ」

 俺は、ワイシャツの胸ポケットにぽんすけをしまうと、出入り口の壁に張り付いて様子を伺った。扉がガチャガチャといじられている。どうやら鍵を開けようとしているらしい。

 俺が目当てなのは間違いない。文字通り息を潜めた俺は、精一杯身体を壁に押し付ける。

 やがて、鍵が開く音がすると、勢い良く扉が開いた。

「こらぁ! 今日という今日は絶対に逃さないぞ、貴様ぁ!」

 全開になった扉が、壁に張り付く俺の姿を上手く隠してくれた。おかげで、刺客にその存在はバレていない。

「居ない……この狭い事務所の中で隠れられるとしたら押入れとトイレくらいだけど。まさかこんな朝早くから外出しているのか?」

 扉の陰から、俺は刺客の姿を確認した。色白の肌にやや色素が薄い髪が目を引く。吊り上がった目と太い銀縁の眼鏡が、彼を理知的に見せている。痩せ型の体型もそれを後押ししているのかもしれない。

 だが、俺はあの男がどういう奴かを知っている。陰険で冷酷、人に情けをかけることなどない非情な男だ。

 映画で言えば、命乞いする部下を笑顔で殺すタイプだ。しかも一度は許したと見せかけて、頭をあげたところを脳天に一発ズドン。

 その顔を想像するだけで吐き気がする。しかし奴はこんな子供騙しの手に引っ掛かってくれている。

 所詮は青二才、ケツの青い間抜け小僧が、人生経験豊富な俺の策略の前に、勝てるわけがないのだ。

 少し経って、男がトイレに向かった隙を伺って、俺は扉の影から抜け出す。あとは外への脱出を試みるだけ。

「……なんて、引っ掛かるか!」

 逃げようとする俺の肩が、強い力で掴まれる。コイツ、ヒョロい外見の癖に案外握力が強い、痛い。

「いやぁ、お久しぶり。最近お顔を拝見してなかったけれども、年甲斐もなく隠れん坊出来る元気があるとはね。安心したよ」

「こ……これはお坊ちゃん」

 振り向いて刺客の顔を見る。勝ち誇ったようなニヤケ面が非常に腹立たしい。しかもこれ見よがしに眼鏡に手を当てている。

「ご用件はお分かりだろう? さあ、文字通り年貢の納め時だ」

「はて、オラ畑なんざやってねぇかんなぁ……ごめんしてけろ」

「どこの方言だ! ごまかしても無駄だぞ!」

 奴は俺に手を差し出し、俺を睨み続けた。男なんかまじまじの睨みつけて、一体何の得があるのだろうか。

「ひょっとして、恋人が居ないから暇だったりする?」

「関係ないだろ!」

「むしろ、友達も居ない?」

「その肩もぎ取って、お前の口に突っ込んでやろうか?」

「グロテスクな趣味だなぁ。そりゃ交友関係も狭まるわなぁ」

「いい加減に僕が可哀想みたいな空気を作ろうとするのをやめろ!」

 交友関係が少ないという点に関して、全く反論してこない辺りが、彼の悲しいところである。口に出すと流石に哀れ過ぎるので言わないが。

「まあ良いことあるから、頑張れ冷蔵庫くん」

「その呼び方もやめろ! 僕の名前はれいぞうだ! 礼儀を重んじる人間になれと、死んだ父さんが付けてくれた名前だと何度言えば……」

 俺は思わず鼻で笑った。

 礼儀を重んじる、そんな言葉をこの男から聞くとは。だとしたら人生の先輩にもっと敬意を払うべきではないか?

「おい、なんだその呆れた顔は」

「いやゴメン、似合わない言葉が出てきたもんで、つい」

「……大体お前がどんな悪口を思い浮かべたかは想像が付いた。だけど人の礼儀を笑う以前に、お前は常識を覚えろ」

 と言って、冷血男は右目をヒクヒクさせながら、俺に手を差し出した。

「さっさと家賃を払え」

「…………」

 俺は黙り込んだ。

 なんて卑怯な奴だ、いくら口喧嘩で負けたからって、家主の孫という立場を利用して小遣い稼ぎに走るとは。一体どんな教育を受けてきたのか。家主の爺さんに問いたださないといけないな。

「爺さんから、町内会の旅行中にちゃんと回収しておけよって言われているんだ。さあ、ツケにしていた分も、耳を揃えて出してもらおうか、アラサー親父」

「まだ二〇代ですぅ! お兄さんって呼べ!」

「まともなお兄さんはこうも家賃を滞納したりしない、違うか?」

 冷血男の言葉が、俺の胸を貫く。

 おかしい、いつの間に俺は不利に追い詰められた? いや、既に俺は奴の術中にはまっていたのか?

 確かに、捕まった時点でなんとか話題が出ないように口喧嘩を興じた。もしかすると、その作戦がそもそもの間違いだったのだろうか。

 もはや冷血男は俺を逃がすつもりはなさそうだ。ニヤリと笑いながら手を差し出し続けている。

 最早これまで……と諦めたいところだが、そうもいかない。ここの所、俺は酷い金欠で首を絞められているのだ。

『なあ羽村ぁ。さっきからうるせぇけどよぉ、まだ出かけねぇのかぁ?』

 その原因の一つである齧歯類はポケットの中からブーブー言っている。まるで四面楚歌だ、味方が一人としていやしない。

 こうなれば最後の手段を使おう、出来ればこんな酷い手段に出たくはなかったが、ここまで追い詰められてしまったら仕方ない。

 俺はあからさまに目をギョッとさせて、勢い良く床を指差した。

「あーっ! ムカデが這ってる!」

「うわぁぁ! 来るな来るな来るなぁ!」

 冷血男の手が俺の肩から離れた瞬間、俺はダッシュで階段を駆け降りた。転げ落ちなかったのは奇跡だろう。

 振り返ると、小さなビルの窓から色白の青年が、物凄い剣幕で俺に向かって怒鳴り散らしていた。

「この万年家賃滞納者! 今に見てろよ貴様ぁ! 僕の自腹で扉の鍵を変えてでも、必ず追い出してやるからな!」

 そんな怨嗟の声を右から左へ聞き流しながらも、俺は全力で走り抜ける。

 羽村害獣駆除事務所。探偵とは程遠い業務内容を掲げる看板だけが、俺を静かに見送ってくれていた。

 


 羽村はむら正貴ただき、二八歳。

 あと二年で三十路という、所謂アラサーである。

 害獣駆除事務所を営む、しがない実業家ながら、経営が上手く言っているとは言えない。

 現在、仕事どころか、家主の孫に住処を追われ、公園へと退避中である。

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